序章

 陽が欠けていく。蒼天に突如現れた何ものかに喰われている。凄まじい速さで影が地を進み、砂埃の立つ往来も、壮麗な寝殿造りも、分け隔てなく呑み込んでいく。
「天帝がお怒りじゃ」
 牛車の物見が開き、公家が戦慄声を上げた。従者も天を指差し顎を小刻みに震わせる。
「京を離れるぞ」
 大きな荷を馬に背負わせた行商人は、一刻を争うように轡取りに命じて来た道を引き返す。陽が消えていくのは京だけという保証もないのに。
 奇怪な現象に怯えているのは、例外なく何かを「持つ者」であった。地位、領地、銭、物、その多寡こそあれ、それら全てをまとめ、栄華という言葉に置き換えてもよかろう。
 飢えに堪えかねて蹲る男がいる。朝から春を売らんと男に媚びる女がいる。京の外から連れて来られ、放逐された。しかし帰るにも路銀がない、あるいは帰るところすらない。多くがそうした者たちである。
「お迎えが来た……」
 男は己の膝に顔を埋めていたが、ようやく異変に気付き、ゆっくりと頭を擡げた。
「どうか、私をお助け下さい」
 女はただ祈った。その表情からは先刻までの退廃的な色は消え、巫女のように澄み切った目をしている。この変事に希望を見出そうとしたのは、「持たざる者」である。
 鳥は群れで空を旋回し、野犬は遠吠えを始める。喧噪の中、持つ者は激しく逃げ回り、持たざる者は動きを止めた。
 この世の終わりか、はたまた新たな世の始まりか。
 人々の錯綜する想いなど意に介さぬように、陽はみるみる欠けていき、やがてその姿を消し去った。辺りは薄闇に包まれ、京に一時の静寂が訪れる。絶望と希望、どちらも極まった時、人は声を失うものらしい。

第一章 黎明を呼ぶ者

 溺れてしまいそうなくらい見事な星空であった。息を吐くことを忘れるほど爽やかな風が吹き抜ける。美しい夜であるはずなのに、心には不安と焦燥感が渦巻いていた。
 男は中庭に降り立つと、天を見上げて下唇を強く噛みしめた。初老である。その証左に鬢には白いものが混じっている。しかし相貌は妖艶で、伏した切れ長の眼に、たっぷりと睫毛が乗っている。肌が透き通るように白いことも相まって、その姿はまるで妖狐を彷彿とさせた。
 手に一通の書状を握りしめたまま、一つ一つの星を凝視した。吉のようにも見えるし、或いは凶かもしれない。そもそも占星などに意味があるのかとさえ思えてくる。
 ──このことを皐月殿に伝えねばならん。
 文机に向かうと、紙に筆を走らせて封をした。柏手を打ち、従者を呼ぶ。
「愛宕山へ急げ」
 従者は頷くと、身を翻して屋敷から飛び出していった。再び新しい紙を取り出すと今宵の天の様子を写した。若い頃から陰陽寮始まって以来の英才と持て囃されてきたが、この期に及んでも答えを出せずにいる。皐月と関わり続けることを迷った時期もある。露見すれば出世の妨げになるどころか、流罪や死罪になってもおかしくない。しかし今日ではもう迷いはない。
 ──天の下では人に違いはない。
 ようやくその境地に達したのは、九年ほど前の天徳四年(九六〇年)頃であったか。皐月との間に子が生まれたことがきっかけであった。その時ほど己を疎ましく思ったこともない。最初は素性を知らぬとはいえ情を交わし、知った後も愛欲のままに抱いた。懐妊したと知れば恐れ慄き、無事出産したと聞けば一転して嬉し涙を零す。己の身勝手さに辟易した。
 生まれてきた赤子が、愚かな父の指を握ってくれた瞬間、心に巣食っていた闇は一気に氷解した。
 子が生まれたとはいえ、共に住むことは叶わない。正妻がいるからなどという理由ではない。複数の妻を持つのは当たり前のこと、正妻しかいない己は奇人扱いされている。
 皐月の素性に問題があった。皐月は洛中で恐れられている群盗「滝夜叉」の女頭目なのである。京の西にある愛宕山に居を構え、その配下は優に百を超える。
 皐月に出逢ったのは、天暦二年(九四八年)、二十一年前の夏のこと。
