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<ビュロ菊だより>No.60『「セッション!」~<パンチドランク・ラヴ(レス)>に打ちのめされる、「危険ドラッグ」を貪る人々~』
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<ビュロ菊だより>No.60『「セッション!」~<パンチドランク・ラヴ(レス)>に打ちのめされる、「危険ドラッグ」を貪る人々~』

2015-04-08 21:00

     

     今から約1万6000文字という、大変な文字数で本作を酷評しますが、沢山の人間が大変な努力によって制作した制作物を酷評するという行為への義務&最低限の倫理として酷評の根拠は可能な限り明確にします。「無根拠で感情的/呪詛的な酷評に共振する興奮がお好み」という方に於かれましては「頑張って長文を読んだ結果、大変な徒労になった」という可能性があるので、予めお断りしておきますし、そもそも長文読解が苦手な方や、「長文」という言葉を目にした瞬間から苛立ちが止められないという重症の患者の方は、精神衛生上、絶対に読まないで下さい。筆者は責任を取り得ません。ではどうぞ。

     

    *     *     *     *

     

     

     

     映画批評の手法として、やや珍味ですが面白いと思いますので、こういうやりかたからはじめたいと思います。

     

     先ずはお手数ですがコチラをご覧下さい↓

     

     

      「セッション!」公式サイト

     

     

     各界で活躍される、錚々たるメンツですね。皆さん絶賛されております。公式サイトに寄せられたコメント集なのだからして、当然至極であります。

     

     これだけの豪華メンバー、そして、最近の「公式サイトに並べられるコメント数平均」からみて、「ちょっと多くね?」というに吝かではないポーションです。

     

     しかし、何かお気づきになりませんでしたでしょうか?

     

     この中に「ジャズミュージシャン」「ジャズ批評家」そして何はなくとも1人の主人公の職業である「ジャズドラマー」もしくは、もう1人の主人公の職業である「ジャズのビッグバンドのリーダー」が、1人でもいるでしょうか?ぎりぎりまで範囲を広げ「ジャズ関係者」としても、何人いるでしょうか?

     

     二度手間をかけまして大変申し訳ありません。再チェックしてみて下さい。

     

     ワタシの知る限り、それはジャズヴォーカルの綾戸智恵氏のみです(そして、氏のコメントは「ほぼ最初の位置」に掲示されますが、これについてはこの長文の最後に再び触れます)。

     

     綾戸氏は、冒頭に「音楽をする私としては吐きそうな映画や」と仰り「でもいろんな人が見る。先生も生徒も親も。それぞれに強烈なメッセージを送れるという点ではピカイチの映画や!」と続けて、最後は「私はニコルとピザ食べたーい」と結んでいます。

     

     綾戸氏らしい、実にオトナな、バランスのとれた素晴らしいコメントだと思います。

     

     以下ネタバレますが、「ニコル」はものすごく可愛い映画館のモギリで、主人公であるドラマー志望のガキと恋に落ちます。その、最初のデートがピザ屋で、そのデートのシーンだけが、本作の、普通に美しい、ハートに染み入るシーンです。若い2人は、ごくごく普通に、はにかみながらも熱く、夢を語ります。

     

     因に、このニコルは、終盤でこの、主人公のリズム音痴のガキが、ジャガジャガうるさいばかりの不快なドラミングに人生を捧げる為に捨てられますが、「主人公は、こんなに可愛い女の子を、にべもなく振ってしまうほど、ドラムに妄執しているのだ」という意味を示唆するだけの、重要度10ぐらいの存在です(どういう数値なのか基準が全然解りませんが&そういう脚本なので、その事自体が悪いと言っているのではありませんが)。

     

     繰り返し強調しますが、彼女は、女性である綾戸氏をして一緒にピザデートをしたいと思わせしめるほどにキュートです。そして、主人公である、リズム感の悪いお祭り騒ぎ太鼓しか叩けないガキは、苦悩の果て、逡巡の終わりとして決然と彼女を捨てるのではなく、もう、妄執に突き動かされて、繰り返しますが、にべもなくポイと振ってしまうのです。

     

     その後、映画の終盤、早く手を動かせば偉いと思っている、バカ以下のガキは、ニコルに振られ返されますが、映画は「確かにあそこはちょっと痛かった。しかし、もうそれどころではないのだ」という本作を駆動する妄執というベクトルによって、ぐいぐい進んで行きます。

     

     一度振った後に、もう映画にニコルが出てこないと思ったワタシは、このエピソードにすら嫉妬しました。「リズムとグルーヴの神に振られた哀れなオマエは一生手のひらから血を出し続けてるがいい。ニコルはもう戻らない。オマエにじゃない。この映画に。だ」というテレパシーをスクリーンに放っていたからです。

     

     かすかな嫉妬の感情のためにスリップが長くなりまして失礼。話を戻します。

     

     探偵小説の世界の名言に「木の葉を隠すなら森の中」というのがあります。「セッション公式サイトには<各界絶賛コメント>がぎっしり」。この「ぎっしり」は、一体何を意味しているのでしょうか?

