大好評「総合格闘技が生まれた時代」シリーズ! 今回は山田学さんが登場! 現在は東京・大塚で整体施療院を営む山田学さんは初代シューターとして修斗黎明期を体験し、その後パンクラスに移籍。日本総合格闘技の礎を築いた両団体で活躍した唯一のファイターだ。修斗やパンクラス時代のエピソードはもちろんのこと、ビクトー・ベウフォートとの道場マッチや安生洋二の前田日明襲撃事件まで……90年代格闘技の修羅場を語っていただいた。ボリュームたっぷりの16000字インタビュー!!
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――初代シューターにして初期パンクラスでも活躍されていた山田さんは、総合格闘技というジャンルがなかった頃から闘ってきたわけですよね。
山田 そうですね。決して冗談じゃなくてね、ボクがある試合に勝ってなかったら総合格闘技はなかったと言ってもいいくらいなんですよ〜! これはもう本当に(ニッコリ)
――そうだったんですか!(笑)。では、今日はそのへんのお話をたっぷりとおうかがいしますが、もともとは栃木のほうで空手をやられていたそうで。
山田 栃木の小さな町道場だったんですけど。17歳の頃、映画の『燃えよドラゴン』を観てブルース・リーみたいになりたいなと思ったのがきっかけですよね。
――それでシューティング(修斗)を始める前に地元・栃木で就職されてるんですよね。
山田 防衛庁関係のね、ちゃんとした会社だったんですよ。
――防衛庁関係! いったいどんな仕事なんですか?
山田 戦闘機やレーダー関係。詳しくは言えないんですけど(笑)。
――あ、国家機密ですか(笑)。プロレス格闘技に興味はあったんですか。
山田 それがまったくなかったです。
――あら(笑)。
山田 空手も健康のためにやっていただけなんで。どっちかというと格闘技は好きじゃなかったんですよ。
――それがどうして佐山サトル先生のシューティングに入門するようになったんですか。
山田 佐山さんが昔タイガーマスクをやっていたことは知ってたんですけど。空手をやってるときに投げ技ができる人が勢いで相手を投げたんです。空手で投げは反則ですから審判は「はい、立ってスタンドから」と指示するんですけど、そのときに「これでは路上で通用しないな」と思って。路上に審判はいませんから。
――それで全局面で対応できる格闘技に興味を持つようになって。
山田 そのときに『格闘技通信』が創刊されたんですね。読んだ『格通』がたしか創刊号か2号目だったんですけど、三軒茶屋に佐山さんのスーパータイガージムができて会員募集をしているという記事が載っていて。じゃあ行ってみるか、と。
――旧UWFの興味から入門したわけじゃないんですね。
山田 ボクはいつも直感で動くんですけど、「この人は日本でいちばん強い」と思ったんで。いちばん強い人に習えばいちばん強くなれると思ったんですよね。それで次の日、場所もよくわからないのに栃木から三軒茶屋のジムに行きましたからね。ローカル線で上野駅まで3時間かけて行って。上野から三軒茶屋まで1時間かけてたどり着いて。
――シューティングってどういうものか理解してたんですか?
山田 なんとなく。『格闘技通信』に殴って蹴って関節技を決めると書いてあったんですけど。「関節技ってなんだろ?」って感じで。
――当時は栃木で仕事をしながら三軒茶屋まで通ってたんですよね。
山田 ジムには週1回ですね。でも、自主練は毎日やってました。自宅でひとりで(笑)。
――どんな練習をしてたんですか。
山田 まずスパーリングは頭の中でやるんですよ。
――刃牙の空想カマキリ戦の世界!(笑)。
山田 だってスパーする相手がいないですから。仕事を終えて最初にスクワットを1500回やって、それから15キロ走るんです。そしてサンドバックを2時間叩いて、そのあとウエイトを1~2時間やって。
――日をまたぎそうですね(笑)。
山田 それから柔道のダミー人形を使って「こうかな?」って自分になりに考えながら関節技の練習。だからボクのサブミッションは独特です。それは誰にも教わってないですから。
――独学でやられていたんですねぇ。
山田 たまたま地元で紹介された整体の先生のところへ治療に行ったんです。そこで「身体を治せるということは壊せるんだな」って考えて。治せるんだから壊せる、壊せるんだから治せるという逆転の発想。両方できて武道家だなって思ったんですよ。なんで「整体を習おう」と週1回、朝から晩まで先生に付き添って。いわゆるカバン持ちですよね。ずっと先生の整体を見ながら、身体の構造をいろいろと質問したりして。それがいまの整体の仕事にもつながってるんですよね(笑)。
――しかし、そうでもしないと格闘技の勉強はできなかった時代なんですねぇ。
山田 十字固めのどこが痛いんだ?って感じでしたから。あと高校の柔道部に行って寝技を習ったりしてね。だから近所では「あそこの息子は頭がおかしい」と言われてたんですよ。夜にサンドバックを叩きながら奇声を発していると(笑)。
――ただでさえ当時は格闘技への理解もなかったでしょうし。週に一度のシューティングではどんな練習をされてたんですか?
