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p_fさん のコメント

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p_f
かつて このエピソードを知った経緯は失念しているが、再び触れることで、DRAMと化した自分の脳ミソがリフレッシュされる。

> それは外務省に限らない。多くの霞が関の官僚は生きがいを持って働いていた。

それは霞が関の官僚に限らない。多くの民間人も生きがいを持って働いていた。━そうも言えるのでないか。
単なるノスタルジーであるまい。紛れもない事実だろう。

>「今は昔」のお話です。

その後の日航123便撃墜事件~プラザ合意 辺りで日本人の体内にメンタルをダメにするウイルスが侵入してきた。勿論 比喩だが、一方ではこの30余年、免疫力は低下の一途を辿るばかり。ついに抗体は全滅し、今や見るも無残な死屍累々状況━そう捉えていいのでないか。
No.1
38ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 1980年、二度目の在ソ連大使館勤務を終えて、本省に帰ることとなりました。魚本大使が、「孫崎、一緒に食事をしよう」と言われ、昼食を共にしました。食事が始まるやいなや、魚本大使は、「君も本省に戻れば課長になる。それで一言言っておきたい」と切り出されました。私は「君も課長になるのだから、もう少し周りを見て行動しろ」と忠告を受けるものと覚悟しました。在ソ連大使館では、私は比較的好き放題の発言をしたのです。 「外務省では課長というポストは重要だ。それで政策が作られていく。外務省は課長には好きなように仕事をさせてくれる。自分の信念に基づいて最後までやり抜け」。  そして、魚本大使は、自分が北米局 安全保障課長をしていた時のことを話始めました。   第二次世界大戦後、米軍は東京・代々木に兵舎・家族用居住宿舎等の軍用地を持ち、この土地は 「ワシントンハイツ」 と呼ばれていた。東京オリンピックの主要競技場のすぐ隣に 「
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。