     

     もし本作が、あの愛すべき「スクール・オヴ・ロック」だったら、<ギッシリ>の中に、どれだけロックミュージシャン、ロックギタリストがいたことでしょう。もし本作が、あの素晴らしい「キャデラック・レコード」だったら、どれだけブラックミュージックの批評家や愛好家がいたでしょう。先日、ワタシがラジオでご紹介したばかりの「はじまりのうた」だったら、どれだけの女性ポップスシンガー(ギターを弾きながら、自作曲を歌う。というスタイルの)が、どれだけのポップスの名プロデューサーがコメンテーターとして名を連ねたでしょうか?

     

     読者の皆様ご存知かどうか、我が国には、世界に出しても全く恥じる所のない名ジャズドラマーが数多くいます。実名を出しますが、小曽根真氏のような、世界を股にかけて活躍されている、ジャズのビッグバンドの偉大なバンドマスターがいます。あらゆる音楽大学にはジャズ科があり、一流の現役ジャズミュージシャンでもある講師達がいます(ワタシの友人も、その中の数多くを占めます)。そして何せ、実名を出しますが、あの菊地成孔大先生がいらっしゃいます(この中で、最も程度の低い男ですが)。

     

     単純に、不自然ではないでしょうか?「そんなの偶然だろ」と思う方も「ジャズ関係者は映画にコメントなんかしねえんじゃねえの?」と思う方もいるでしょう。


     しかし、想像してみて下さい。野球部を描いた映画に、野球関係者ではなく、フットボールの選手と、他業種のコメントが山ほどあって、野球関係者のコメントがポツンとひとつだけある事を(或はその逆)。



     

     何故、綾戸氏はたった1人に成ってしまったのか?

     

     答えは恐らく三択まで絞れるでしょう。(1)多くのジャズ関係者がコメントを断った。(2)そもそも配給会社の宣伝部の方が、何らかの判断によって、ジャズ関係者にコメントを発注しなかった。

     そして、少なくともこれは間違いない事実ですが(3)菊地成孔さんがオファーを受けて書いた、マスコミ試写用の解説がNGとして配給会社から突っ返されたからです(オトナのフォローではなく、ガチで申し上げますが、配給会社の方に落ち度は一切ありません)。

     以下、没になったワタシの原稿を、最低限の加筆修正を施して全文掲示します。掲示可能なのは、稿料を頂いてないので、原稿がワタシの私物にあたるからです。ではどうぞ。

     

     

     

     <ハラスメント漫画>の題材にされた<ビッグバンドジャズ>の凋落ぶり

     

     

     21世紀に入ってから10年以上が経過し、ひと区切りついた。といった事なのでしょうか、「20世紀の偉人」を映画化する動きが非常に盛んになり、<資料映像満載の、驚くべきドキュメンタリー映画>と言わず、<特殊メイクのように本人そっくりに役作りした俳優による伝記映画>と言わず、多数の名作、佳作が製作されました。

     

     

     特に、20世紀は「ポップ・ミュージックの世紀」でもあり、題材に事欠かず、といった感じで、現在も多産され続けているポップ・ミュージシャン伝記映画(及び、オリジナル脚本だが、音楽家を扱った映画)のほとんどは非常に優れています。

     まだ記憶に新しいマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT (09)」のような規格外の物ばかりでなく、ビヨンセが製作総指揮を務め、伝説のチェス・レコードを描いた「キャデラック・レコード(08)」、フレンチ・ポップスの人気歌手クロード・フランソワの数奇な人生を描いた「最後のマイウエイ(12)」、ダーレン・ラヴ等、一流アーティストのコーラスガール達の人生を綴る「バックコーラスの歌姫たち(13)」、ある種の奇人でありながら有能なプロデューサーでもあったリベラーチェの謎に満ちた人生を綴る「恋するリベラーチェ(13)」、コーエン兄弟の「インサイド・ルーウィン・デイヴィス/名もなき男の歌(13)」、イーストウッドの「ジャージー・ボーイズ(14)」、ドキュメンタリーでもクラシックからヒップホップまで、何れ劣らぬ傑作ぞろいです。

     

    (菊地追記*文字数の都合で書ききれませんでしたが、身体障害者であり天才ジャズピアニストであったミッシェル・ペトルチアーニのドキュメント「情熱のピアニズム」、あのグレン・グールドの人生、特に晩年にかなり肉薄した「天才ピアニストの孤独」、ヒップホップ界からは金字塔的な「アート・オヴ・ラップ」そして、執筆時には筆者は未見だった「はじまりのうた」も加えられるべきなのは言うまでもありません。そして何よりテレビドラマ「glee」の素晴らしさと影響力に関しては100万の言葉を費やして特筆すべきでしょう)

     

     特に20世紀と比べて発達したのは、当時の機材や当時の録音風景、当時の演奏風景などの<時代考証>で、劇映画であろうと、まるでドキュメンタリーであるかと思うほどのリアルさは、映画美術の、おどろくべき向上と共に、「マスメディアが発達し、多くの資料が残っていて、関係者も皆存命である、まだ15年前の前世紀」という事情による、緻密な脚本も相まって、音楽家や音楽評論家/研究家が見ても唸らせられる水準にあり、それらの作品群に一貫して流れる「音楽は素晴らしい」というシンプルで力強いメッセージは、如何に欧米がポップミュージックを文化遺産として敬愛し、誇っているかを示しています。後の時代は「2010年代は20世紀音楽映画の黄金期」と記すかもしれません

