• このエントリーをはてなブックマークに追加

changeさん のコメント

根拠をたどり、ウィキペディアによると、

「文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺をが画作し、8月に自害した来原の葬式に参加。12月に品川誤電山英国公使館焼き討ちに参加、山尾庸三と塙忠宝、加藤甲次郎を暗殺するなど尊王攘夷の志士として活動した。1864年、長州藩が幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉のもとに一番で駆け付けた。」

高杉に駆け付けた行動が、木戸とか尊王攘夷論者の信頼を集め、伊藤の人生を切り開いていったのでしょう。
No.3
70ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
「坂下門外の変」⑤ 東京都千代田区三番町に「この地にて、伊藤博文(明治政府初代首相)が塙次郎を斬殺」という記念碑があったらどうでしょうか   江戸時代「番町で目明き盲に道を聞き」とい川柳がありました。ここで「盲」と言われたのは塙保己一です。この塙保己一は『群書類従』刊行を行う大事業を成し遂げています。「道を聞き」は道路案内だけでなく、学問の道をも意味しています。 かつて「千代田区三番町 24 には、「塙保己一和学講談所跡」の標識がありました。 しかし、もし、この標識が「 この地にて、明治初代首相伊藤博文が幕末、塙保己一の息子 塙忠宝を暗殺 」となると、訪れる人もあるのでないでしょうか。 「坂下門外の変」に関連して、伊藤博文は一段と過激な行動をとりました。 すでに「坂下門外の変」に関与した人々が、「斬奸趣意書」を書いたことを死崩壊しました。この中に、「 天子之御讓位を奉釀候心
孫崎享のつぶやき
元外務省情報局長で、駐イラン大使などを務めた孫崎享氏。7月に発行された『戦後史の正体』は20万部を超えるベストセラー、ツイッターのフォロワーも13万人を突破。テレビや新聞が報じない問題を、日々つぶやいている孫崎氏。本ブロマガでは、日々発信。週1回別途生放送を発信。月額100円+税。【発行周期】日々。高い頻度で発行します。