ミライ: 先生! 先生!
フツクロウ: ホ? またそのセリフからかいの。
ミライ: はい! 早く教えてください。どんなに待ち遠しかったか。前回、新しいグループ学習法があるとおっしゃってました。
フツクロウ: ホッホ。そうじゃったのう。それはクラスの中で知識の構造を再現することじゃ。
ミライ: 知識の構造。えーと、別シリーズのロングテールのほうで取り上げた話ですよね。
フツクロウ: ホウじゃ。この図を覚えておるかの。
ミライ: えーと、はい。知識の構造を住所になぞらえた図で、Bさんは日本国と東京都と千代田区と大手町という知識を持っている、Eさんは日本国と大阪府大阪市と北区と中之島という知識を持っているという図です。
フツクロウ: ホウじゃな。日本とか東京というレベルの知識は多くの人が共有しているが、大手町といったレベルの知識になると知っている人が少なくなる。しかし、大手町レベルのニッチな知識は無数にあってそれら全部を集めると東京などポビュラーな知識と同じくらいの規模になるわけじゃ。
ミライ: はい。
フツクロウ: それを教室の中で実現するんじゃ。世界史を考えてみよう。クラスの中で、1700年前後などテーマを決めて、各自好きなことを調べるのじゃ。ミライがここで興味に任せて調べたように。
ミライ: ふむふむ。
フツクロウ: それを例えば少人数のグループで互いに紹介する。それをまとめたり選んだりして、より大きなグループあるいは全体で発表するんじゃ。時間は限られているから、全員が調べたこと全てを共有することはできん。小さなグループ内で共有できる範囲も一部だし、全体で共有できる範囲もさらにその一部じゃ。
ミライ: むむ。なるほど、それをすれば上の図のような知識の構造ができますね!
フツクロウ: ホノ通りじゃ。この仕組みによって、クラス全体がカバーできる範囲は飛躍的に大きくなる。たとえば、科学の好きな子は1700年頃の科学史を調べてもよいし、音楽が好きな子は音楽史を調べる。世界史の教科書がカバーできる範囲より遥かに広大な範囲をカバーできるじゃろう。あるいは非常にマイナーなしかし面白いエピソードを調べても良いかもしれん。
ミライ: 社会や科学や音楽相互の関連も見えそうですね。
フツクロウ: まったくその通りじゃ。
さてこのように出来上がった知識全体は、決して一人では到達できない範囲と量になるじゃろう。クラスで1番世界史が苦手な子でも、クラスで1番世界史が得意な子の知らない知識を持てるのじゃ。これこそが今までの教育ではできなかったことじゃ。
教科書基準では、得意な子はそのほとんどを身に付けさらにそれ以外のところにも知識を増やすじゃろう。苦手な子は教科書のごく一部しか身に付かない。苦手な子の知ってることは得意な子は全部わかる。じゃから、単一のテストで単一の点数で序列をつけてしまえるわけじゃ。
ミライ: ……。ああ、テストで点を付けることが悪いことでなくて、教科書基準の授業をすると、各生徒には点数をつけられるように知識ができているということなのか。
フツクロウ: ホウなんじゃ! しかし、世界史一つとっても、その知識の構造は教科書とはまったく違う構造をしておる。あらゆる学問でそうなっておる。それが学校の勉強がいつまでたっても、世の中の役に立たないと思われる本質的なギャップなんじゃ。
知識には、細かい知識が無数に含まれていて、それ自身は一人ではカバーすることはできない。しかし、20人のクラスで20人がそれぞれ違う細かい知識を持ち、一方で重要な知識は共有する、その知識の構造を作り上げて、そこで何かを議論すれば、例え小学生中学生であろうと、今までに新しい知見を発見することも難しくない。