     そんな中、本作の様な大変なゲテモノが登場し、ゴールデングローブやサンダンスを始めとした多くの映画祭でフェイムとプライズを獲得した。というのは、「まあ、そろそろこういうキツいのが来るだろうな(笑)」という、うっすらした予想を遥かに覆す事実で、ジャズミュージシャンノ端くれとして、とにかく申し上げたい事は「念のため誤解なきよう。これはマンガです」という一言のみです。

     一応、ニューヨーク帰り、或はニューヨークで活動中&就学中等々のジャズミュージシャンに「アレ観た?」と聞いてみた所、観た者のほとんどがゲラゲラ笑って椅子から落ちるか、或は憤激するか、或はその両立でした(菊地追記*一番憤慨されていたのは引退されたジャズピアニストの大西順子さんです。さすがプライヴェートメールは公開しませんが、特にこの映画の、ジャズに関するテクニカルタームのデタラメさに関して、大西さんは多くの言葉を投じておられます)。

     これはあくまでワタシの個人的な意見ですが「ジャズ」が「大学の授業」として「白人」に仕切られている限り、それは二流のクラシックとして衰退の一途を辿り、「誰も知らない世界だから、マンガにでもしてしまえ」とでも言うべきこの作品が高く評価され、誰でも笑ってみられる、カリカチュアライズされたマンガというコンセンサスが取れていれば良し、瓢箪から駒とはいうが、そのうち現実がマンガでなくなってしまったらどうしよう?今から英語の勉強をし、アメリカを救出に向かわなければ、、、と焦った程です。

     

     実際は順番が逆で、「音楽映画はみなハートウォーミングでリスペクトに満ちている」といった状態に対し、ネット等によってイライラさせられている人類の欲求不満が、この「ファイトクラブ」や「フルメタル・ジャケット」(両作は崇高な文学的名作なので、マンガと比べるのは気が引けますが)のような、ヴァイオレンスやハラスメントによって駆動する物語を大いに萌えさせたのかも知れません。

     何れにせよそれが、「ジャズ/大学/白人」の映画であった事にゲンナリしながら(「Glee」の悪意版とも言えるでしょう)、主人公の2人には1ミリも移入出来ませんでしたし、流れる音楽も今ひとつ、ガキのドラムはリズムを愚弄するかの如き、戯画的な大暴れのみ、しかし映画としては駄菓子の様に味が濃いので、ついつい引き込まれてしまう。といった、非常にタチの悪い、現代的な魅力があります。

     

     菊地成孔(ジャズ・ミュージシャン/文筆家)

     

     

     

     

     

     一瞬口調が変わっちゃうけどねえ、これだってものすげー頑張って書いたのよ!!(笑)ビシビシに伝わって来るでしょうよ。ワタシがどんだけオトナなのかという事が(笑)、いや逆か?適当に当たり障りない提灯書いて小銭貰えばグラスワインの5杯ぐらいにはなってたぜ!!正直モンは損するちゅーことよのう!!わっはっはっはっはーーーっと!!!

     

     失礼。口調を戻しますが、もし本作が、バスケットボール部とプロバスケの世界(バスケでなくとも、ゴルフでもチェスでも、ワタシが知らない世界なら何でも良いんですが)を描いた、白人の(JKシモンズは「黒ずくめ」であり、どちらかというと色黒なので、先ずはそこから確認するぐらいが良いのかもしれません。主人公は2人とも白人です)の鬼教師と、白人の、「才能はあるが未開花な状態の少年」が主人公の「WHIPLASH(本作の原題)」だったらならば、ワタシは呑気にコメントもしませんが(後述する理由で、本作は、「ジャズを侮辱している」という第一義を摘出したとしても、第二義的に、「スポ根ハラスメント映画としても出来が悪い」からです)、恐らくこれほどまでに憤激はしなかったでしょう。

     因みに、原題は劇中で演奏される曲名ですが、どのジャンルの映画にも流用可能です。「WHIPLASH」はSM映画やSM小説を英語で嗜む方には御存知「鞭の先端(しなって打ち付ける部分。因に握り手は<GRIP>)」という意味だからです。

     

     憎悪や呪詛の空間的な充満がインターネットによって必要以上に可視化された現代では、<憤激する>という行為は、第一にはほとんどが虚しく、心身に余りよろしくないですし(上質のプロレスの、名人芸たるヒールに対する憤激の様な、浄化のための、素晴らしい聖なる憤激もありますが、このクソそっくりの映画は、とてもではありませんがそんな代物ではありません。というか、後述しますが、本作は「怒り」よりも「恐怖」と「憎悪」を刺激する、マーケットリサーチばっちりの現代駄菓子で、民が甘やかされて怯えながら生きている現代社会の中で、ついつい喰ってしまう様に出来ています)、第二にそれは、憤激者のトローマもしくは個人的な偏り(トローマも個人的な偏りの一部ですが)を表出するだけの、つまり自白行為になるだけです。最初に引用した、綾戸智恵氏の「吐き気」という表現は、誇張ゼロのリアル100だとワタシは確信します。