 夜半、大怪我を負った皐月が屋敷の塀を乗り越えて来た。皐月は洛外の鍛冶師の娘で、品を納めに来て遅くなったところ暴漢に襲われたと言った。躊躇いなく皐月を介抱した。
 その時の己は二十八歳。ようやく陰陽寮に俊才ありと名が知られ始めていた頃であった。一方の皐月は齢十九。汗も弾くほどに艶のある深黄の肌、背は五尺三寸(一五九センチ)と並よりも随分高い。京人のいう美女の規格には収まるまいが、凜とした中に独特の色香を感じて一目で惚れた。
 三月ほどして皐月の傷も癒え、屋敷から出ることになったが、それからも度々二人は逢瀬を重ねた。皐月は白粉臭い貴族の娘とは何もかもが違っていた。己を蔑むことは勿論、不要に敬うこともなかった。ただありのままに接してくれていることが心地良かった。
 三年ほど経って、皐月は自身が洛中を騒がす盗賊であることを打ち明けた。薄々おかしいとは思っていたが、まさかあの滝夜叉の頭目だとは思いもよらなかった。年に数度、配下を率いて貴族の屋敷から財を盗み出し、それで生計を立てているというのだ。
「何故そのようなことをするのだ!」
 皐月の肩を揺すり、問い詰めた。想う女に悪事から足を洗って欲しい。その一念である。返ってきた答えはさらに衝撃的で愕然とした。皐月は平将門の子だというのだ。将門は東で挙兵して、朝廷に盾ついた大謀反人である。さらに不遜なことに新皇と称した。明らかに帝への挑戦であり、このようなことを為す者、空前絶後に違いない。
「東夷よ。気でも狂れたか」
 京人たちは口を揃えてそう罵り、嘲った。その口ぶりには一抹の不安が含まれていたこともよく覚えている。
 天慶三年(九四〇年)、朝廷は軍勢を東国へ送った。十九歳であった己もその軍勢を見物していた。将門は朝廷軍を相手取り一歩も退かずに各地で奮戦し、最後など三千二百の朝廷軍に対し、僅か四百で敵本陣まで迫る戦いであった。しかし将門はそこで力尽き、旗印を失った反乱軍は、それまでの勢いが嘘のように一気に瓦解した。
 将門は何のために反乱を起こしたのか。
 いっときは皆が口々に噂し、様々な憶測をめぐらせたが、乱が終息すると熱が冷めたのか話題にも上らなくなった。将門の真意はついに解らぬまま忘れ去られたのである。
「同じ赤い血が流れているのに、なぜ我々だけが蔑まれ、虐げられねばならないのですか」
 子が生まれて間もなく、皐月は哀しげな眼差しを向け、訊いてきた。その言葉で男は、将門がなぜ朝廷に弓を引いたのか解ったような気がした。答えに窮していると皐月は続けた。
「奪われたものを奪い返しているだけです」
 愛宕山の盗賊、滝夜叉の者たちは将門の遺臣やその子らだ。皐月と同じ考えのもと、京に出でて略奪を繰り返している。彼らを見下してはいない。皐月と出逢い、話し、触れ、己と何ら変わりないということを知ったからである。そうでなければ他の京人と同じ考えを持ち続けたに違いない。
 皐月たちを救う術はないかとずっと思案し、模索し続けていた己のもとに吉報が持ち込まれたのは三月前のことである。話を持ち込んだ主は藤原千晴。左大臣源高明の従者を務めていた男だ。
「滝夜叉に伝手があるとか」
 そう切り出された時には心の臓が止まるかと思うほど驚いた。脅されるのかと思ったが、千晴は熱い視線を向けつつ、その類でないことを力説した。
「もしそうならば、如何なる話でしょうか」
「左府様は民の一統をお考えです」
「左大臣様が……一統とは?」
 鸚鵡返しに尋ねると、千晴はごくりと唾を呑み込んだ。
「童を御存知ですか?」
「うむ……当家にはおらんが」
 童とは大陸から入ってきた言葉で、「雑役者」や「僕」を意味する。家で身の回りの世話をする奴をそう呼称すると同時に、本来は朝廷に屈するべきという意味合いを込めて、化外の民をそのように呼ぶこともある。
「土蜘蛛、鬼、夷……童と呼ばれる者たちを臣下に迎え、天下和同を目指します」
