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「アントニオ猪木ってなんであんなに北朝鮮推しなの?」
現在より閉ざされた国であった北朝鮮で猪木さんが「平和の祭典」というプロレスイベントを開催したことを知らない方がチラホラ見受けられる昨今。そんな声も挙がってもおかしくないだろう。そこであの世紀のプロジェクトを取り仕切った当時・新日本プロレスの大番頭にしてアントンの右腕だった永島勝司さんにお話を聞きました!
永島 あ、そうなの? 
――よく考えたらあの『平和の祭典』(1995年4月28・29日)から18年近く経ってるんですね。
永島 そんなに経つのかあ……(苦笑)。
――それであのとき実行部隊だった永島さんに「アントニオ猪木と北朝鮮」をテーマにいろいろと聞かせていただきます。 
永島 実行部隊も何も、あれほとんど俺ひとりでやったんだけどね。
――あんなプロジェクトをひとりで!
永島 ただ、芸能方面は鈴木くんという方が協力がしてくれてね。もう亡くなったんだけど。
――永島さんってこれまでいろんなイベントを仕切られてきましたけど、北朝鮮興行はかなり大変だったんじゃないですか。
永島 スケール的にはいちばんだったよなあ。だいたい日本とは国交のない国だったからね。何をやるにもしびれることが多かったよねぇ。
――そもそもこの計画はどこからスタートしたんですか?
永島 それは猪木が北朝鮮に力道山の殿堂を作りたいという話から。そこからスタートしたのよ。そこは猪木独特の感性だよね。で、力道山と親しかった支援者が総連(在日本朝鮮人総連合会)とのあいだに入って段取りをつけてくれて。で、北に行くときは何かおみやげを持っていかないといけない。それでその支援者が持っていた、力道山が実際に使っていたゴルフのクラブセット。クラブに全部、力道山の名前が入ってるやつがあるんだよ。
――かなりのお宝じゃないですか!
永島 あれ、何千万もしたんじゃないかなあ。当時、北のトップはまだ金日成金正恩のおじいちゃんだよね。そのゴルフセットをおみやげに北に行ったんだよ。
――それは永島さんも同行したんですか?
永島 もちろん。猪木と通訳さんと3人で。そうしたら経由先の北京でCNNのニュースでとんでもないニュースが流れて。「金日成が死んだ!」って。
――あ、平壌入り直前に!
永島 とりあえず空港に行こうとなってね、そこへ慌てて北朝鮮の領事館から関係者が飛んできたの。「すいません。本日は大変なことが起きたので入国できません!」と。でも、具体的なことは一切言わないのよ。
――北朝鮮は公式発表してなかったから何が起きたかは口にはできなかったわけですね。
永島 こっちも「わかりました」と言うしかなくて。それで東京に帰って何週間後かにもう1回、北から招待状が来たのよ。いまはどうかは知らないけど、北には招待状がないと入国できない。それでもう1回仕切りなおして行けることになったという経緯があって。
――北朝鮮に入国してみてどんなイメージを持たれましたか。
永島 初めて北朝鮮入りしたとき猪木と話をしたのは「モスクワに最初に入ったときに似ているな」と。何年か前に旧ソ連時代のモスクワで『平和の祭典』をやってるからね。空港から市内に入る風景がおんなじなの。牛車が歩いていたりさ、木炭車が走っていたり。同じ社会主義の国だから似てるのかなって。最初はそういう印象でしたよ。
――戸惑ったことはありましたか?
永島 北京から平壌へ向かうファーストクラスの機内でビールを飲もうってことになって。そいでビールを頼んで猪木がひとくち飲んだんだけど、凄く険しい表情をしたんだよ。当時、猪木は糖尿病を治すために飲尿治療法をやってたんだけど、「このビールより自分のションベンのほうがうまいぞ!!」って。
――ハハハハハハ! 粗悪なビールだったんですね。
永島 そうしたら北朝鮮のスチュワーデスさんが飛んできて俺と猪木のビールを取り上げたんだよ(笑)。「あ、日本語がわかるんだ。これは油断できないぞ」って。
――現地の関係者はどんな感じだったんですか?
永島 いきなりNo.3に会ったよ。あと金日成の遺体が安置された特別な廟の入室も許されて。入る前に全身を消毒されたんだけど。
――VIP待遇だったわけですね。それは猪木さんの知名度があったからですか?