     

     ですので、本作へのワタシのスタンスは、「自白的に憤激している」という側面と、「冷静に分析している」という、脚韻を踏んだ2つの側面が両立していることになります。

     

     両者をだらしなくミックスしたままだと読みづらいでしょうし、意味も分りづらくなるでしょうから(ほとんどの「感情的な批評」が「何を言っているのか分らない」のは、書き手がそういう状態にあるからです)、前者と後者を分けて書きます。

     

     

     

     (1)(アメリカの) 大学で(白人が)ビッグバンド・ジャズを教育する。という側面について。

     

    *以下、ジャズ界、ジャズカルチャーに全くご興味が無い方には、かなり解りづらい長文となり、かつまた、スキップして頂いても、全体の読解にさほどの支障は来さない旨、予めお断りさせて頂きます*

     

     

     我が国では、全国の中~高校のブラスバンド部の多くがスイングジャズのレペートリーを取り入れる事のきっかけとなり、楽器屋や楽譜屋やCD屋への経済効果がハンパなかった「スイングガール(04)」という佳作がありますが、これは、良い意味で如何にも00年代前半的の日本映画的と言いましょうか、「女子校で女子高校生が頑張る、泣けて笑える青春映画」なので、実に素晴らしく、文句の付けどころがありません(因みに、伝統の専門誌「スイングジャーナル」の実質的な廃刊は6年後の2010年です)。

     

     第一にコレは部活であって、プロのジャズ界と、むしろ繋がっていないという強度が、ワタシに自白させる隙を与えませんし(無茶苦茶インサイドストーリー。それこそが一種の「自白」ですが、この映画と逆方向に、つまり実存のジャズ界が「リアル、スイングガールズやろうよ(女子高校生だけのブラバンJAZZをプロデュースしませんか?)」という企画を、ジャズ・プロデューサーの菊地成孔さんに持ちかけては断られ、、、、といった事実はあります。因に、この第一項は、ご推察の通り、ややもすると「映画批評」の枠を巨大に超え、無限に近く広がるポテンシャルがあるので、コンパクトに畳み込む事に執心しながら書いています)、第二にコレは「へたっぴでも、コンテストの結果がどうであろうとも、音楽は素晴らしいんだ。合奏という行為は、音楽愛、友愛、恋愛、性愛をも悠々と含んだ、愛の行為なのだ。<みんなで頑張る>という行為は、愛によってのみ駆動するのだ」という、音楽を扱う上での最低限の要所をしっかりおさえています。

      一方、名すら呼びたくない憤激によって、気がついたら今まで、約7000文字(タイトル含む)も邦題を書かなかった本作、「セッション!」は、<音楽大学>のジャズ学部、中でもビッグバンド部を描いています。

     つまり実際のジャズ界と連結していますし、未見の方も概ね想像ついていると思われますが「笑い」は、よっぽどかきあつめても0・1とか2とか、「泣き」は0・000003から5(どういう数値か基準が全然分りませんが&そういう脚本なので以下同文)とか、その程度です。念のため「音楽映画は、笑って泣けなければいけない」と断じているのではありません。

     

     「ああ、巨人の星的なパロディ熱血で、あまりにエグくて笑ってしまうのだな」とタカをくくっていると、まったく笑いは無く、悪夢的な憎悪の循環に引きずり込まれて、結果「もの凄いモンを見た」と思わされるハメに成ります(「悪夢」というのは概ねそういう物です)。

     

     もし本作に「何らかの現代的な新しさ」を認めるとするならば、唯一この点なのですが、誰が喜ぶ新しさなのか?それについては後半で詳述します。

     

     「実際はものすげー温厚な紳士なんだろうな(実際そうなのですが)」という感が余りにミエミエすぎる、しつこいようですが、斜め見だとうっかり黒人だと思い込んでしまわれる可能性のある(なにげにココ重要)、狂気の鬼コーチ、JKシモンズ(本作で唯一のオスカー受賞→最優秀助演男優賞)は、冒頭で、主人公のガキが参加したいと憧れる、一流ビッグバンドのリーダーにして大学の先生、として登場しますが、映画の途中からその側面は実質を空洞化させて行きます。

     

     というかそもそも、こんな性格異常者、アメリカの大学だったら、訴えられるか(後に訴えられるのですが)、射殺されるか、生徒全員のリコールにあうかするでしょう。よっぽど天才的な作曲や指導を見せない限り(因みに生徒には、アフロアメリカンも、あらゆるラティーノもいますが、音楽大学に入学出来るという事で、少数である上に一律おぼっちゃま感を湛えています)。

     

     そして、本作内での彼の作曲も選曲も編曲も、肝心金目の指揮ぶりも、ジャズメン、ジャズ批評家の端くれとして、色眼鏡無く言わせて頂くならば、「ガチで中の下」ぐらいであって、この点が本作の最大の弱点です。

     

     しかもそれは、本作個別の失態を越え、業界構造的な弱点なので、ワタシのツイストした憤激も治まらない、という仕組みなのであります。

     

     また、前述の「突き抜けて笑えるんだろうな」と並んび、観客への誘導強度があるのは「本当の本当は、この先生は愛に満ちた善人なのだ」というベクトルですが、これも無惨に打ち砕かれます。

