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先日、公開初日の朝一に、渋谷のTOHOシネマズで劇場版「魔法少女 まどか☆マギカ」(以下「まどマギ」)を見てきた。
映画館は満員で、これはこの日上映された全ての回でそうだったらしい。しかも都内の他の映画館でも状況は同じだったというから、とにかくすごい人気だ。
来ていた客層は、ざっと見たところ9割が若い男性で、女性は、たまにカップルでちらほらといる程度だった。男性は、1人で来ている人もいたし、数人で連れ立ってきている人たちもいた。3人以上の団体も珍しくなかった。
これは、一般の映画ではあまり見られない光景だろう。現代では、価値観の多様化もあってか、3人以上の友人同士が同じ映画を見たいと思う状況というのは極めて希だ。しかし「まどマギ」の場合は、もとはテレビで放映されていたので、そこでついたファン同士が一緒に来ていたのだと思う。あるいは、むしろみんなで一緒に見ることをイベントとして楽しむために、わざわざ集まったのかもしれない。
公開初日の朝一の回は、そういう「まどマギ」のディープなファンたちがこぞって押しかけてきたような状況だった。だから、もっとお祭りみたいな盛りあがりを呈しているのかと想像したが、実際はそうでもなかった。
例えば「スター・ウォーズ エピソードI」が公開された際には、上映が始まると待ちわびたファンから思わず拍手と歓声が湧きあがった。しかし「まどマギ」においては、そうしたことは全くなく、皆シーンとして大人しくスクリーンを見つめていた。但しこれは、彼らが楽しみにしていなかったからというわけではなく、きっとそういう大人しい人が「まどマギ」のファンには多いのだろう。
特徴的だったのは、上映の間にトイレに行く人が続出したことだ。
理由はおそらく3つあって、1つは上映時間が長かったこと――2時間10分だった。
2つは、彼らにとってはずっと楽しみにしていた映画だっただけに、緊張から事前に飲み物を多めに摂ってしまったということがあったのではないか。それで、映画の最中に我慢できなくなった。
3つは、トイレに行ってもストーリーが分からなくなる心配がなかった――ということもあると思う。映画の最中にトイレに行くことの最大の不安は、ストーリーが進行して話が分からなくなることだが、劇場版「まどマギ」においてはその心配がなかった。
というのも、ストーリーがテレビ版と全く一緒だったからだ。絵は全面的に描き換えられていたし、台詞などのディテールにも微細な変化があった。ストーリーも短縮気味にテンポが早くなっていたが、流れ自体には全くと言っていいほど変化がなかったのだ。
そのためか、上映後の館内には少し拍子抜けした空気が流れていた。けっして面白くないわけではなく、むしろこの作品の面白さをあらためて感じることはできたのだが、しかしそこに新鮮さや驚きといったものはなかった。だから、物足りなさが否めなかったのだ。
特にこの「まどマギ」という作品は、テレビシリーズの時には次から次へと起こるどんでん返しにサプライズさせられることが魅力だったから、それが全くないことには肩すかしを食らわされた。
しかしながら、そうした「サプライズ」のなさが、かえって「まどマギ」の魅力の本質というものを浮き彫りにするのに貢献していた。それは、喩えていうなら、美味しい「冷や飯」を食べた時のような状況だ。
ご飯というものは、温かければたいてい美味しい。しかし冷めると、そこでは「お米の良し悪し」というのが美味しさの分かれ目になる。不味いお米だと、とてもではないが食べられたものではない。しかし美味しいお米だと、むしろ温かかった時には気づけなかった、お米一粒一粒の妙味というものが分かってきたりする。
「まどマギ」の映画版も、そういうところがあった。ストーリーで驚かされることがなかった分、その裏に隠されていたシンプルな魅力というものが見えてきたのだ。
前置きが長くなってしまったが、今回はその、ストーリーが同じだからこそ気づくことのできた、「まどマギ」の根底にある3つのシンプルな魅力について書きたい。
映画館は満員で、これはこの日上映された全ての回でそうだったらしい。しかも都内の他の映画館でも状況は同じだったというから、とにかくすごい人気だ。
来ていた客層は、ざっと見たところ9割が若い男性で、女性は、たまにカップルでちらほらといる程度だった。男性は、1人で来ている人もいたし、数人で連れ立ってきている人たちもいた。3人以上の団体も珍しくなかった。
これは、一般の映画ではあまり見られない光景だろう。現代では、価値観の多様化もあってか、3人以上の友人同士が同じ映画を見たいと思う状況というのは極めて希だ。しかし「まどマギ」の場合は、もとはテレビで放映されていたので、そこでついたファン同士が一緒に来ていたのだと思う。あるいは、むしろみんなで一緒に見ることをイベントとして楽しむために、わざわざ集まったのかもしれない。
公開初日の朝一の回は、そういう「まどマギ」のディープなファンたちがこぞって押しかけてきたような状況だった。だから、もっとお祭りみたいな盛りあがりを呈しているのかと想像したが、実際はそうでもなかった。
例えば「スター・ウォーズ エピソードI」が公開された際には、上映が始まると待ちわびたファンから思わず拍手と歓声が湧きあがった。しかし「まどマギ」においては、そうしたことは全くなく、皆シーンとして大人しくスクリーンを見つめていた。但しこれは、彼らが楽しみにしていなかったからというわけではなく、きっとそういう大人しい人が「まどマギ」のファンには多いのだろう。
特徴的だったのは、上映の間にトイレに行く人が続出したことだ。
理由はおそらく3つあって、1つは上映時間が長かったこと――2時間10分だった。
2つは、彼らにとってはずっと楽しみにしていた映画だっただけに、緊張から事前に飲み物を多めに摂ってしまったということがあったのではないか。それで、映画の最中に我慢できなくなった。
3つは、トイレに行ってもストーリーが分からなくなる心配がなかった――ということもあると思う。映画の最中にトイレに行くことの最大の不安は、ストーリーが進行して話が分からなくなることだが、劇場版「まどマギ」においてはその心配がなかった。
というのも、ストーリーがテレビ版と全く一緒だったからだ。絵は全面的に描き換えられていたし、台詞などのディテールにも微細な変化があった。ストーリーも短縮気味にテンポが早くなっていたが、流れ自体には全くと言っていいほど変化がなかったのだ。
そのためか、上映後の館内には少し拍子抜けした空気が流れていた。けっして面白くないわけではなく、むしろこの作品の面白さをあらためて感じることはできたのだが、しかしそこに新鮮さや驚きといったものはなかった。だから、物足りなさが否めなかったのだ。
特にこの「まどマギ」という作品は、テレビシリーズの時には次から次へと起こるどんでん返しにサプライズさせられることが魅力だったから、それが全くないことには肩すかしを食らわされた。
しかしながら、そうした「サプライズ」のなさが、かえって「まどマギ」の魅力の本質というものを浮き彫りにするのに貢献していた。それは、喩えていうなら、美味しい「冷や飯」を食べた時のような状況だ。
ご飯というものは、温かければたいてい美味しい。しかし冷めると、そこでは「お米の良し悪し」というのが美味しさの分かれ目になる。不味いお米だと、とてもではないが食べられたものではない。しかし美味しいお米だと、むしろ温かかった時には気づけなかった、お米一粒一粒の妙味というものが分かってきたりする。
「まどマギ」の映画版も、そういうところがあった。ストーリーで驚かされることがなかった分、その裏に隠されていたシンプルな魅力というものが見えてきたのだ。
前置きが長くなってしまったが、今回はその、ストーリーが同じだからこそ気づくことのできた、「まどマギ」の根底にある3つのシンプルな魅力について書きたい。
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