「何ですと──」
 信じ難い話に思わず身を乗り出してしまった。
「左府様は英邁であらせられます」
 千晴はそう前置きした上で滔々と語り始めた。源高明は醍醐天皇の第十子。学問に長け、朝儀、有職故実にも通ずる者である。また京で有名な人相見に、これほどの貴相は見たことがないと言わしめるほど長者の風格を備えていた。
「他者を圧すれば、恨みを買う。恨みを買えば乱が起きる。乱が起きれば国は亡ぶ。その悪い流れを断つには、排することなく受け入れることが肝要だと仰いました」
 目が眩むような思いがした。己は皐月によってようやく思い上がりの心を捨て得た。しかし高明は自ら真髄を見出したのだ。そこでふと気に掛かったことがあった。
「千晴殿の御父上は……」
「はい。平将門征伐の将、藤原秀郷でございます。私も若年ながら従軍しました」
 混乱しているのを見てとったか、千晴は言葉を重ねた。
「父は下野の住人。在地で朝廷に召し抱えられました。東国の民の多くは、将門を支持していました。朝廷に従わせることが最良だといえるのか。父は困惑したまま戦い、京に移り住んでからも果たして己は正しかったのかと自問されていた。それは死の床に就いた後にも続いたようです」
 秀郷、千晴親子も同じ疑問を抱えていたことに胸を撫で下ろし、腹を括って尋ねた。
「私は何をすればよろしいので?」
「左府様の考えを妨げる一族がおります」
「右大臣師尹様か」
 藤原師尹。高明の政敵である。親疎や好悪で人を色分けする者の代名詞のような男である。
「官位の斡旋などで派閥を成し、左衛門府、右衛門府、右兵衛府などは奴の私兵といっても過言ではございません。動かせる兵の数、千は下らぬかと。和同を掲げる左府様なれど、此度のみは武で制さなければなりません」
「千以上ですか……こちらの兵力は?」
「私の他に中務少輔橘繁延、左兵衛大尉源連含めて二百足らず」
「分が悪いですな」
 皐月を虐げられる立場から救えるのではと淡い期待を持っていただけに、肩を落とした。
「しかし希みもあります。昨日、源満仲様が同心して下さいました」
「あの勇将の満仲様が!?」
 色を作して膝でにじり寄った。源満仲といえば洛中随一の武官である。五十八を迎え、その采配は神掛かっている。
「手勢は百程なれど、どの者も一騎当千。嫡男の源頼光様の聡明さは夙に知られており、その頼光様の配下には渡辺綱、卜部季武、碓井貞光といった剛の者が名を連ねております」
 頼光が並ならぬ智謀の人という噂は知れ渡っている。また名を挙げられた者たちは、若年だが、当節名を馳せている武人ばかりであった。希望に身が震えた。
「能うやもしれませんな」
「それでも数の差はまだ大きい。故に滝夜叉にこの義挙に加わって頂きたい。さらに滝夜叉と交流のあるという大和葛城山の土蜘蛛、丹波大江山の鬼にも参陣を請うて下さらぬか」
 全ての合点がいった。土蜘蛛にしても鬼にしても、滝夜叉を上回る、畿内有数の反朝廷勢力である。これら三勢力を併せれば四、五百の兵数となろう。高明は彼らを軍勢に迎えて決戦を目論んでいるのだ。迫害を受けてきた彼らが合力することは、通常ならばあり得ぬだろうが、今回ばかりは話が違う。高明が改革を成せば、世に蔓延る分け隔てはなくなり、彼らの暮らしにも安寧が訪れる。高明のような真の貴人はきっとこの先二度と現れることはなく、最初で最後の機会になるに違いない。
「やってみましょう」
「安倍様、ありがとうございます」
 千晴は手を握らんばかりに喜んだ。
 安倍晴明。それこそ己が名である。だがこの時ばかりは、人世にふわりと漂った符号のように思えてしかたなかった。事の壮大さに呑まれているのかもしれない。兵数は互角、こちらには天下に名高き源満仲、頼光親子がいる。それでも晴明は一抹の不安を拭いされず、自らの膝を叩いて弱き心を鼓舞した。


※1月16日(水)17時~生放送