     

     この時の「唖然」が大きければ大きいほど、このSHIT FILMは悪夢化し「すげえモン観た(実際はぜんぜんすげくねえのに)」という感想を引き出すと思われます。

     

     以下、クライマックスネタバレになりますが、実は大変な悪人だった(生徒を追いつめて自殺させたのを、交通事故と偽って、生徒の前で泣いてみせたりする)先生は、生徒に射殺されるのでも、支持を失うのでもなく、「どうやら自殺らしい(親が訴訟に来る)」という形で退職処分になります。この部分の書き込みは、ちょっと曖昧で、とはいえ「曖昧さ」が脚本の中で意味を持つ事はありません。私感では、相当緩い脚本ですが、この点は(2)で詳述します。

     そして、安目のバーのカクテルバンドのピアニストとして彼は主人公と、偶然再会しますが、「ええ?誰もが入団を渇望する、一流ビッグバンドのリーダーじゃねえの?先生クビになったら一気にここまで転落する訳?」と、一瞬眉間に皺が寄るも、ここも「風評被害の世の中、悪評が炎上して、必要以上に落ちぶれ果てた結果」なのか、「アメリカの地方都市において、ジャズなんてビジネスとしてこんなもん」なのか、いまいち瞭然としません。

     

     ガキと再会した先生は「明日、ワタシのコンサートに出ないか?」とか言っちゃって、別に落ちぶれ果ている訳ではないようですし、その後展開される、「驚愕のどんでん返し」(しつこいようですが、この「驚愕」は、脚本の緻密さに依るものではありません)の舞台も、何だか大学の校舎なんだか地方の公民館なんだか、客も熱狂してんだか、クールなんだか、ちゅうーっとはんっぱな人数と温度なのです。

     とーこーろーが、「これがジャズのリアリティでしょ」と言われれば、実はその通りな所もあるんですね(苦笑100回)。

     

     ワタシの心中の叫びというか祈りというか「こんなのは、いまどき古くせえビッグバンドジャズを大学で白人が仕切ってる世界の話しであって、ジャズ界の総てじゃねえっす!!ってうか、この映画、ジャズの何がやりたいのか、ジャズ素人が適当にやってる映画ですジャズ知らずの観客の皆さんっ!!」というものでした。

     

     回想に入ります。Amazonのユーザーズレビューに於けるワタシのアクションをチェックされている方には引用である事が分ります。この批評中の必要性としては絶対ではないので、興味の無い方はスキップして頂いても問題ありません。スキップから戻られる場合は7段落後に。

     

     

     

     ワタシは2007年に石川県七尾市で開催された「日本ジャズ教育サミット プレ大会」という催しにパネリストとして参加しまして、「日本の中~高校教育に於けるジャズのあり方」的な、完全に場違いな場所に投下されました。

     

     「東京大学のアルバートアイラー」によって「大学でジャズ史を教える先生」と目されていたし、そもそもオファーして来たのが、師匠である山下洋輔で、断れなかったからです。

     

     パネルディスカッションに於けるワタシの完全無欠の空回りぶり、嫌な奴ぶりは、動画に残っていたら是非公開したいほどです。いかに若気の至りとはいえ、嗚呼、ワタシは、現在では自分のパーティー「HOT HOUSE」の最高顧問であり、恩人とも言うべき瀬川雅久先生にまで、遠慮会釈無く食いついたのです(この集会のすべてを小説にしたら直木賞が取れると思うのですが、スリップにしても長過ぎるので、詳細はまたの機会に)。

     

     その後、SHIT以外の何物でもないパネルディスカッションが終わると、ファンファーレが鳴り響き、<モントレージャズフェスティヴァル・ジャズ教育部長/カリフォルニア州音楽教育協会前会長/カリフォルニア大学教授>という大変立派な肩書きのDr.Robert B Klevan氏という白人男性が「アメリカに於けるジャズの現状と教育」という、大変有り難い講話をされたのですが、その、反吐が出るほどファックな「ジャズ史」「教育観」は、レイシストであり、権威主義者であり、反マリファナ主義者であり、あろうことか、ヒップホップカルチャーを愚弄する、ジャストナウ即刻キルユーな物でした。今でも鮮明に憶えている、冒頭の部分のみ引用しましょう。

     

     

     

    <(威厳に満ちた怖い顔で)お集りの皆様。アメリカに於いて、今やジャズは、ドラッグのイメージと完全に切り離された、健全な教育的芸術として認知されています。一部の有色人種が与えてしまった悪いイメージは完全に払拭され、多くの中産階級の親達は、子供達に大学でジャズを学ばせようとしているのであります>

     

     ワタシはゲラゲラ笑いながら、パーカー以降のモダンジャズ全般どころか、ラテンカルチャー、ヒップホップまでを憎悪している、白人スイングジャズ原理主義者ドクターロバート・B・クレヴァン教授のありがたい訓話に対し、終止パネリスト席から中指を突き立てておりました所、石川県の関係者の方に、耳元で「すみません菊地先生。お手を下げて下さい」と言われ、笑顔で「あ、すいません(笑)」と言いながら上げ続けていた所、凄い力で手を掴まれたので、振り払って中座した、という経験があります(懐かしさと苦笑101回)。

