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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.1
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俺の棒銀と女王の穴熊〈5〉 ~将棋界の一番長い日~ Vol.1

2015-05-24 13:00
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    【将棋界の一番長い日】

     女の子と将棋を指すのは楽しい。不惑の年を迎えた今になって、初めて抱いた感情らしかった。
    「おお、この手は素晴らしいですね。んー、あれ、これ詰んでるっぽいなあ?」
    「ええ? 全然わからないです~」
    「はは、頑張って詰ましてみて。ええと、こっちもいい手を指しますねえ。ちょっと六枚落ちじゃ厳しいなあ」
     ふくいくとしたコーヒーの香りと、ジャズの静かな音色が漂うカフェ。その中でリズミカルに響くプラスチックの駒音。うら若き乙女たちを相手にした山寺行成八段の指導対局は、将棋カフェ・タカトーではすっかり恒例となっていた。
     自分と話しているときより、何倍も楽しそうにしている。高遠葉子女流四段は、夫の元気な姿と上々の客入りに終始満足していた。
    「高遠先生、コーヒーのおかわり、お願いします~」
    「ふふ、先生はやめてちょうだいな」
    「あ、私はチーズケーキ、追加で頼もうかな!」
    「はい、少々お待ちくださいね」
     店をはじめたばかりの頃は、まったく想像できなかった賑やかな景色。――もう現役は引退して、こっちに専念しようかしら。ここ最近は、そんなことも真剣に考えはじめていた。
     将棋棋士には二種類ある。
     ひとつはトーナメントプロとして活躍し、タイトル獲得を目指す棋士。もうひとつはアマチュアの指導など、将棋の普及に尽力する棋士。
     前者の代表といえるのが山寺だ。二十代でタイトルホルダーとなり、三十路の頃にはA級八段に昇る。一度はB級1組に降級してしまったものの、翌年には即返り咲きを果たし、今もA級棋士の看板を張っている。勝数規定による九段昇段も間近に迫っており、将棋界を代表するトップ棋士のひとりであることは、衆目の一致するところだ。
     高遠は後者だった。彼女も若かりし頃はタイトルを獲得したことがあり、女流のトップを走っていた時期があった。だが山寺と結婚して子供を産んだあたりから――すっかり勝負への執着を失ってしまった。
     自分にとって、もう将棋は一番ではない。そう思ってしまったのだ。
     女流棋士高遠葉子、いや山寺葉子個人にとっての一番。それは我が子に愛情を注ぐこと。また、自分より何倍も才能がある夫のサポートをすること。母としての、妻としての仕事。自身の将棋にエネルギーを費やすことができなくなるのも、ごく当然の流れであった――。
     閉店後、清掃を手伝ってもらいながら、高遠は夫と水入らずの会話に入った。
    「あなたが指導対局をしてくれることになってから、ますます客入りがよくなってきたわ。ありがとう」
    「こっちもたくさんの女の子を相手できて、眼福だよ。気分転換としては最高だな」
    「感謝してよね。私たち女流が、コツコツ女性ファンの開拓に励んできた成果が、やっと出てきたんだから」
    「感謝してるとも。将棋界の未来は明るいぞ、うん」
    「そこまで言うのは、ちょっと大げさよ」
     清掃を終えたあとは、売上を帳簿にまとめる。企業の経理部のような事務作業は、当初はややこしくて頭がパンクしそうだったが、すっかり慣れた。少なくとも最新の定跡を覚えるより、ずっと簡単だ。
     山寺はすでに帰り支度を整えていた。子供の面倒は同居している義母が見てくれているが、早く顔を見せたくてたまらない様子だ。
     ――山寺はトップ棋士として多忙の一方、一家の大黒柱として、人の親としての責務も十二分に果たしてくれている。いい人と結婚できたな、と高遠はあらためて思う。男性棋士と女流棋士の夫婦は他にも何組かあるが、いずれも家庭円満と聞いている。自分たちもそうなれてよかった、とつくづく安堵する。
     自分自身は、もはや将棋の第一線に立つことはできないだろう。しかしこれ以上望めないほどの、幸せな人生。
     いや、これ以上の望みは……本当はある。だが、おいそれとは口にはできないことだ。将棋の世界に身を置く者なら、何よりもその重みを知っている。
     だというのに、山寺はあっけらかんと言い放った。
    「葉子、俺は名人になるぞ」
    「ど、どうしたのいきなり」
    「今日みたいな女の子たちにさ、キャーキャー言われたいんだよ。伊達くんもそりゃあイケメンだけど、俺もそこそこナイスミドルだろう? これからはオジサマの時代だ。若者には出せない渋味で勝負だ」
     酒を飲んでもいないのに、まるで酔っぱらっているようだ。そんなにも若い子たちと将棋を指すのが、楽しかったらしい。
     なんにしても、途端にバカらしくなった。せっかく気を遣って、プレッシャーになるようなことは言わないでいたのに。
    「だったら、来週は来なくてもいいわよ?」
    「なんで」
    「なんでって、研究しなきゃ! 今回こそは、名人挑戦者になれるかもしれないんだから」
    「いやいや、気分転換も大事だからな。この歳になると、研究ばかりしてられないよ」
     名人になってほしい。
     彼の妻になったそのときから、片時だってその思いを捨てたことはないが――面と向かって言ったことはなかった。プロたる者、周囲の期待を背負うのも仕事のうち。しかし妻というもっとも身近な人間が口にすれば、当人にとっては予想以上の重圧になるかもしれない。だから言えなかった。
     この長年の懸念は、無意味だったのだろうか。あるいは――そんな威勢のいい言葉をわざわざ口にしなければならないほど、すでにプレッシャーに支配されているのだろうか。
     名人。四百年の歴史を誇る将棋界の頂点。
     山寺行成八段は、名人の器たる男か。その答えが示される日が、刻一刻と迫っていた。
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