わたしはこのような善良な祖母と、 わるい祖母の二人に育てられ、まえに述べたようにおさないときから社會の罪惡面を身近く見せつけられたので、よわい人たちにたいする同情と、それらの人々を不正な壓力からまもろうという氣もちが若いときからつよかつた。そして小學校の五年のとき最初のストライキをやつた。校長は琉球人でない輸入校長だつたが、琉球にくる輸入敎員がみんなそうであるように、ざんぎやくで、わるい人間だつた。學校でもいわゆる鹿兒島のスペルタ的敎育で、なぐつたり、けとばしたり、「琉球人のばかやろう」などといつた。これにたいする反感が昂じてわたしたちはストライキをやつた。