     

     

     つまり、あくまでワタシ個人にとって、この映画は、二度と会う事も無い筈の、あの狙撃すべきだった白人の亡霊です。

     

     

     何故主人公のガキが、クリスデイヴとまでは言わずとも、エルヴィンやディジョネットやトニーではなく、バディ・リッチを信奉しているのか?単なるレトロ趣味という事(そういう側面も描かれますが特に前述のピザデートのシーン)だけではなく、もっと物語の中核を担う構造的な意味がきっとあるのだ。と思っていたら、まさしく「あった」わけです。

     

     既にかなりの長文な上に、結構なジャズマニア以外にはメイニアックな話に成っていると思われますので急転直下、一般論化しますが、つまりこの映画は、粗悪な「悪夢」の舞台として、比較的適正に、ジャズカルチャー全体の中の、ある地点を選択した上に、前述の通り、実際に奏でられる音楽が「ガチで中の下クオリティ」なので、映画を駆動させている唯一のエンジンである、発狂せんばかりの妄執と、まったく釣り合いが取れません。

     

     そして、音楽考証の部分がかなり雑。という、ワタシの自白的な憤激を煽って止まない属性ががっつり作品を律しています。

     

     どんな現場や、どんな趣味を持つ、どんな誰にだって、「ここを突かれたら嫌だな」という構造的な急所はある筈です。そこを映画で描かれれば、第一接触としては否定の感情が沸き上がるでしょう。しかし、その考証の部分が、完全にワンダーなフィクション/妄想や、完全なリアル(良く取材しているなあ)であれば、やがて第一接触で沸き上がった院政の感情は消えると思いますし、持って行き方によっては、爽快感や感動に変わるかもしれません。想像してみて下さい。<嫌な所を中途半端にヤラれた時>の事を。

     

     ガキの神様はバディ・リッチです。先生はガキに「屈辱こそが意欲の源として最大の物である」旨諭すのに、有名なチャーリー・パーカーの有名な「シンバル事件」を語ります。そして、高い確率で「鬼のビッグバンド指導者像」には、実際に双極性障害であり、メンバーを殴って歯を折った実績のある、チャールズ・ミンガスが投影されています。根拠は?劇中、最初にハラスメントで泣かされるのはトロンボーン奏者の学生です。ミンガスが歯を折ったのはトロンボーン奏者、ジミー・ネッパーズです。

     

     

     そして、映画の題名であり、主題曲名である「WHISPLASH」は、8ビートのジャズロックです。先生が生徒に求めるドラミングは、とにかくムチャクチャに両手両足を動かしまくる、北斗の拳のような大暴れです。

     

     ぐちゃぐちゃすぎんだよっ!!(苦笑)

     

     脚本家がジャズに関してメイニアックなのか付け焼き刃なのかは、この際問題ではありません。しかし、「ビートルズのマージービートに憧れる生徒に、先生の訓話がヘビメタ、先生のモデルはどうやら50セント、そして主題歌がテクノ」という映画があったら、そのぐちゃぐちゃ感は齟齬としてしっかり機能し、爆笑、もしくは別の効果を生じさせるでしょう。

     でも、ここではそうなりません。劇中この齟齬は、悲しむべき事に、投げっぱなしに終わり、更に悲しむべき事には、ほとんどの観客は、その投げっぱなしにクレームをつけません。

     観客全体にジャズのリテラシーがない、という悲しむべき前提を受け入れるとしてもなお、「そんでいいのかよ」と思わずにはいられません。真摯なジャズミュージシャンである限り、褒めコメントは無理です。ワタシじゃなくとも。

     

     前述の「曖昧なクビの理由」となる母親が訴訟、実は自殺だったかもしれない生徒に関する台詞の大意はこういうものです。

     

    「彼は大変な才能があり、私がそれを徹底的にしごいて開花させた。結果、彼はウィントン(ほぼ間違いなくマルサリス)のビッグバンドの4番トランペットになった。しかし、、、、、不運な事に(震え声)、、、、彼は、、、、(落涙)。。。。交通事故で亡くなった」

     

     劇中、唯一存命のジャズメンとして名前が挙がる、そして、80年代のデビュー当時から「ジャズを大学の教科に」をライフワークとし、このクソ映画のイメージ原型、というより、現実世界にそのセッティングをした張本人であるウイントン・マルサリスの、この台詞、この映画全体に対するコメントがどういうものか、検索も英語もままならないワタシには知る由もありませんが、ワタシの第一希望は「オレ関係ないよ。違うウイントンでしょ(微笑)」です。もしそうでなかったら、あのウィントンが名誉毀損で訴訟しない理由が存在しません。

     ガキのドラムプレイ、先生のビッグバンドサウンドを「ヤッバいなー。役者も特訓したんだなあ。サウンドトラック欲しい」と心底思ったジャズミュージシャンの方、もしいらっしゃったら挙手を。そして、「いや、オレ観てないから」と仰る、総てのジャズドラマーの方は、ワタシが私費でチケットをご用意するので必ず観て下さい。そして、ワタシと同様かそれ以上の憤激をスクリーンにぶつけて下さい。

