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さねゆきさん のコメント

残念ながら、こんな記事を書いても誰も救われません。そして、「ご協力いただいた皆様」の多くは、あなたによって辛い体験を無理矢理回想することになりました。あなたができるせめてもの償いは、東日本大震災で困っているひとを助けることです。あなたが直接助ける必要はありません。日本赤十字社や中央共同募金会に支援金を寄付をすることで「助けているひと」を助けてください。寄付はコンビニから簡単に行えます。


Famiポート募金
https://www.family.co.jp/famiport/donation/

支援金と義援金の区別がつかない場合は、こちらで勉強してください。
http://www.akaihane.or.jp/er/saigaishien.html
No.2
142ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
 2013年3月11日、ついに東日本大震災から2年を迎えました。この「3.11」特設ページのトップで現在使われている写真は、震災から2カ月後の2011年5月に、宮城県気仙沼市の鹿折(ししおり)地区で撮影したものです。全長60メートルの大型漁船「第18共徳丸」が数百メートル先の港から流され、ガレキの中に埋まっていました。2年目を迎える3月10日現在の鹿折地区では、ガレキは片付いていましたが「第18共徳丸」は、あまりに巨大なため、そのまま残されていました。  2年目を迎えた3月11日には、ユーザーブロマガでも多くの震災に関する記事が数多く掲載されました。その中で、震災当時を被災地で過ごした方の記事をピックアップしてみました。    当時、宮城県女川町に住んでいたという「しほ」さんは、ちょうど第二子を妊娠中だったとのこと。多くの親戚を失った悲しみが綴られています、 ・「 2回目の投稿(´∀`)ノ 」 - ポカポカ陽気が来ましたん(´▽`)ノ  同じく宮城県在住という「ひより」さんは、当時、牛乳配達の仕事をしていたそうです。震災翌日の配達では、「こんなときに、ありがとう」と感謝してくれる人もいれば、「こんな非常事態まで仕事か!お前にだって家族ぐらい居るだろ!守銭奴め!」と心ない言葉も吐かれたつらい思い出を書いています。 ・「 #0311nico あっという間。 」 - PS  福島県いわき市で震災を体験したという「福ヲタ」さんは、「福島第一原発の状況が刻々と悪化し、余震と放射能に震える。ひょっとしたらこのまま死ぬかもと思い、遺書まで用意」と、原発から出た放射性物質の汚染への恐怖が生々しく書かれています。 ・「 2年前の3月11日、いわきにて 」 - 月刊.swfランキング作者がニコつく3に出展するまで   また、福島第一原発から5キロ以内に自宅があるという「近江亭浅葱」さんが、3月10日に一時帰宅したときの模様を写真でレポートしています。破壊されたまま残された施設や、未だに高い放射線量などを元に「もう二年経ったとか・・・実感湧きませんね」と、淡々と書いています。   ・ 一時帰宅に行ってきました。 - 紐なしボレィ(仮)  「あなたは3・11に何をしていましたか?」の記事募集には、3月11日17時現在、 421件の記事 が集まりました。ご協力をいただいた皆様、まことに有難うございます。