獄中十八年 徳田球一編 一.小さな正義派
一八九四年(明治二十七年)沖縄縣 國頭(クンチャン)郡 名護(ナゴ)村にうまれた。わたしが共産主義者になつたのには特殊な事情がある。―わたしの祖父は鹿兒島で舊(旧)藩時代に船乗りからだんだん立身してきた廻船問屋だつた。琉球に船をもつてきて、外國からのいろいろな物資を非常に安く買い、それを鹿兒島や門司や大阪に賣りさばく商賣をしていた。そういう船問屋は、みんな琉球で女をもつていた。私の父はそういふ鹿兒島人と、その妾の琉球の女とのあいだにうまれたのである。わたしの母もやはりそういう船問屋の主人と琉球人の妾とのあいだにうまれた。 わたしの祖母はひどい貧農の娘で、その生れ故郷の家はまるでブタごやのようなあばらやだつた。祖母はそういうところにうまれ、女郎に賣られ、やがて祖父の妾になつてわたしの父をうんだ。母方の祖母は、貧乏な職人の家にうまれ、その家には女の子が三人ゐたが、二人まで女郎に賣られた。祖母はこの悲惨な家にうまれたのであるが、これらの家には稅金を収めるのに金がなく、賣るものもなく、つまりはその子に當る私の祖母たちを賣らねばならなかつた。値段は慶應年間のことだが、大體十五、六才のこどもで...