永島 あのね、力道山は有名だよ。猪木はそのとき有名じゃなかった。ただ、猪木は向こうの人間の心を掴むのはうまかったよ。「政治家ではなく力道山の弟子として来てます」が第一声。向こうはプロレスを知ってるわけじゃないからさ。ただモハメド・アリと闘ってることは知ってる。事前にどんな人物かはレクチャーを受けていて。俺たちも北に関するレクチャーは受けていたんだよ。「北朝鮮ではなく共和国」と言わなきゃならなかったり。そこで猪木がね、「共和国のロケットが日本に向いてると噂になってます」と言い出したんだよ。いきなり凄いことを言うなあと思って。
――たしかにビックリしますよね(笑)
永島 そうしたら向こうは「日本が悪いことをしないかぎり発射はしません」って言いだして。で、猪木は「共和国は美人が多いから日本のミサイルも向いてます!」と返してね(笑)。
――アントンジョークですね(笑)。
永島 その件でいっぺんに打ち解けて。No.3は猪木のことを調べてるから「あなたは糖尿病なんですよね。私もそうなんです」なんて始まっちゃって(笑)。それで盛り上がったところで「我が国でプロレスリングの試合をしてくれませんか」という話になってね。猪木が俺の顔を見て「やろう!」と。北のNo.3の前で話したことだからやらないわけにはいかなくなったんだよねぇ(苦笑)。
――正直、新日本プロレス的にはやりたくなかったですよね?
永島 (即座に)あたりまえだよ!
――ハハハハハハ!
永島 だって国交のない国だし、お金はどうするんだって話ですよ。社内でやることに賛成した人間はひとりもいなかったよ。一銭も儲からないわけだからさ。
――最初から一銭も儲からないことはわかっていたんですか?
永島 こっちが出すだけだからね。それは最初からわかってた。
――北朝鮮側が多少なりともお金を出す話はなかったんですか?
永島 一切ありません。ただ向こうはそんなことは言わないよ。「我が国でやりたいならどうぞ!」というスタンスだから。「総連と話し合ってくだい」と。
――総連側は出す話はあったんですか?
永島 出すわけないじゃないか(笑)。
――いや、表だけでもそういう話はあったのかなって。
永島 ないないない。それでスポンサーを集めるために猪木と歩き回ったんだよ。でも、在日一世二世は総連に献金したりするけど、三世四世は関係ないわけよ。実業家たちも世代が代わって考え方は違うから簡単に協力はしてくれないんだよね。スポンサーはどうにもならなかった。
――見積はどれくらいだったんですか。
永島 だいたい5千万はかかるなあって。向こうはやるんだったら平壌一の大会場ということでメーデースタジアムに連れて行かれたんだよ。行ったら見たら国立競技場よりでかくてさ(笑)。
――ハハハハハハ!
永島 会場を決めると言っても俺たちが選択できる余地がないわけだから。そこの支配人が言うにはね、フィールドの芝生を保護するためにラバン材を敷き詰めないといけない、と。それを言われた瞬間に頭のなかでソロバンを弾くよな。国立競技場より広い会場だよ? 日本で用意して北まで運んでくる費用を考えると、もうめまいがしちゃって。
――それは北朝鮮現地で用意できないんですか?
永島 ないない、そんなもの。物資が乏しいから。あとはイベント構成だよな。プロレスだけをやればいいって話じゃなくて「ソ連でイベントをやったと聞いています。それに基づいてやってください」と。モスクワのときは民族芸能を取り入れたのよ。そうしてるうちに向こうの提案は広がっていくんだよ。「我が国にはこんな民族文化がある」と。天女が上から降りてくる話とかさ。
――グレート・ムタvsリッキー・スティムボードじゃないんですから(笑)。 
永島 まあ何をやってもいいんだよ。「それはこちらの負担ではないですよね」という確認が取れれば(笑)。それで何回も北朝鮮に行ったんだけど、窓口がたくさんあって何回も同じことを聞かれて、何回も同じことを答えてね。これが大変だった。でも、凄く助かったのは金正日が映画マニアで『男はつらいよ』の寅さんが大好きだろ。倍賞千恵子の弟で、当時新日本の取締役だった倍賞鉄夫を北に連れて行ってな(笑)。
――この男はさくらの弟だ、と(笑)。
永島 そうそう。そうしたら向こうの関係者は手を叩いて喜んでね。「この方がさくらさんの弟ですか!」って。
――ハハハハハハ!
永島 あのとき鉄男の存在は非常に役に立ったね(笑)。そういったことで北朝鮮の映画村にも連れて行かれてね。普通はそんな場所に外部の人間は行けませんよ。
――寅さんの力はそれくらい凄かったんですね(笑)。
永島 ほかは誰も助けてくれなかったからね。日本の外務省の人間にも会ったけど「やれるわけないだろ」みたいな反応で。日本人だけじゃなくてアメリカの選手も当然呼ばないといけないんだけど。向こうは「ゲストにマイケル・ジョーダンとか呼べないか」とか無理なことを言ってきて。
――ああ、そこは現在金正恩と交流のあるデニス・ロッドマンにつながってるんですね。
永島 あと「マドンナ呼べない」とかさ。
――ただのミーハーじゃないですか(笑)。
永島 でも、興行のいちばんのポイントになったのは女子プロレスだよ。