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  • <ビュロ菊だより>No.135「<「そして最後の舟は行く」+>」

    2017-10-21 10:001
    216pt

     「そして舟は行く」は1983年、フェデリコ・フェリーニが死の10年前に発表した作品である。これはフェリーニで唯一のオペラ作品、つまり台詞の殆どが歌で表現される異形の作品で、ピナ・バウシュの好演を始め、語り始めると尽きぬ事は無いが、私のフェリーニベスト5は「8 2/1」「甘い生活」「アマルコルド」「ローマ」「そして舟は行く」である。原題は「E  la nave va」。豪華客船で航海する、その航海中に第一次世界大戦が勃発する。という夢の様なストーリーで、現在でもレンタルは比較的簡易なので、是非ご覧頂きたい。

     

     因に私がティポグラフィカの楽曲名に冠した「そして最後の舟は行く/And them last ship going」が、この映画からインスパイアを受けている事は言うまでもない。あまり指摘されない事だが、ティポグラフィカには乗り物を曲名に織り込んでいる物が多く「無限電車」「スクールバス」「時代劇としての高速道路」等々、「そして最後の舟は行く」が収録されているアルバム名「フローティング・オペラ」も、リヴァーボートの上で上演されるミンストレスショーの事で、ジョン・バース(小説家)の代表作のタイトルである。

     

     フランスの作曲家、オネゲルが指揮者のアンセルメに捧げた、交響的断章「パシフィック231」も乗り物を題材としている。この語は蒸気機関車の車軸配列の事らしい。オネゲルは機関車フェチである。「マニア」と書かなかったのは、私が知る限り、マニアックの中でも、機関車に対するそれは、かなり性的なフェティッシュに近い。ティポグラフィカのドラマーだった外山明は私に「電車の車両と車両を繋ぐ蛇腹が、直進の時でさえ、ゆっくりゆっくり動くのがヤバくて、子供の時にずっと見ていた」と発言している。機関車は、特にトンネルへの挿入と抜去がペニスとヴァギナに比喩され易く、律動が微妙に形を変えながら継続する事等、セックスそのものととても近い。セックスをしていると、女性の中に乗車している様な気になる。これは胎内回帰への願望だとされる。

     

     しかし、蓮實重臣は、「パシフィック231」を豪華客船としてイメージしていた。彼は生前、クロード・ソーンヒル楽団の代表作についてこう語っている「音楽が与えるイメージの広がりは素晴らしい。降雪を描写したとされるクロード・ソーンヒルの<スノー・フォール>を聴いて、自分は豪華客船の就航をイメージする。その速度感は洋上を、係留するホーンの持続音は汽笛に聴こえる(大意)」

     

     更に彼は、自らのユニット「パシフィック231」の立ち上げの際、こう語っている。「このユニットでやりたいのは、海っぽい感覚のもの。太平洋の上を漂ってみたり、深く潜ってみたりするような音楽。僕ら(*「パシフィック231」は蓮實重臣と三宅剛正によるユニット)の音楽で、海を渡って知らないどこかを旅行する様な気分になってもらえれば。豪華客船での世界一周を楽しんで欲しいです(書き取り)」

     

     豪華客船の旅、と言われて、皆さんは何を思い出すだろうか?タイタニック号に乗船していた唯一の日本人が、細野晴臣の祖父だった事は有名であろう。「パシフィック231」は、その細野の個人レーベル、「デイジーワールド」からリリースされていた。

     

     まったくお気づきになられていないと思うが(それは仕方がない)、私は今、感極まって落涙しながらこれを書いている。蓮實重臣の「お別れの会」は、豪華客船によるクルージングとして行われた。私は喪服を着てその、恐らくこんな豪華な客達と、こんな豪華な客船でクルージングする事等、一生無いだろうと確信しながら、東京湾沖に、鷲掴みにした花びらを投げた。それから私は陸に上がり、WWWXに向かったのだ。

     
  • <ビュロ菊だより>No.134「<結構、オンステージの月だった(「月がステージの上にあった」という意味ではない)+>」

    2017-09-30 10:00
    216pt

     

    <結構、オンステージの月だった(「月がステージの上にあった」という意味ではない)+> 

     

     

     精神衛生上、本を書くのが最も良くない。書く事自体は楽しいが、出版も(ラジオも)「ここ、事実と違ってます」と言われるのが苦痛である。はっきり言おう、そんな事解ってるし、どうだって良いよ。というか、そこが良いのである。わかんないかな?学問書でもないのに、資料的に正しくない事が載っていると本がそのページで爆発したりするのか?違法ですら無かろう。っていうか、PC検索を基本ツールにしている現代校正は、基本的に信じられない。だって「校正」とかいって、それが間違ってんだもん(笑)。絶対そんな世の中が来ると思ってたよ。資料性やソースにこだわる人は、この恐慌状態(ネット内どこに、真性性が約束された情報があるのか、誰も解らなくなる状態)に於ける炭坑カナリアに過ぎない。

     

     とはいえ世の中は基本的には素晴らしい。もう数年したら、その指摘を校正者から受けて、それであえて「ママで(*業界用語。「そのままで良いです」という意味)」として出版する事が倫理的に善しとなる日が来るだろう。その日を夢見て、今年は既に1冊出し、更にもう2冊出すのだー!!(泣)。ううううう。ううううううう。うううううううう。

     

     でも一冊は、ほとんど初めての学術性が高い本だ(一回、立ち消えになったリズムの本)。国会図書館とかに通うことになると思うが、一回ソッチをやってみると、性にあってるかも知れない。というか、」これを出すと、和声の本、旋律の本、といった具合に止まらなくなる可能性がある。ぐるっと回る感じですかね?

