プロローグ
佐倉ハツという名前がいやで、自分で書くときはいつも佐倉波津子と書いている。
ハツという名の由来は一月生まれだから「初」。父母はそこに出発の「発」、活発の「発」という意味もこめたそうだ。どうしてカタカナにしたのかと聞いたら、「モダンでしょ」と母は浴衣を縫いながら微笑んでいた。
「外国語っぽいからって、お父様がカタカナになすったの」
そういうのがモダンに思えるのは大正の御代までよ。
そんな憎まれ口を叩いたら、「いいじゃない、あなた、大正生まれだもの」と母は頭に軽く針を当てて髪油をつけていた。内職の仕立物のときはそんな仕草はしない。だけど家族のものを縫うときは、そうやって母はいつも針のすべりを良くしていた。
うっすらと涙がにじんできて、波津子は目を閉じる。
最近、目を開けていても夢を見る。見る夢は昔のことばかりだ。
朝、老人施設のベッドで目を覚ますと、日中はライブラリーと呼ばれている、本やテレビが置かれた部屋に連れていってもらう。そこにいて本を眺めていると、これまでの人生が夢のように浮かんでは消える。まるで自分が主演の映画を見ているかのようだ。
その夢が浮かび始めると、しばらくそれを楽しみ、疲れてきたら目を閉じる。そして眠る。起きたら、目を開けて再び夢を見る。自分ではその繰り返しのつもりだが、傍目には始終、眠っているように見えるらしい。
「ハツさん、ハツさん」
女の声がして、波津子は薄目を開ける。施設のスタッフの女性が目の前に立っていた。
ずっと佐倉波津子で通してきた。だけどこの施設では戸籍通りの呼び方をされてしまう。
ハツから波津子になり、再びハツへ。卒寿を越えた今、その変遷を知る人はほとんどいない。
「ハツさん、聞こえてますか、ハーツーさーん」
きこえて、います、と波津子は答える。続く言葉のために口を開けたが、うまく声が出ない。
「ただ、もっと……おおきな声で、話して、いただけ、ます?」
ごめんなさいね、とスタッフが軽くかがみ、波津子の耳元に唇を寄せる。
「さっき、面会希望の人……聞こえますか? ハツさんに会いたいっていう人が来てたんですけど」
「お断り、してくれた?」
「はい、いつものように」
卒寿を越えたら見知らぬ人が連絡してくるようになった。長寿の秘訣は何かとか、昔のことを話してほしいだとか、どれも興味本位の人々だ。だから最近、人にはもう会わない。
スタッフが小さな紙袋を目の前に差し出した。
「ハツさんのご体調のこともあるでしょうし、その方、無理にお目にかからなくてもいいとおっしゃっていました。ただ、どうしても、これをお渡ししたかったらしくて。『ハツコさん』ってその人、ハツさんのことを言っていましたけど……なんでしょう、お菓子かしら?」
紙袋をさかさにして、波津子は中身を出す。手のひらに板のチョコレートのようなものが落ちてきた。赤いリボンが結ばれた、薄くて黒い紙箱だ。
リボンをほどくと、手が震えた。はずみで箱が床に落ちると、なかから小さなカードがたくさん飛び出した。花札と同じサイズのカードにはチューリップやヒマワリ、スミレなどの花が一輪ずつ色鮮やかに描かれ、花の名がお洒落な手書きの文字で添えられている。
箱に手を伸ばしたスタッフがつぶやいた。
「きれい……なんてきれいな絵」
黒い箱には赤い薔薇を髪に飾った異国の乙女が描かれている。花の女神、フローラだ。彼女の背後には白や黄色のフリージアや、朱色のアマリリスなどが精緻に描かれ、闇に浮かぶ花園のように見える。
スタッフが箱に書かれた文字を指差した。
「これ、ゲームの名前ですか? ムーゲ・ラーロフ?」
「フローラ・ゲーム」
短く答えて、波津子はカードの箱を受け取る。日本語の横書きは右から左に書かれていた時代があったのだが、それを知る世代はもうわずかだ。
箱を裏返すと、赤いアネモネが一輪描かれ、その隣に凝った文字でなつかしい名前があった。
「乙女の友・昭和十三年 新年号附録 長谷川純司 作」
震える手で、波津子は箱を綴じていた赤いリボンに触れる。
記憶がたしかなら、このリボンがついた箱は……。
生きてて、くれたの、と波津子はつぶやく。
あの人は、生きててくれたの?
私を、見つけてくれた? 会いに来てくれたの?
面会希望者の話を聞こうとして、波津子はスタッフを見上げる。しかし、声が出ない。あきらめて小箱を胸に当てる。
なつかしい人々の名が心に浮かぶ。目を閉じると、それは鮮やかな像を結び、手を伸ばせば触れられそうだ。
おおい、と遠くから声がした。
おおい、ハツ公、と、彼方から友の声が聞こえてくる ――。
※1月16日(火)18時~生放送