山田 初めて行ったときはステップワークを1~2時間やったんですよ。で、次の週に行ったときにまた同じことをやらされるは嫌だから勝手にいちばん上のクラスに参加したんです。当時は3クラスあって、初級者、中級者、選手。ボクは週に1回しか通えないから、なるべく選手クラスで勉強しようと。そこで川口健次に「おまえ入ったばっかだろ?」と言われたんですけど「いや、長いこといますよ」なんて嘘をついて(笑)。それで選手とたちと練習するようになったんですけど、最初はスパーやってもボロボロですよ。しかも真夏は四十度を超えるんですよ、室内。
――当時は何人くらいいたんですか?
山田 あの当時1500人はいました。
――1500人!!!!
山田 でも佐山さんが1回怒ると100~200人はいなくなりましたから(笑)。
――ハハハハハハハ!
山田 また入ってくるけど、佐山さんが怒ったらやめての繰り返しで。
――やっぱり佐山先生は怖かったですか?
山田 ……おかしいですよね(笑)。
――ハハハハハハハ! 基本鉄拳制裁ですもんね。
山田 いま高校とかで生徒が教師に頭を叩かれたことが問題になってるじゃないですか。ボクらの場合は木刀ですからね。あれを見ちゃうと「体罰って何?」って感じですよね(笑)。
山田 いやいや、あれはまだ優しいほうですよ(ニッコリ)。
――あれで!!
山田 あんなの優しいですよ。だってまだ選手に話しかけていますから。ボクからすると「あ、今日は機嫌がいいのかな~?」って感じで。
――あれで!!!
山田 耳が切れて出血するじゃないですか。「それがなんだ!? 耳が切れるほうが悪いんじゃ!!(怒)」って感じでしたから。
――では、優しくないときは……。
山田 もう倒れてからマウントパンチですよ。
――は!?
山田 ハハハハハ。それで生き残れない奴は来なくていいというスタンスですよね。だから根性はつきますよね。だから朝日(昇)と「あそこで生き残った奴はみんなキチガイだ」っていう話をしてて。並の精神状態だと残れないです。
――だって月謝を払って通ってるわけですよねぇ……。
山田 お金を払って殴られに行ってるわけですから(笑)。
――佐山先生のスパルタ指導にはどんな意図があったと思いますか。
山田 ボクにも言ってたんですけど、「みんな来ないでほしい。強い奴だけ来ればいいし、強い奴だけが残ればいいんだ」と。ひとり、ふたり残ればいいと思ってたみたいですよ。だから毎日ふるいにかけてたわけです。よく「心技体」というじゃないですか。最初は「心」なんです。心ができていない人間が技も身体もできないという理論で。
――つらくありませんでした?
山田 いやあ……「もっと激しくやってくれ!!」と思ってましたよ。
――山田さんも狂ってますね(笑)。
山田 この人を「お!」って驚かせたら一人前だと思っていたんで。
――中井(祐樹)先生がシューティングに入った頃は地獄の合宿をやってないから逆に佐山先生にリクエストをしたそうですね。「なんでやらないんですか!?」って。
山田 まあ、あいつも頭がおかしいですから。ハハハハハ!
――あんな合宿をお願いするんですからね(笑)。
山田 中井が入ったのはボクの所属が木口(道場)になった頃なんですよ。「寝技が強い奴が入ってくるから」と言われて。それでボクと朝日とかと一緒に練習したのが最初の出会いですね。中井は真夏なのにロングジャージを着てきたから「あ、こいつも頭がおかしいな」って(笑)。
――真夏にロングジャージ(笑)。
山田 あのね、タイガージムってヘンチクリンな人間の集まりだったんですよ。
――朝日さんも変わってますよね。話しだすと止まらないですし。
格闘技の質問をしてるのにいつのまにメジャーリーグのダルビッシュの投球術の話になってたり。
山田 そうそうそう(笑)。自分も変わってますけど、当時は記者の方から言わせると「格闘技界には3人まともに話ができる人はいる」と。それはボクと中井と高阪剛で(笑)。
――格闘技界の3賢者ですね(笑)。途中でその朝日さんもいた木口道場へ所属が変わったのはどういう理由があったんですか?
