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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~史上最躍の棋士~ Vol.19
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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~史上最躍の棋士~ Vol.19

2015-05-13 18:00
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         ☆

    「ええ、これで予定どおり電将戦はファイナル、終了ですね。正直言って、これ以上やっても、今回以上に面白いものは見られないのではないかと思います。何より大熊五段の今日の戦いは、人間と機械はもう戦わなくていい、引き分けでいいというメッセージを発したのではないか。そんな風に考えております」
     ニッコリ動画運営会社の会長、唐沢輝明(からさわ・てるあき)は終局後の記者会見で明言した。対局者として大熊、そして瀬田も同席している。
     聞いたところによると、ニッコファーレにゲストで来ていた神薙紗津姫が、涙ぐみながらそんなことを言ったらしい。唐沢会長はそれを拝借する形で、あらためて最高責任者として今後の方針を表明した。
     もう、電将戦は行わない。
     プロ対コンピューターの戦いに終止符が打たれたのだろうか。自分がその役割に、少しでも関わることができたのだろうか……。
    「次はいよいよタイトルホルダーが出ると思っていたのですが、本当にプロ対コンピューターは、これで終わりなのでしょうか? チェスのように、トップとの決着はつけなくてもよいと?」
     すかさず記者は質問をぶつけるが、唐沢の語調は揺るぎない。
    「スケジュール等の問題があって、現実的に難しいんですよね。今回の出場棋士も――大熊さんを除いてですが――約半年にわたる準備をしてきた。それほど時間を取られてしまう。タイトル戦の準備を後回しにしてまで、ソフト研究してくれとは、ちょっと言えませんね。もっと言えば、各棋戦の予選、これだってタイトル戦の準備のようなものですからねえ」
     記者たちは意外なようだった。確かに彼の言うことには一理あるが、タイトルホルダー……いや名人との対局を見たい。他でもない唐沢自身、かつてそのように語っていたはずだ。面白いことは即断即決で知られるこの男が、ただ棋士たちに配慮して、すんなり心変わりするものだろうか。
     だが、もう自分にはどうでもいいことだ。身も心も疲れた。早く故郷に帰って、家族に会いたい。大熊の心の中は、その一念だけで占められていた。記者からの質問が立て続けに舞い込んだが、いずれも当たり障りのない言葉で返した。瀬田は反対に元気溌剌として、勝てなかったのは残念だったが、とてもいい勝負ができたと胸を張っていた。
     ――十六時以降の千日手は指し直しなし。そう伝えられた途端、大熊は頭が真っ白になった。もちろんルールは渡されていたが、ほとんど対局時間のところしかチェックしていなかった。己のバカさ加減に呆れてしまう。そもそも千日手の可能性など、微塵も考えていなかったのだ。
     千日手にするか、それとも打開するか。あのとき、大熊は迷った。
     負けないのだからそれで充分だろう、悩む必要があるのかと誰もが言うかもしれない。だが、勝つか負けるかのどちらかしかない世界に、十三年も……いや奨励会時代を含めれば、二十年以上も生きてきたのだ。引き分けという結末に、喜んで飛び込んでいける精神は持ち合わせていなかった。
     そんな大熊の脳裏に響いてきたのが、八重子の言葉だった。
     勝つとか負けるとか、どうでもいい。戦いに臨む夫をリラックスさせたいだけで、それ以上の意味はなかったに違いない。
     しかしあの瞬間、大熊は救われた気がした。勝利でも敗北でもない道がある。それを選んでいいと、後押しされた気分だった。最後の着手のとき、思わず笑みがこぼれるほどに。
     自慢するつもりはない。この引き分けには、周囲の人たちが意味を与えてくれるだろう。今はただ、最後までやり遂げたという達成感を胸に抱えていればいい――。
    「さて、ここからはニッコファーレと中継いたします」
     質疑応答が終わったところで、司会が言った。そういえば、なぜか目の前に大型のディスプレイが設置されているのが気になっていた。
     ……ニッコファーレと中継? これまでの記者会見で、そんなことは一度もしたことがなかったはずだ。いったい何を?
     しかし大熊はすぐに予想がついた。中継してまでコメントが欲しい相手。そんな人物はひとりしかいない。
    「大熊五段、瀬田さん、どうもお疲れさまでした」
     澄ました顔の伊達名人が画面に映る。その脇には、想定外の事態に戸惑っているらしい山寺九段と、師村、川口両女流。そして神薙紗津姫。
