窓の外は暗い。
ガラスに映り込んだ自分越しに、寒々とした瀬戸内海を眺めていた。
バスはしまなみ海道を超えて愛媛を目指している。
どうしてこんなことをしているのだろう、という思いはもちろんあった。
こんなの馬鹿げている。きっと意味なんてない。往復ぶんの交通費を無駄にするだけだ。
わかっていたのに、ついバス停に向かってしまった。
目の前のバスに乗り込まないわけにはいかなかった。
私が久瀬くんのお見舞いに行ったのは、小学4年生の、そろそろ3学期が終わるころだった。
※
春から夏にかけて回復しつつあった久瀬くんは、秋ごろに一度病院を抜け出したとかで、また体調が悪化していた。きっとなにか理由があったのだろう。彼は理由さえあれば、平気でどんな無茶でもする男の子だった。
3月に私が病室を訪れたとき、彼は眠っていた。
私は彼の隣に座っていた。目を覚ましたとき、どう声をかけようかと悩んでいた。
やがて扉が開いて、ひとりの、小学生からみればお爺ちゃんにみえる男の人が入ってきた。
その人物がおそらく、八千代さんがいうところの「センセイ」だったのだろう。
私はその人が、久瀬くんのお祖父ちゃんか誰かだと思っていた。だからとくに素性や名前などは尋ねなかったと思う。
短い会話をした記憶はある。
でも詳しいことは覚えていない。
「よく眠っているね」
「そうですね」
「彼はいい子だ。たぶん、誰よりも」
「私もそう思います」
そんな話をしたような気がする。でも詳細は違っているかもしれない。
なんにせよその老人は、10分ほどで部屋を出てしまった。
――そうだ。
「私は遠いところにいかなければならない」
と、彼は言っていた。
「友達に誘われたんだ。いつ帰ってこられるかもわからない。ばたばたと準備をしていてね。最後にこの子と話をしたかったんだけど、それは叶わないみたいだ」
たしか、そういう風なことを言って。
私に携帯電話を差し出した。
たぶん、白いスマートフォン。
そうだったと思う。
「しばらくこれを預かっておいてくれないか?」
どうしてですか? と私は尋ねた。
スマートフォンが高価なものだという知識はあったから、警戒したんだと思う。
「いつかこの子と連絡が取れるかもしれないからだよ」
「久瀬くんと?」
「彼も同じものを手に入れるかもしれない。そのとき、これを君に渡していることに意味が出てくるかもしれない。まだわからないけれどね」
「くれるんですか?」
「あげるわけじゃない。それは私のものだからね。あくまで一時的に、預かって欲しい」
スマートフォンが私のものになるわけではない、ということに、むしろ安心した。
高価なものを知らない大人からプレゼントされるわけにはいかない。
「次に会ったとき、私に返してくれればいい」
そう言って、笑って、彼は病室を出ていってしまった。
※
どうしてそんなことを今まで忘れていたのだろう?
根拠はわからないけれど、そのスマートフォンに久瀬くんからの連絡がある可能性を示唆されたのだから、もっと頻繁に確認した思い出があってもよかった。その直後に久瀬くんは姿を消してしまうのだから、学校にこっそりと持ち込んでいても、抱きしめて眠っていても、不思議ではなかった。
なのに、スマートフォンをどこにしまい込んでしまったのか、もう思い出せない。きちんとうちにあるだろうか? 不安だ。
――センセイという人は、どうして私にスマートフォンを預けていったのだろう?
彼がそれを取りにきた記憶はない。いったい、どこに行ってしまったのだろう?
わからないことだらけだ。
でも、考えれば考えるほど、あのスマートフォンのことが気になった。
――もしかしたら、スマートフォンに久瀬くんからのメールが届いていたのかもしれない。
私がそれを見逃していたから、彼は10年間も行方しれずなのかもしれない。
根拠なんてない、でも。
――どうして私は、あのスマートフォンのことを忘れていたのだろう?
そのことに、漠然とした不安があった。
コメント
コメントを書く10年前にスマホなんだからやっぱり時間軸がおかしい?