山田 練習するなら強い人というのがあって。当時はサブミッションがわからないということで朝日に「稽古をつけてくれない」と頼んだら「いいよ。俺はいつも木口にいるから」ということで。それで木口に行ったら寝技の強い選手ばっかりなんですよ。
――初心者が足を踏み入れられない雰囲気だったとか。
山田 あの当時はちょっと異常でしたね。自分を強いと思ってる奴らがやりあうみたいな。木口さんのつながりでいまの吉田沙保里選手のコーチも来てたんですよ。ほかにもボクシングの選手が来てたり、技術が体系化されていないので、いろんな格闘家を呼んでいろんな練習を取り入れて。
――そうやって総合の研究が進んでいたんですね。朝日先生が言うのはとにかく木口先生が強かったとか。
山田 強かったですねぇ。勝てなかったですもん。とにかく力が凄いんですよ。オリンピックに行くような人はさすがだなって思って。いつもギターを弾いてるオヤジなんですけど、レスリングはホントに強くて。
――それで栃木から上京したのはいつ頃なんですか?
山田 それはパンクラスに入団してからですね。
――あ、それまで栃木でやられていたんですか。
山田 シューティングには4年間在籍しましたけど、練習はほとん栃木です(笑)。最後の1年くらいは、ボクの高校の同級生でいま栃木の山田道場を任せている太田とやっていたんですよ。たまたま道端で会って話をしたら太田は新日本プロレスに入りたかったらしくて、テストに1回落ちたのかな。「また鍛えなおしてもう1回受けたいんだ」っていうから「俺と一緒に練習しよう!」と。
――「これでひとりじゃなくなる」(笑)。
山田 これはラッキーだぞと(笑)。太田は初心者だったからイチから教えたんですけど、それは自分の確認にもなりますから。
――でも、東京の選手と差がつくんじゃないかって焦りませんでした?
山田 それはずっとありましたけど、そこを補うのは精神力ですよね。それだけです。だってお金にもならないことをやってるわけですから。(ファイトマネー)15000円で殺し合いをやってるわけですよ。
――15000円だったんですか。
山田 それもチケットですからね。ボクなんか栃木だから友達に「東京に見に来てくれ」とか買ってもらうわけにもいかないし。だからシューティングで13戦やったけど、11戦は無償ですね。お金になってないですもん。
――それってどんなモチベーションだったんですか?
山田 「強くなりたい!」という思いだけです。それだけでやる気満々ですよ。そういうふうに思えないとやっていけないんでしょうね。
――言葉が悪いですけど、狂っていないとやり抜けない。
山田 やれないと思いますねぇ。おかしな生活でしたから。東京に行ったときも最終電車がなくなって栃木に帰れないことはしょっちゅうで。そのときは新橋で浮浪者たちと一緒に寝るわけですよ。「◯◯さん、終電がないのでここで寝ていいですか?」とお願いして。
――すっかり顔なじみだったわけですね(笑)。
山田 浮浪者、浮浪者、俺、浮浪者の順で寝てますから(笑)。
――やけに身体のゴツイ浮浪者(笑)。
山田 そんときに怖い思いしたのはネズミですよ。新橋のネズミはデカイ。猫くらいの大きさなんですよ。ホントびっくりしましたもん。
――そうしているうちにパンクラスに入団するわけですけど。
山田 鈴木みのるさんとやりたかったんですよ。俺のほうが強いと思ったし、当時のパンクラスの中でいちばん鈴木さんが強いと思ったんですよ。それで「闘わせてください」と。
――それはシューティングの選手として対戦要求したんですか?
山田 個人です。「非公開でもいいからやりましょう。パンクラスの道場行きますから」と。
――非公開で(笑)。シューティングの選手からすると、常に話題を集めていたU系には嫉妬心みたいなものはあったんですか。
山田 当時のシューティングって鎖国時代だったんですよ。佐山さんが「取材を受けない」という方針で。「中途半端な奴らが表に出るな」ということで選手は脚光を浴びなくて。だから試合後のコメントも出ないし。いま試合後に勝者がリング上でファイティングポーズを取るじゃないですか。あれはあの当時せめて目立ちたくてボクがやり始めたです(笑)。
――それくらい目立ちたかったんですか(笑)。
山田 桜田(直樹)さんに「先輩、もっと目立ちたいですよね」「じゃあ、試合が終わったあとにこうやってポーズを取ればいいんじゃない」って。それで試合後にポーズを取るようになったらみんなマネをし始めて。昔はリングに一礼してリングを降りていたんですから。
――それくらいギラギラしてたこともあって対戦要求。
山田 佐山さんからずっと言われていたんですよ。「プロレスは強くない。プロレスと格闘技を一緒にするな」と。それでパンクラスに「ホントに強いのか俺が証明してくる」ということで話をしにいったんです。そうしたら当時のパンクラスの尾崎社長が「そういう話はありがたいんですけど、私らも興行でやってるわけですから」と。
――まさか道場マッチでやらせるわけにはいきませんよね。
山田 「もし本当に山田選手が鈴木みのるとやりたかったら、いきなりは無理ですけど、パンクラスに入団して段階を踏んでいけば実現させます」と。それですぐに先日お亡くなりになった浦田(昇、修斗コミッショナー)会長のところに行って「鈴木みのるを倒したいからパンクラスに行っていいですか?」と聞いたら「いいよ」と。続けて「シューティングの看板を背負っていけよ。おまえがシューティングを広めろ。いまはいろんなところが総合格闘技をやってるけど、いちばん最初にやり始めたのは佐山サトル。その最初の選手はおまえなんだから看板を背負え!」と言われまして。
――それはしびれますね!
