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第4回「読んでもらえる記事」とはどんな記事なのか
■自分の記事の「つまらなさ」にヘコむ
有料ブロマガにしても、無料ブログにしても、不特定多数への発信を目的としたツイッターにしても、支持を得るためには、「面白い」記事を書く必要があります。
もちろん、読者に「面白い」と思ってもらうには、さまざまなアプローチがあります。わはは、と笑わせるだけが「面白い」につながるわけではありません。大ヒットドラマになった『半沢直樹』は「痛快さ」から、「面白い」につなげていましたし、浅田次郎さんや重松清さんの小説は「泣ける」ということから、「面白い」につなげています(別のアプローチの作品もあります)。さらに言えば、感情を動かすことだけが「面白い」につながるわけでもありません。ヒットする自己啓発本やビジネス書は、読者に「なるほど」と思わせることから「面白い」につなげています。
合わせ技もあります。ミリオンセラープロジェクトの堀江貴文さんの新刊『ゼロ』のように、「泣かせる」+「勇気づける」+「なるほどと思わせる」で、「面白い」と感じてもらう文章もあります。裏ミリオンセラープロジェクトの岩崎夏海さんの新刊『部屋を活かせば人生が変わる』のように、「なるほどと思わせる」+「実践のための手引きになる」+「へえ、『もしドラ』誕生の背景にはこんなことがあったんだ」で、「面白い」と感じてもらおうとする文章もあります。
『部屋を活かせば人生が変わる』部屋を考える会(代表:岩崎夏海)
このように「面白い」につなげるための道は、たくさんあります。ただ、ブロマガの著者さんにとっては、そんなことは常識だと思います。すでにみなさんは「面白い」を作り出そうとして、それぞれ工夫をしているはずです。しかし、多くの人は、できあがった自分の作品を読み返して、そのあまりの「つまらなさ」に絶望しているのではないでしょうか。
■とにかく描写をする
現代日本において最高の小説家の一人、村上春樹さんは、エッセーの中でこんなことを書いています。
<小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。>(『雑文集』村上春樹より)
この指摘は、小説にかぎらず、批評やエッセーなど多くの文章コンテンツに当てはまると、私は考えています。その人の「判断」ではなく、その人の「観察」こそが、読者に「面白い」と思ってもらえるコンテンツになる。
自分の記事の「つまらなさ」に絶望する人の多くは、こんな勘違いしています。「面白さ」は「読者の意識の裏側に回り込んだもの」を書かなければ立ち上がらない。みんなが考えないような「判断」を提示することこそが、「興味を惹くコンテンツだ」と。サッカーやバスケットボールのような競技で言えば、「ディフェンダーの裏に入る」感覚で、読者をびっくりさせることが必要だと思っている。
しかし、多くの人は、ディフェンダーを抜こうとして、フェイントをかけたり努力しているけれども、なかなかうまくいかない、という状況に陥っています。そして、何度挑戦してもあまりにもうまくいかないので、だんだん書くのが億劫になり、ついには「もう自分には才能が無いのだ」と絶望に陥っていく……。
これは、根本的に考え方が間違っていると思います。
「面白い」ことを、継続的に書ける人というのは、この「ディフェンス(読者)とそれを抜こうとするオフェンス(著者)」というイメージに囚われません。「ディフェンスを抜く」ということを「目的」としないで、ただただひたすら競技に没頭します。競技に没頭する中で、ディフェンスをきれいに抜き去ることもあるかもしれないし、ボールを取られてしまうこともあるかもしれないし、目が合って競技中にもかかわらずフトお互いで笑ってしまうときもあるかもしれない。そのすべての状態を「アリ」とするように動いているのです。
その「競技に没頭する」という状態は、文章コンテンツ制作においては、どのようなことを意味するのかと言えば、まさに「観察」をして、その「観察記録を記す」ということになります。
■ストレスなく書き続けるためには
堀江貴文さんのブロマガにしても、藤沢数希さんのブロマガにしても、津田大介さんのブロマガにしても、彼らは、「人の発想の裏側」に入ろうとして文章をひねり出しているわけではありません。ただ素直に、愚直に、ビジネスならビジネス、恋愛なら恋愛、社会問題なら社会問題を、じっと良く観察して、その自分なりの観察結果を、そのまま文章にしているだけです。
ブロマガにおける彼らの成功は、「うまいこと」が書けているからでは、けっしてありません。自分のよく知っている、あるいは興味のあることについて、「きちんと丁寧に書く」ということができているから、多くの読者を惹きつけることができているのです。
その観察報告が、多くの人の「意識の裏側」に入ることはもちろんあります。でも、それはあくまで「たまたま」であって、そこを目指してはうまくいかない。
例えば、ある「箱」があったとして、遠くのほうからぼんやりと眺めているだけ人は、その「箱」の一面しか見ることができません。でも、近くまで寄ってきて、手で触り、ひっくり返して観察している人は、普段は見えないその「箱」の裏面や、ぼんやり見ているだけでは気が付かない小さな傷まで気付くことができます。著者は、その結果を淡々と書き続ける。すると、ストレスなく書き続けることができつつ、「うわ、この人はどうしてこんなこと考えつくのかな」ということが「自然」と書けているものなのです。
自分の書いた文章を読んで「つまらない」と思ったとしても、その文章が読者にとって「つまらない」とは限りません。自分が「つまらない」と思ってしまったのは、自分のよく知っていることについて書いてあるから、自分自身には刺激が足りなかっただけかもしれません。むしろ、読み返す時点において「刺激」を受けているようでは、事前の「観察」が不十分だったともいえます。
「面白いものが書けないな」と思っている方が注意すべき点は2つです。
・「うまいこと」を書こうとしない
・徹底的に観察をして、その観察記録をそのまま書く
この2点をひたすら続けていると、ある日ふと、「彼女に対して僕の心の中の特別な部分をあけていたように思う。まるでレストランのいちばん奥の静かな席に、そっと予約済の札を立てておくように、僕はその部分だけを彼女のために残しておいたのだ」(『国境の南、太陽の西』村上春樹)といった表現が降りてくるのだと思います。
ご参考になれば幸いです。