     ワタシは、憤激を共有して、気に喰わない物を潰そう等という、映画の悪役、もしくは低劣なネチズンのような事を言っているのではありません。大いなる救済を用意しているからです。「バードマン」という映画のチケットを同封します。「二本も映画みさせやがって。めんどくせえ」という後悔は絶対に与えません。

     

     

    (2)「ジャズ全部飛ばし」と仮定して観たとしても

     

     「アメリカン・スナイパー」に対する拙文をお読み頂いた方には「ははん。あのときと同じく、前段が周到で、オチが短いんだな」と推測された方もいると思われますが、果たして概ねその通りです。(2)の論旨は既に(1)に頻出しています。

     

     この作品は要するに、最初に一発かますだけの作品です。

     

     冒頭に引いた伏線を回収します。<コメント欄の最初の方に綾戸智恵氏のものが設置されている>のは、50音順の掲載とはいえ「公式サイトを閲覧している人々が、漠然と<ああ、ジャズの映画だから、ジャズ関係者のコメントがいくつかあるのだな>と思わせる」効果を持っています。嘘だと思うのなら、あのスクロールの一番下に綾戸氏のコメントがある、と想像してみて下さい。

     

     主人公のガキが、初めて先生のビッグバンドのリハーサルに参加する事によって地獄を見る場面(「椅子投げからビンタまで」)。は、その多幸的側面、愛の表現に偏りがちな「<音楽>という素材を使った映画史」中、例外的なハラスメント・シーンとしては、ひょっとしたら映画史に名を残すかもしれません。

     

     ここには、いくつもの「神経逆なで」が、下品なパフェのようにタワーリングしています。厳しいが人格者であり、愛を持っているであろう先生が、性格異常者である事、(1)にある「専門的な見地」にとっての「あんな指導ねえよ。やり方以前に、具体的内容がおかしすぎる」という事。そして、そもそも音楽映画がハラスメント表現に足を踏み入れた事。

     

     故・破壊王橋本真也は、伝説となった小川との第一戦の後のインタビューで、キレながら「最初に一発いいのが入って〜、記憶が飛んじゃったから〜(だから負けてしまったし、何より「良いプロレス」が出来なかった。ケーフェイに抵触するから今は言えないけど、あれは猪木が仕組んだ不意打ちだクッソー)」という名言を残していますが(プロレスファンの方以外は、何となく推測して頂けると幸いです)、要するに<最初に入る、良い一発>は、その後の試合中の意識をおかしくさせる訳です。「パンチドランキング効果」ですね。

     

     脚本上の「どんでん返し」は、つぶさに観れば、かなりいい加減で、ハラスメントによる感情の激しさに頼り過ぎの勢いまかせで、復讐心や策略、即時的な反転、といったスピーディで複雑な物語を、畳み掛ける様に見事に展開した、と評価するには伏線も上述も曖昧過ぎ、「最初に入った<良い一発>によるパンチドランキング効果」がなければ、とっくに露呈している筈です。

     

     「だったら<多くの人々に良い一発を入れたコレは傑作>でいいんじゃねえの?ジャズマニア以外にはどうでも良い事だよオマエが言ってる事は」という声が大多数かもしれません。

     

     「最後まで完璧に緻密な脚本、っていうのもいっぱいあるけど<破綻している脚本だけど、悪夢的な効果を上げる娯楽作品、って事で評価されてる映画>なんて腐る程あるぜよ」という声も。

     

     仰る通り。では何故、ワタシが自覚的に酷評しているのか?(1)という、いささか一般性を欠く、個人的/社会的な特殊事象があるから?それだけではありません。根本的にもうダメなのよ。

     

     ワタシの「アメリカンスナイパー」への最終評価基準と、「セッション!」のそれはほとんど同じ物です。

     

     この程度の鬼バンマスは、実際の所、さほど珍しくないのです。

     

     もう一度。

     

     「アカデミー助演賞を受賞したほどの凄まじいキャラクターである、この程度の鬼バンマスは、実際の所、さほど珍しくないのです」

     

     地方のブラスバンド部、そこらの市民オーケストラ等にはいくらでもいるのではないでしょうか?

     

     数ある実体験のうちの一つを。現在は闘病中であり、実名は敢えて出しませんが、菊地雅章氏という、ワタシのバンドでもカヴァーさせて頂いている「サークル/ライン」の作曲者のバンドにワタシが参加した時は、この映画のような激しい物ではなく、陰湿で粘着的な物でしたが、目を覆うようなハラスメントが行われた事がありました。2時間のリハーサルで4小節しか進まなかったのです。

     

     ワタシは、そのターゲットとなった先輩プレイヤーが半べそをかかされるのを見て、菊地氏を音楽家として心から尊敬していなかったら、本番が出来ないように、一本残らず指を折ってやろう、いや、一本だけで良い。切断するのであれば。と、心中で何度も何度もシュミュレーションを重ね、いつでも実行出来る様に待機していました。


     
    しかし結果としてステージは素晴らしく、病的な鬼バンマスである菊地氏も、ハラスメントを受けた先輩も、殺意を抱いていた若き菊地成孔氏も、全員グルーヴィーでハッピーになったのです。