     自分まで戸惑うわけにはいかない。努めて平静に返事をした。
    「……どうも。なんとか使命を果たせて、ホッとしているところで」
    「今回の引き分けという結末には、単なる勝負を超えた意義があると感じました。唐沢会長がおっしゃいましたが、電将戦という一大イベントに区切りをつける上で、これ以上ない、最高のエンディングなのではと思います。瀬田さんも素晴らしいソフトを作り、ファンを楽しませてくださった。お礼を申し上げたい」
    「ああ、いや……もったいないお言葉で」
     自分よりも年下の人間の言葉に、瀬田は恐縮していた。不世出の名人の、得体の知れない存在感が、今はさらに際立っているかに見えた。
     何だ。いったい伊達は何を考えている――。
    「伊達名人、それでは発表しちゃってもいいでしょうかね?」
    「ええ、どうぞ」
     唐沢が唐突に発言すれば、伊達が即応する。誰も心の準備ができない中、それは伝えられた。
    「申し上げたとおり、団体戦としての電将戦は今回で終了ですが、将棋連盟との協議の結果――伊達清司郎名人が引退されたのち、一年に一回、その年の最強ソフトと番勝負を戦っていただくことになりました」
     記者たちのどよめきが、質量を持って襲いかかってくるようだった。大熊は腹の底が重くなった。
     いつだってこの男は、将棋界を揺るがしていた。今回はまた、特大級の震度――。
    「いやいやいや、どういうこと名人! 何も聞いてないよ!」
     たまらず山寺が口を挟むが、柳に風だ。
    「会長と理事しか知らないことでしたからね。とりあえず説明させてください。……この私にコンピューターと戦ってもらいたいという声があるのは、もちろん承知していました。実を言えば私自身、コンピューターとは戦ってみたかった。これまで培ってきた技が通用するのかと。しかし現役のうちは、諸々の事情で難しそうでした。じゃあ引退したあとならいいんじゃないか――そう考えて団会長や理事の方々に相談した結果、了承されたわけです」
     大熊のすぐ側に、その団快二(だん・かいじ)将棋連盟会長と真岡理事が同席している。あらゆる覚悟を決めたような、緊張感の滲む表情だった。
     名人がソフトに負ければ将棋界に傷がつく。明言はしていなかったものの、連盟はそうしたスタンスを貫いていたはず。それを引退後ならば……と妥協した形だ。
     唐沢の態度にも納得だ。とっくに名人対コンピューターの権利を確保していたのだ。
    「そういえば伊達先生……クリスマスフェスタのときに、腹案があるとか言ってましたよね」
     川口がまだ夢を見ているような顔で尋ねる。伊達はほくそ笑んだ。
    「そういうことです。それにですね、若手たちがこれ以上貴重な時間を使って、ソフト研究に明け暮れるのもどうかと思うわけです。若手のみなさんには、まず順位戦昇級、そしてタイトル獲得を目指してほしい。他のタイトルホルダーも同じこと。だから――あとは全部、私に任せてほしい」
     限りなく自然体で、名人は言葉にする。
     こんな途方もないことを、どうして何の恐れもなく口にできるのだろう。大熊は今さらながら、自分との器の違いを認識させられた。
    「唐沢会長! プロ対コンピューターは結局は継続ということなんですか?」
     記者のひとりが指名も受けていないのに質問を投げかけた。唐沢もまたほくそ笑む。
    「いや、伊達名人がおっしゃるには、これは戦いでも何でもないということです。そうですね?」
    「ええ、これは引退後の遊びのようなものです」
    「お、おいおい。そりゃ問題発言じゃないの?」
     うろたえる山寺を制し、伊達は続ける。
    「もちろん遊びと言っても真剣ですよ。将棋というゲームの到達点――最善を尽くせば先手必勝か後手必勝か、はたまた引き分けか。その結論をコンピューターと共に探る、他の誰にもやらせたくはない、楽しい楽しい遊びです。当然、私が生きている間には結論は出ないでしょうが、少しでも助力したいと思っています。どうでしょう、神薙さん。そのときはぜひ、あなたにも解説などでご協力いただきたい」
    「か、解説ですか?」
     いきなり話を振られた紗津姫は、どう返答したものかと硬直していた。
    「男性棋士が解説で、女流が聞き手。こういうワンパターンも、打破しなければと思っているんですよ。ぜひ神薙さんには、名解説者への道を歩んでほしいです。それと――」
     滔々と語る伊達名人は、太陽さながらの引力と輝きを放っていた。
     大熊は苦笑する。すっかり自分の対局の余韻は吹き飛んでしまった。
     でも、これでいい。所詮主役になれないのが、大熊大吾という棋士なのだろう。その分誰かが輝いて、将棋界の発展に貢献してくれれば、満足だ。
     何より、こんな自分でも誰かが見てくれている。そのことを骨身に感じさせてもらった一年だった。

