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[東日本大震災アーカイブス]渋井哲也・連載コラムvol.15「“津波の記憶”を超えた3月11日」
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[東日本大震災アーカイブス]渋井哲也・連載コラムvol.15「“津波の記憶”を超えた3月11日」

2013-11-30 20:00
    ※今号は無料公開版です。
    石のスープ
    定期号[2013年11月30日号/通巻No.98]

    今号の執筆担当:渋井哲也


    渋井哲也 連載コラム【“一歩前”でも届かない】vol.15

    [東日本大震災アーカイブス]
    「“津波の記憶”を超えた3月11日」





     岩手県釜石市両石地区は、市街地から車で約10分、6〜7キロほど北にある。JR山田線「両石駅」は「釜石駅」の隣り。山田線は、震災の影響で現在は不通となっている。
     両石地区から、箱崎半島を挟んで北側にあるのが鵜住居地区だ。鵜住居地区や、さらに北に位置する岩手県大槌町と、釜石の市街地を結ぶ国道45号線を走る車が、両石地区を行き交う。
     
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    [キャプション]釜石市地図

     太平洋に広く突き出した箱崎半島の南の付け根に位置しており、V字型の両石湾は、明治三陸地震津波(1896年)、昭和三陸地震津波(1933年)と、何度も大きな津波に襲われて来た地域でもある。
     明治の津波では6.7メートルの津波に襲われ、地域一帯は壊滅状態になり、地区住民の約9割824人が死亡が死亡した。そのため、津波が来れば高台に避難するという教訓が浸透し、昭和の津波でも5.5メートルの津波に襲われながら、死者・行方不明者は3人、全半壊の家屋は約90戸と、大幅に被害を縮小した。さらにチリ地震津波(1960年)でも、3.7メートルの津波が来たが、全壊・半壊家屋は18戸、犠牲者は出すことはなかった。その頃までは、地域に津波防災の意識があったのだろう。
     それから約50年後、震災前、この地域には約220世帯、685人が暮らしていた。

     2011年3月11日14時46分に発生した地震は、震度6弱だった。約30分に第1波が押し寄せ、12メートルの防潮堤を越えて住宅を襲った。土木学会の津波痕跡第一期調査団(代表・佐藤慎司東京大学教授)の調査では、両石湾の水海水門で17.7メートルを観測し、津波は水門を超えた。高台を上った津波の遡上高は、約19メートルだった(「岩手日報」11年3月29日)。
     湾の近くにいた住人は高台へと逃げたが、それでも44人の地区住民が犠牲となった。その大半は、過去の津波被害を経験していない世帯の住民だったと言われている。


    ■祖母から聞いていた津波とは違っていた

     両石地区に住む澤口勇助さん(75)は、地震があったとき、箱崎地区の整骨院で治療を受けていた。ロッカーが倒れそうだったので、スタッフは立ってロッカーを押さえた。すぐに整骨院の先生から「うちさ、帰れ」と言われた。ひときわ大きな地震だったために、津波がくると直感した。

     澤口さんが自宅まで車で戻る途中、鵜住居地区にある「ございしょの里」に子ども達が集まっていたという。

    「子ども達が施設のところで並んでいました」

     この時に集まっていた子ども達が、本サイトで何度か紹介している鵜住居小学校や釜石東中学校の児童・生徒達である。そこにいた子ども達は、教師達とともに、さらに高台へと避難して犠牲者を出す事なく助かった。

     一方、澤口さんは、車を走らせながら、鵜住居に住んでいる姉・阿部桂子さん(当時76)に電話をしていた。しかし、電話が通じることはなかった。「地震の時は、通話制限がなされるためだろう。きっと避難しただろう」と澤口さんは思った。
     
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    [キャプション]JR山田線「両石駅」のホーム
    (撮影:2012年5月24日)

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    [キャプション]ホームに置かれていた写真
    (撮影:2012年5月24日)
    震災当時の両石地区の様子がよくわかる

     
     それよりも、妻の京子さん(72)の事が心配だった。いつもならば、京子さんが桑浜地区に散歩に出かけている時間だったからだ。
     桑浜地区は、昭和三陸地震津波のとき、6戸が流出・倒壊したとの記録がある。そのため、「流されてしまうんじゃないか」という考えが頭をよぎった。しかし、澤口さんが急いで自宅に戻ると、京子さんは自宅にいた。京子さんはその日、体調が悪くて散歩には出かけなかったという。
     
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    [キャプション]両石公園から見える高台の住宅
    (撮影:2012年5月24日)

