スーツが通路の奥へと走っていく。その後を追いながら、オレは110番にコールする。
電話が繋がったとき、スーツの持っている懐中電灯の明かりが消えた。
気にせずオレは、電話につげる。
「女の子が廃墟に連れ込まれています」
相手が何か言っていたが、一方的にどうにか覚えていた町名と、ホテルだった建物だと告げた。ホテルの名前までは記憶していない。
「早く来て――」
ください、という前に殴られた。スーツがこちらに近づいていることは足音でわかったから、覚悟はできていた。スマートフォンが手から飛び出す。
空いた手を、スーツがいるはずの場所に伸ばす。指先に何かが触れる。がむしゃらにそれを掴んで、もう一方の手を握りしめる。思いっきり振ると、とりあえず相手には当たったようだった。低いうめき声が聞こえた。
もう一度、もう一度。おそらくスーツの胸の辺りをつかんだまま、オレは目の前を殴る。うまく呼吸できなかった。人を殴るのなんて、何年ぶりだろう。
「待て」
とスーツが言った。待つはずがなかった。
もう一度殴ると、指からスーツが抜け落ちた。奴が転倒したようだった。
足元で何か光る。スーツが懐中電灯のスイッチを入れたのだ。眩しくて、思わず目を細める。
懐中電灯の光には、別の輝きが混じっていた。
スーツは床に座り込んだまま、小ぶりなナイフの刃をこちらに向けていた。
「待て。動くな」
ともう一度、スーツが言った。
さすがに、刺されたくはない。警察には連絡を入れたのだ。このまま動かずに済むなら、それも悪くはない。
見下ろして尋ねる。
「お前、それでどうするつもりだ?」
「あいつは悪魔だ。悪魔は自ら死を選ぶ」
「そんなこと訊いてねぇよ」
足を踏み出し、ナイフを持っているスーツの手を蹴る。どこかにナイフが飛んでいく。
――もう必要なことはしたんだ。あとは時間を稼げばいいんだ。
と、理性は言っていた。気にせずにオレはまた、スーツに掴みかかる。
こんなにもオレは短気だっただろうか? ――いや、こいつは誘拐犯だ。みさきを殺そうとしたんだ。これで短気ってことはない。
倒れ込むように男の顔を殴る。下から殴り返される。痛くない。馬乗りになって、何度も拳を突き出す。
――どうして、みさきが誘拐されてんだよ?
世の中はたまにおかしい。ぶん殴れば、それは元に戻るのだろうか? きっとそんな単純な話じゃないなと思いながら、オレはまたスーツを殴った。