         ☆

    「――で、あのときのあれは、敵に塩を送ったつもりか」
    「ま、そういうことだ。絶対規定を忘れてるって顔してたもんな」
     故郷に帰って、ようやく人心地ついてから、大熊は瀬田に電話を入れた。
     不思議だったのが、瀬田があのタイミングで千日手規定について質問してきたことだ。いきなり出場が決まった自分と違い、彼は十二分にルールを把握していたはず。
     もし瀬田が黙ったままだったら、十六時前に千日手にしてしまったかもしれない。そうなったらほぼ間違いなく、指し直し局で負けていただろう。
    「よかったのか? 指し直しになればそっちが有利だったのに」
    「お互いルールを再確認して、フェアな状況にするべきと思ったんだよ」
    「……本当にそれだけか」
     念を押して問うと、少し間を空けて、瀬田は言葉を紡いだ。
    「伊達さんがさ、言ってたんだよな。電将戦ファイナルは、引き分けで終わるのが一番の理想だって」
    「……また伊達か」
    「ああ、まただよ。……本当にあの人は未来が見えてるのかもな。そんな都合よく千日手になるわけないのに、ピッタリだ。俺はあのとき、彼の言葉を思い出して……勝つよりも引き分けのほうが、プロにとっても開発者にとってもいいんじゃないか。そう思ったんだ。他の開発者だったら、何が何でも勝ちたかっただろう。でも俺は……やっぱり少しプロ寄りの人間だよ。棋士を目指して頑張った、あの奨励会の日々は忘れられない。ま、俺や伊達さんの思惑がどうであれ、千日手を選んだのは君だからな」
    「……わかってるよ。手心を加えられたなんて、思っちゃいないさ」
     電将戦ファイナルが引き分けで終わったことは、将棋界の内はもとより外に大きなインパクトをもたらした。
     人間と機械の戦いに終止符が打たれた。これからは互いに手を取り合って――大手新聞社からネットメディアまで、そのような論調で総括したのだ。
     そして、その最大の立役者が大熊大吾五段だと――。
    「電将戦を終わらせた男、だってよ。どうだ、感想は」
    「勘弁してくれって……」
    「俺は、友として誇り高いぜ。……ありがとうな。SHAKEと戦ってくれて。今後もよろしく使ってやってくれ」
    「ああ、お前は次の目標は、やっぱり?」
    「伊達名人、いや、引退したら永世名人だな。あの人と対局できるように、頑張るよ。ただ勝負するだけじゃない。コンピューターと一緒に将棋の究極を探るっていうんだから、スケールがでかすぎるぜ」
     通話を終えると、大熊はパソコンを起動する。
     画面に彩文学園将棋部のブログが表示される。将棋ファンにとっては、将棋アイドル神薙紗津姫の在籍する将棋部と認知されているが――大熊にとっては、自分のファンになってくれた少年のブログという認識だった。あの対局の直後に更新された記事を、もう何度も読み返していた。

    〈大熊五段の戦いは、超しびれた!
     そのあとの伊達名人の発表には驚いたけど、自分にとってのヒーローはやっぱり大熊五段!
     史上最弱の棋士なんて、とんでもないぜ!
     フリークラスの崖っぷちから、あんな戦いを見せてくれたなんて、プロ対コンピューターの戦いに、引き分けって形で終止符を打つなんて、他の誰に真似ができる?
     だから俺はこう叫びたい。大熊五段は“史上最躍の棋士”だと!〉

     一ヶ月後、大熊大吾五段は最後の対局に敗れ、ひっそりと引退する。
     将棋界の厳しさ、そして棋士の魅力を誰よりも伝えてくれた男だった。
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