     澤口さんの自宅は、両石地区の高台にある。両石湾を見渡せる両石公園よりさらに奥で、JR山田線のさらに山側の場所にある。東日本大震災の津波が、これまで以上の津波だったとはいえ、自宅は浸水したエリアからは外れた。

     妻の無事を確かめた澤口さんは、両石湾の津波の状況を見ようと、両石公園から海を見ていた。
     東日本大震災の2日前、3月9日にも津波注意報が発令された。澤口さんは、その時も公園から海を見ていたと言う。

    「9日は、水位が上がったり、下がったりして、津波のスピードが速かった。そして渦を巻いていたんです。そのために漁港に船が入れない状態だった。11日も、渦を巻いていました。家や船が流れるのも見ていました」

     澤口さんは、両石地区を襲った津波を、公園から見続けた。
     
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    [キャプション]津波が襲った直後の両石地区を
    三陸自動車道から
    (撮影:2011年3月11日/被災者提供)


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    [キャプション]両石公園から撮った
    約1年後の両石湾の様子
    (撮影:2012年3月20日)

    「明治と昭和の津波を経験した祖母から聞いていた津波と違っていました。祖母は『引き波でみんなやられる』と言っていました。しかし、今回は寄せ波も早かったんです」

     結局、津波は国道45号線の「恋の峠」付近まで押し寄せた。多くの人たちが津波にのまれたり、助かったとしても家が流されたりして、路頭に迷っていた。
     
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    [キャプション]津波によって道路が寸断された
    両石地区の国道45号線
    (撮影:2011年3月15日/被災者提供)


    ■魔の三日間

     澤口さんが住んでいる高台にある10数軒は津波被害から逃れた。そのうち7軒に人が住んでいた。そのため、7軒で避難民150人ほどを受け入れることになった。
     炊き出しも行い、毛布や洋服等、必要なものはすべて提供した。停電になっていたために、灯油のストーブを使った。当日は雪が降っていたということもあり、一晩中、ストーブをたいていた。7軒に収容しきれない若い人たち、男性、消防団員は、両石公園で暖を取った。けが人はいなかった。

    「避難民は津波の恐怖でみんな動けないでいました。若い人には手伝ってもらったんです。もし7軒が受け入れなかったら、犠牲者が出たと思う」

     東日本大震災の津波被害エリアでは、地震後に雪が降った場所が多い。両石地区もそうだった。せっかく津波で助かっても孤立したために凍死をしたという人もいた。澤口さんが指摘したのは、高台に避難して来た人達に、そうした凍死者が出なかったことを指したものだ。
     その日から、両石地区に自衛隊が救出に来るまでの3日間、澤口さん達は自主的に避難生活を送るしかなかった。この3日を澤口さんは「魔の三日間」と読んでいる。
     
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    [キャプション]津波の被害にあった両石地区
    (撮影:2011年3月15日/被災者提供)

     この間にも、澤口さんは連絡が取れないでいた姉・桂子さんが心配だった。そのため、歩いて鵜住居に向かった。「恋の峠」を超えて鵜住居地区を見ると、水がまだ引いていなかった。「沼と一緒だった」と澤口さんは言う。
     JR山田線も津波に襲われて線路がはがされていたので、線路沿いには歩いて進むことができなかった。しかし道路を歩くと、瓦礫やヘドロがあり足が沈む。
     ようやく鵜住居駅の近くまで行くと、三階建てのビルの屋上に人が2人いた。

    「防災センターに避難した人はみんなだめだ!」

     そう叫んでいた。
     桂子さんが「鵜住居防災センター」に避難しただろうと考えていた澤口さんは、その言葉を聞いて、「きっとダメだ」と桂子さんのことを諦めた。

     そのまま行方がわからなかった桂子さんの遺体は、4月に入ってようやく確認することができた。鵜住居地区や両石地区などで発見された遺体が収容されていた「紀州造林遺体安置所」で、桂子さんの遺体と対面した。

    「保険証を持っていたので、名前はすぐにわかったんです。顔も普段のままで、服も着ていました。遺体を確認すると、すぐに火葬の手続きをしました。しかし、周辺の火葬場ではなく盛岡の火葬場でした。犠牲になったのは仕方がない。できるだけ早く確認ができてよかった。とはいえね、対面したときには、何とも言えない悲しみだった。涙も出ました」

     澤口さんは、それから毎月、月命日になると防災センターに通い、祭壇に手を合わせるようになった。

     

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    渋井哲也 しぶい・てつや
    1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーション等に関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。
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