山田 佐山さんにもその話をしたら「わかった。行って来い」。その一言です。
――でも、佐山先生はU系に対してはアレルギーはありましたよね。
山田 ありました。だからボクに負けてほしくないという気持ちが強かったらしくて。それは後になってわかるんですが……。
――U系の中ではパンクラスが最初に競技化したわけですが、どうごらんになってたんですか?
山田 俺たちのやってることは間違ってなかったと思いましたね。そうじゃなかったらほかの人たちもやらないだろ!と。それまでは「あれ、なんのスポーツ? 中途半端に殴って投げて」という印象しかなかったと思うんですよね。あと興味を引いたのは当時のパンクラスは無差別だったんです。こんなおもしろいことはないぞ、と。だってデカイ人間を倒せるんですよ。ボク、73キロしかなくてホントはミドル級だったんですけど、計量のときに重いものをポケットに入れて体重計に乗るんですよ。
――えええ(笑)。
山田 そうすると84キロを切るか切らないかくらいになって。ボクはいつもミドル級の身体でライトヘビー級で闘ってたんです。だって小さい身体でデカイやつを倒せば最強じゃないですか。
――そこはロマン優先なんですね。
山田 冒険ですよ(笑)。「俺はどこまで冒険できるんだろう!?」と。それでパンクラスの入団のときに尾崎社長に「ボクのことを2試合、見てください」と言ったんです。デビュー戦と2試合目。2回やって2回とも勝てなかったらクビにしてくれ、と。
――というと、その時点で正式に契約していたわけじゃなかったんですか。
山田 契約も何もないですよ。「結果を出してから考えてください」って。だってそこまでずっとタダ働きしてきたわけだから、とくに要求するものも何もないですよ。
――でも、パンクラス入団にあたって仕事を辞めて上京したんですよね?
山田 防衛庁関係の仕事はね、20歳のときにやめてました。部長が深夜にテレビを観てたらシューティングがやっていて「おまえ出ていたよな」と言われて。「ウチの会社、副業できないんだけど。いちおう聞くけど、うちの会社と格闘技、どっちを取る?」と聞かれて会社をやめました。その会社、なかなか入れないところなんですけど。
――もったいないですねぇ。
山田 周りからも「もったいない」と言われましたよね。でも、ボクは冒険王なんで(笑)。「人生を冒険しなくちゃいけない!」と思って。
――そこから違う仕事をしながら格闘技を続けたんですか。
山田 アルバイトです。ガソリンスタンドとか山のてっぺんに温泉場があるので、そこの旅館で掃除や賄いを作ったりとか。温泉場まで片道30キロくらいあるんですけど、ロードレーサーで毎日登って行くんですよ。標高差1500メートルくらいありましたから(笑)。
――それで週に一度は片道3時間かけて東京に行ってたわけですか(笑)。
山田 だから休みがないですよ。休んだおぼえがないですもん。頭おかしいでしょ(笑)。
――それでパンクラスで2試合とも勝利して正式に契約をしたわけですよね。
山田 そうですね。そこで初めて格闘技でご飯が食べられるようになったんです。これで朝から晩まで練習ができるなと思ったんですよ(笑)。人を殴ってご飯が食べれるんだなあって……。
――てっきり格闘技で食うためにパンクラスに入団したのだと思ってたんですが、それは結果的にそうなっただけなんですね。
山田 いや、ただ鈴木みのるを倒したかっただけなんです。それがたまたま入団できることになって。えらそうに雑誌なんかに載るようになっちゃって。やっぱり月に1回定期的に試合ができるのが幸せでしたよね。月1回も闘えるんですよ。
――でも、月1ペースってけっこう大変じゃなかったですか?
山田 大変は大変ですよ。怪我をすれば治すのに時間はかかるし、試合間隔は4週間しかないですから、なるべくケガをしないように勝つという。
――そういう事情もあったのか、船木選手も「潰し合いはしたくない」と言ってましたね。
山田 それでみんなが勘違いしていて「パンクラスは八百長じゃないのか?」という話が流れいてたんですよ。
ビクトー・ベウフォートとの道場マッチ、安生洋二の前田日明襲撃事件、そして山田学が冒険を続けた真の理由が語られる
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