    これこそが音楽の、正常な力なのです。

     

     と、既に映画評としては超長文化していますので、ついでに体験談をもうひとつ。この映画のもう重要なフックである<出血>の話です。


     昔、ワタシの生徒で、ワタシに恋焦がれ、私塾を受ける為に上京して来た子がいました(中年男性です)。面接の際、彼は、とにかく自分の演奏を聴いてほしい。と言い、おもむろに凄まじい音量で熱演を始めました。ところが彼は、サックスの基本的な奏法を知らなかったのです。

     ビギナーながら緊張し、緊張しているが故に没入してる、その微笑ましさと危なっかしさに苦笑しながら緊張を共有していたワタシは、彼の口の脇からピンク色の唾液がたらーっと垂れて来たのを物がしませんでした。


     「うおー!ちょちょ、ちょっと、やめやめ!!」とワタシは叫びました。彼は「え?は、はい」といって、「はい」の瞬間に、口から大量の血と唾液を床にぶちまけました。


     そして、ちょっと天然気味の愛すべき彼は、「あ、やべえ。何だコレ。あーやっちゃった。うわー。すげー。あははははは」といながらハンカチを探し、ワタシも大いに笑いました。「良い演奏だったよ。ただ、唇の内側は粘膜だ。だから、あんまり噛んだら歯が貫通する。とりあえず医者に行こう(笑)」と言って。

     

     ここには、不器用で危なっかしいながら音楽愛、そして初対面の師弟愛があったからだと恥ずかしげも無く申し上げたい。この映画に描かれる出血は、ただただ痛々しいだけです。痛々しい出血シーンが一義的に悪である筈もありません。ワタシが不快なのは、この出血が、音楽的な実質も、愛も欠いた、からっぽというよりは嫌な方向に間違って進んでいるからです。


     この映画程度の恐怖と不快のワンパンで足に来てしまい、「ひき込まれた」「息が出来なかった」もしくは「凄まじいどんでんがえしが圧巻」「一瞬も気が抜けなかった」という人々の人生は、過去ハラスメントがなさ過ぎたか、あるいは有り過ぎたか、未知の恐怖に対する予期不安だとしても、フラッシュバックだとしても、いずれにせよバランスの悪い物だと思われますので、気をつけて下さい。ワタシも気をつけます。

     

     そして、世界中でこの程度の映画がこれほど評価されるのは、こうした予期不安とフラッシュバックが蔓延している世界の欲望に、見事に応えたからです。平和ボケと戦争不安の日本も、戦争依存症で後遺症まみれのアメリカも、求めている物は鏡面的に同じなのです。

     

     もはや、完成された知的でエレガンスなSMプレイや、上質のプロレス、20世紀的なトラウマ映画の強度よりも、素人が制作した、脱法ハーブ改め危険ドラッグのような、粗悪なペニシリンが早急に必要な世界が、ソマリアやガザの外側に広がっているのです。

     

     「セッション!」という邦題をつけた方の意図は知る由もありませんが、ここで扱われる音楽は即興のセッションではなく、リハーサルが必要な編曲物です。ここでの「セッション」は、主人公2人のタイマンによる、精神分析的な、罵倒療法的な意味でのセッションであるという解釈が可能であり、もしそうだった場合、「トラウマチック」と並び、またしてもフロイドは安値に堕したとしか言いようがありません。

     

     そうした粗悪なペニシリンの原材料として「大学で白人が教えるビッグバンドジャズ」は、身を切るような思いで申し上げますが、残念ながらぴったりなのです。

     

     もし「鬼コーチのハラスメント」がヘヴィメタ学校(存在します)だったら、上質のコメディになったでしょう。DJ学校(存在します)だったら、素晴らしい暴動の物語になったでしょう。本当に、タチの悪い現代性=新しさを持った映画です。

     

     (1)で急性の憤激を得たワタシは(2)で、慢性的な苛立たしさを得ました。サンダンスがアマチュア製造の粗悪ドラッグにまで手を出したかと思うと、やっぱ今年のオスカーは信用出来るな。という感を新たにしました。

     

     え?「じゃあ、もしドラムやバンドが素晴らしかったら、どう思った?」って?そんなもん脚本の不出来をさっぴいても100点満点ですよ。音楽が素晴らしければ、悪夢だって素晴らしいに決まっているではありませんか。「アウトレイジ」の暴力は、「博士の異常な愛情」の終末感は、「マラヴィータ」の、街の住人全員殺害も、あらゆる皆殺し映画の爽快さは、つまり音楽的なのです。


     描かれる物が愛でも暴力でも殺人でも復讐でも爆笑でも、お涙頂戴でも、何だって良い。「バードマン」とも違う、音楽的完成度の高い、つまりは、構造的に愛が混入している純ジャズ映画によって、本作で悪夢を見せられてしまった人々へのエクソシズムが行われる事が映画界、並びにジャズ界の急務である事は間違いありません(勿論、若きスクエアプッシャー、デミアン・チャゼル君(本作の脚本&監督)には、反省と転向の余地を与えます。スクエアプッシャーから足を洗ったダーレン・アレノフスキのように)。WHIPLASH!!!!!

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