     

     
  • <ビュロ菊だより>No.133「<「ジャズとヒップホップが隔世遺伝だなんてバカか?」と言っていたバカが、たった数年前までには山ほどいた+>>」

    2017-09-14 10:002
    216pt

     今丁度、2パックの自伝映画のサンプルを観ながら書いているけれども、アレを最初に言ったのがいつだったかは憶えていないが、最初に思ったのは当然、ヒップホップがこの世に生まれた時だ。ヒップホップはジャズの孫に決まっている。だから「ジャジー・ヒップホップ」なんてない、というか、ジャージ着て蛇ジャジーなんて、相手はジャ爺さんだろ。フーディストのウエアがズートと同じ遺伝子だと、観ても解らない奴は、聴いても解らない。要するに何も解らない奴だ。解っていれば偉いとか、解らない奴はバカだとか言わない。単に、解っている奴と、解っていない奴が存在するだけだ。

     

     「粋な夜電波」では、確かシーズン2で最初に言ったから、そんな事もうとっくにみんな解っていると思っていた。そしたら憤激したヤカラがいて「おい菊地とやら。ジャズの息子はジャズに決まってるし、ヒップホップの息子はヒップホップに決まってるだろ。珍奇な事を言うな」と食って掛からん勢いでツイートされた(のを、タレこまれた)。

     

     このヤカラはSNSというハードドラッグによって、匿名性だの無名性だの、認知度だの非認知度だの、強度だの発言権だの言った、ごくごく普通の社会感覚と自己愛の感覚がおかしくなってしまっているのだろう。「おい、何某<とやら>」という場合の<とやら>というのは、基本的には「知らない相手であれば誰にでも使える」言葉である。

     

     例えば、生まれてからすっとイスラム音楽を演奏し続けて来た演奏家が、自分達が演奏している音楽をエリントンがエキゾチックに引っ張って来たレコードを初めて聴いて、怒ったとする。そのときに彼が、初めて名を聴くエリントンに対し「おい、デューク・エリントンとやら。どんなつもりでこっちの音楽をチャラチャラやってやがるんだ」という事は間違っていない。

     

     しかし、無名も無名、匿名で何をやっているか、どこにいるか、性別や年齢、何が出来るのかも解らない半透明なヤカラが、あまつさえ、「その話に乗った」状態で、発言に責任が生じる、記名の有名人に対して、<とやら>というのは、解ってわざとファックであろうとしているのならば褒めてやっても良いが、知らず当然のように言っているなら笑える。

     

     というか、SNSは言語を、つまり社会や倫理を、いきなりブチ壊すのではなく、ゆっくり変形させてしまうので、まあ人類が簡単に滅ぶとはとても思えないが、私の母親の様に、言語も話せなくなったまま、生命だけは長く取り留めるだろう。

     

     松尾潔氏がドゥワップについてメディアで語ったとする。それに食いついた、半透明なヤカラ(おそらくドゥワップマニア自認)が「おい、松尾とやら」と言っているのと同じだ。恐らくヤカラは、松尾氏を知らない。なので、自動的に<とやら>が引き出されたのである。半透明な、つまり自己像のない生物にしか出来ない、極めて珍奇

     

     スマホなんか買ってしまったお陰で、能無しの言いたがりがどこまで偉く成るのか、世界が偉人と賢者だらけになってしまった今、嘆いたってしょうがない。ただ、私は宇川くんを心から尊敬するけれども「オレはネットはストリートだと思っている」という発言には全く賛成出来ない。私の判断では、ネットは阿片窟や精神病院の入院棟や、担当者の居ない託児所に似ていて、どれもストリートとはほど遠い。

     

     しかし、テクノロジーによる言語感覚の変容ほど強い物はない。私は、SNS言語にはなるまいぞ、というか、原理的になれまいぞ(やってないんだから)、と考えていたが、気がつくと20年前の文章と比べて、かなりネット的に成っている。そもそも、こんなに段落を分ける様に成るとは思ってもいなかった。私は、「アマチュアアカデミー」の歌詞カードと言わず、長編小説でさえ一編一段落で良いと信じていた。それが散文言語の未来だと信じていたのである。

     

     それが今ではこの有様だである。今更ヤカラがトヤラを間違えている事ぐらい、言っても詮無いのである。

     

     以下は焼き鳥チェーンの現在ランキング一位「トリキ」こと鳥貴族の、一部には有名な「鳥貴族のうぬぼれ」という、墨刻鮮やかなマニュフェストである。「たかが焼き鳥屋で世の中を変えたいのです」で始まる、一部には有名な、綺麗に歪んだ日本語の代表例の様なヴァースである。全分を掲げ、おそらくラジオ等では指摘するだろう。言語は勿論、言語そのもの自体も変容するが、それを駆動する心理的側面との関係性が狂う時もある。

     

     と、誤解なきよう、私はトリキを心から愛している(とくに皮タレと唐揚げ)。ダイエットの時には週に3回ぐらい行く時もある。「鶏貴族」とせずに「鳥貴族」とした段階で、トリキの成功は決まっていたと言えるだろう。言語の歪みは、当然成功も生み出すのである。 

     

    <「鳥貴族のうぬぼれ」>

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