とめどなく零れ落ちた涙。跡がつくくらいに固く握られたスイカバーの棒。
　夏休み最後の一日が終わるまであと数秒。長針が一度動いたときには既に登校日へと移り変わる。

「ちくしょおおおおお！！」

　僕はたまらずに慟哭した。無情に過ぎ去っていった掛け替えのない日常がかえってくることを心の底から願いながら……
　そのとき、浮遊感にも似た奇妙な感覚がした。
　次の瞬間――

　――ジリジリと照りつけるような夏。

　世間は夏休みなんだよなぁ、なんて思いながら僕は真っ白なカレンダーを見てため息をついていた。
　すっかり夜の闇が満たしていた外が、昼の明るいものへと変わっていた。
　夏特有のぬるい空気が身を包んでいる。そこに秋の気配はない。
　部屋の様子も夏休みが始まったころの状態に酷似していると思った。
　急いでスマホで日付を確認し、僕は時間が巻き戻っていると確信した。
　願うことで人間になれた彼女と同じように、僕にもそんな奇跡が起こったのか、あるいは単なる必然か、定かではないが、少なくとも、僕はまた夏を取り戻したということは確からしい。
　この時間を、無駄にしてはいけない。必ず彼女の寿命を延ばす術を見つけ、実現しなければと僕は覚悟を決めた。
　もし、このループがまた起こってくれて、自分が記憶を保持できていれば、無限の時間を手に入れたようなものだ。勉強に研究に実験からそのための資金集めまで、やるべきことは沢山ありそうだが、何度もループできるのなら、必ず辿りつけるはずだ。夏が終わっても、彼女が笑顔で隣にいてくれる、そんな未来にまで。

「ずっと一緒にいようねって、約束したもんな……」

　あの日、夕暮れの海辺で交わした約束を思い出しながら僕は呟いた。

……

　幸いなことに、ループは一度では終わらなかった。
　しかし、今回もループが起こるという保証は依然どこにもなく、僕は駆り立てられるように彼女の寿命を延ばすという悲願に向けて邁進し続け、何度もループを繰り返した。
　そうしてようやく、その努力が報われる時が来た。
　カプセル状の装置から身を起こした彼女は自身の肉体に起こった変化に驚き、次いで歓喜の表情を浮かべた。

「すごいすごい！　今までが嘘みたいに体が軽い！」

　夏休みが終わるまでもう残りわずかな、秋に近い時季のことだった。
　装置から飛び出してはしゃぐ彼女は、日に日に弱っていったときとは別人のように元気に満ちていた。
　全ては、この日のためだった。僕は彼女を失った日のそれとは真逆の意味で涙を零す。
　達成感で浮かれていたのだ。
　……だから、背後から近づく気配を見落としてしまった。

「危ない！」

　突然笑顔を消した彼女が僕の体を突き飛ばした。
　僕は訳も分からず尻餅をついた。訝しげな視線を彼女の方へと向けると、まだ小学生くらいの男の子が彼女の懐に潜り込んでいた。彼女は苦悶の表情を浮かべている。
　間抜けにも、何が起こったのか未だに理解できていない僕を、地面に広がっていく鮮血だけが無情な真実として網膜に焼き付いた。
　ぱたりと、まるで糸の切れた操り人形みたいに彼女は地面へと倒れた。出血の量が夥しい。

　――刺された。見知らぬ男の子に。彼女が。
　――なんで？

「なんで、こんなこと……」
「ぼくは、夏を終わらせに来ました」

　戸惑う僕に、男の子は血に濡れた刃物をこちらに向け、短く告げた。
　夏を終わらせるという言葉に、今僕が直面している現象が思い当たるのは当然だった。

「ひょっとしてループのこと？」
「やっぱりお兄さんは知っていると思いました。ぼくは何回もループを経験してきましたが、高校生にして天才科学者だと有名なお兄さんの動きはループごとに違っていたのでなにか知っていると思いましたが、合っていてよかったです」
「だとしても、なんでこんなことするんだよ！」
「さっき言ったと思いますが、夏を終わらせに来ました。何回も続く夏は、もう飽きてしまったので、ループを繰り返している原因かもしれないお兄さんを消せばいいと思いました。それに、もし違っても、またループが繰り返されるだけなので、お兄さんを消してみるという手段を試してみるのも悪くないと思ったからです」

　自分が死んだら、ループは繰り返されないかもしれないという不安が、足を震わせた。
　地面に倒れている彼女の手当てをしたい気持ちはあったが、男の子が黙っているわけがない。
　そこでもし僕が殺されてしまったら……最悪ループは起こらず、彼女も僕もデッドエンドだ。
　それなら、夏休みが終わるまで逃げて、今度は足がつかないように注意を払い、再び最初からやり直す方がまだ堅実だ。
　男の子が話は終わりだと言わんばかりに刃物を持って突進してきた。
　それに合わせて僕は蹴りを男の子の腹部へと命中させる。
　高校生と小学生くらい、力も体格も差がある。男の子に勝機があるとすれば手に持った凶器くらいだ。
　たまらずに男の子は吹き飛んだが、その寸前、刃物で僕のふくらはぎを抉った。

「ッッ……！」

　僕の足は激痛が奔り、流血した。
　男の子は壁にぶつけた頭を押さえ、小さく呻いていた。ここで動かないわけにはいかない。なぜなら、まだ、刃物は男の子の手にあり、そこには確固たる殺意は宿っているのだから。
　僕は痛む片足を庇うように走り、逃げ出した。

　外へ出てしばらく進み、石の塀にもたれるようにしてしゃがみ、着ていた白衣で傷口を覆うようにして縛ることで血痕を追えなくさせる。
　絶えず続く痛みに歯を食いしばると、僕は再び歩き出した。
　苦しいときに、思い浮かぶのは彼女の笑顔だった。いつだって僕は、その笑顔があったから頑張れてきた。
　だから、きっとこれからも大丈夫だ。
　彼女と喜び合ったことも、僕の装置も、全部振り出しに戻って、世界は何もかもなかったこととしてリセットされてしまうけれど、僕の頭の中にはちゃんと残っている。

「絶対だ……絶対……望んだ未来を掴みとってやる……」

　残暑の残り香を残した風の中を、僕は塀にもたれるようにして歩いていく。


……


　西日が照らしている海岸で、彼女の髪が海風になびいた。

「ねえねえ！」
「なに？」
「本当にありがとう！」

　眩しそうな笑みを浮かべて彼女は言った。

「もう何回も聞いたよ」

　事実、彼女はあの日以来、ことあるごとにお礼を言って来た。

「だって何回言ったって言い足りないぐらいだもんっ」

　指摘すると彼女はやっぱりむくれた。

「大袈裟だって」
「大袈裟じゃないっ。だって二度も命を救ってくれたんだもん」

　まあこのいざこざの結果がどうあれ、彼女と一緒の今があることは例えようがないくらいの幸せに満ちている。
　それだけで、十分だ。

「絶対に忘れない……ううん、忘れられない。私と君が初めて出会った、去年の夏のこと……」

　それは僕も同じだった。
　しばらくは無事に辿りつきたかった場所へ、どうにか漕ぎ着けたんだと思う度に深く安堵したものだ。

　僕も彼女も微笑んで、それからどちらからともなく、互いの唇を重ねた。


　終わり