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【第158回 直木賞 候補作】『彼方の友へ』伊吹有喜
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【第158回 直木賞 候補作】『彼方の友へ』伊吹有喜

2018-01-10 17:30
    プロローグ

     佐倉ハツという名前がいやで、自分で書くときはいつも佐倉波津子と書いている。
     ハツという名の由来は一月生まれだから「初」。父母はそこに出発の「発」、活発の「発」という意味もこめたそうだ。どうしてカタカナにしたのかと聞いたら、「モダンでしょ」と母は浴衣を縫いながら微笑んでいた。
    「外国語っぽいからって、お父様がカタカナになすったの」
     そういうのがモダンに思えるのは大正の御代までよ。
     そんな憎まれ口を叩いたら、「いいじゃない、あなた、大正生まれだもの」と母は頭に軽く針を当てて髪油をつけていた。内職の仕立物のときはそんな仕草はしない。だけど家族のものを縫うときは、そうやって母はいつも針のすべりを良くしていた。
     うっすらと涙がにじんできて、波津子は目を閉じる。
     最近、目を開けていても夢を見る。見る夢は昔のことばかりだ。
     朝、老人施設のベッドで目を覚ますと、日中はライブラリーと呼ばれている、本やテレビが置かれた部屋に連れていってもらう。そこにいて本を眺めていると、これまでの人生が夢のように浮かんでは消える。まるで自分が主演の映画を見ているかのようだ。
     その夢が浮かび始めると、しばらくそれを楽しみ、疲れてきたら目を閉じる。そして眠る。起きたら、目を開けて再び夢を見る。自分ではその繰り返しのつもりだが、傍目には始終、眠っているように見えるらしい。
    「ハツさん、ハツさん」
     女の声がして、波津子は薄目を開ける。施設のスタッフの女性が目の前に立っていた。
     ずっと佐倉波津子で通してきた。だけどこの施設では戸籍通りの呼び方をされてしまう。
     ハツから波津子になり、再びハツへ。卒寿を越えた今、その変遷を知る人はほとんどいない。
    「ハツさん、聞こえてますか、ハーツーさーん」
     きこえて、います、と波津子は答える。続く言葉のために口を開けたが、うまく声が出ない。
    「ただ、もっと……おおきな声で、話して、いただけ、ます?」
     ごめんなさいね、とスタッフが軽くかがみ、波津子の耳元に唇を寄せる。
    「さっき、面会希望の人……聞こえますか? ハツさんに会いたいっていう人が来てたんですけど」
    「お断り、してくれた?」
    「はい、いつものように」
     卒寿を越えたら見知らぬ人が連絡してくるようになった。長寿の秘訣は何かとか、昔のことを話してほしいだとか、どれも興味本位の人々だ。だから最近、人にはもう会わない。
     スタッフが小さな紙袋を目の前に差し出した。
    「ハツさんのご体調のこともあるでしょうし、その方、無理にお目にかからなくてもいいとおっしゃっていました。ただ、どうしても、これをお渡ししたかったらしくて。『ハツコさん』ってその人、ハツさんのことを言っていましたけど……なんでしょう、お菓子かしら?」         
     紙袋をさかさにして、波津子は中身を出す。手のひらに板のチョコレートのようなものが落ちてきた。赤いリボンが結ばれた、薄くて黒い紙箱だ。
     リボンをほどくと、手が震えた。はずみで箱が床に落ちると、なかから小さなカードがたくさん飛び出した。花札と同じサイズのカードにはチューリップやヒマワリ、スミレなどの花が一輪ずつ色鮮やかに描かれ、花の名がお洒落な手書きの文字で添えられている。
     箱に手を伸ばしたスタッフがつぶやいた。
    「きれい……なんてきれいな絵」
     黒い箱には赤い薔薇を髪に飾った異国の乙女が描かれている。花の女神、フローラだ。彼女の背後には白や黄色のフリージアや、朱色のアマリリスなどが精緻に描かれ、闇に浮かぶ花園のように見える。
     スタッフが箱に書かれた文字を指差した。
    「これ、ゲームの名前ですか? ムーゲ・ラーロフ?」
    「フローラ・ゲーム」
     短く答えて、波津子はカードの箱を受け取る。日本語の横書きは右から左に書かれていた時代があったのだが、それを知る世代はもうわずかだ。
     箱を裏返すと、赤いアネモネが一輪描かれ、その隣に凝った文字でなつかしい名前があった。
    「乙女の友・昭和十三年 新年号附録 長谷川純司 作」
     震える手で、波津子は箱を綴じていた赤いリボンに触れる。
     記憶がたしかなら、このリボンがついた箱は……。
     生きてて、くれたの、と波津子はつぶやく。
     あの人は、生きててくれたの?
     私を、見つけてくれた? 会いに来てくれたの?
     面会希望者の話を聞こうとして、波津子はスタッフを見上げる。しかし、声が出ない。あきらめて小箱を胸に当てる。
     なつかしい人々の名が心に浮かぶ。目を閉じると、それは鮮やかな像を結び、手を伸ばせば触れられそうだ。
     おおい、と遠くから声がした。
     おおい、ハツ公、と、彼方から友の声が聞こえてくる ――。


    ※1月16日(火)18時~生放送
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