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<菊地成孔の一週間/2018年3月第4週>
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<菊地成孔の一週間/2018年3月第4週>

2018-04-13 10:00

    3月23&24日

     

     

     一週間の出来事のうち、たった二日しか写真が撮れていないというのは、いよいよもう「ノンフォト・インスタグラム=一番最初の頃のウエブ日記」に向かうしか無いのか、と思う訳だが、もし脱会者が急激に増えたら、もうしょうがないので、カメラマンを雇い、常にスマホで写真を撮って貰う事にする。スマホの自撮り機能に対するアゲインストである(ウソ)。私は長い間、いわゆる自撮りは鏡に映してやって来た。その頃から、「左右反転は面白いけど(ブログの写真を見てライブに来た人等が違和感を感じるだろうから)、なんかこう、ビデオカメラみたいに、自分でモニターが見れるデジタルカメラが出ないかな?」と思っていたら、出た(まあ、スマホの自撮り機能に押されてくっ付けただけ)。即購入してみたら使いづらいわ特に良い事もないわ、すぐ使わなくなってしまった。スマホの自撮り機能はもう便利過ぎて凄過ぎて、逆にもうアップアップである。竹槍で良いし、最近は竹槍も尽きた。

     

     昔日人々は、まず言葉を発し、そこから誘導的に連想される写真やイラストを添えて来た。それが逆転しているのが現在である。この点だけとれば、一見現代は非常に良い時代になったと思われる。言葉=屁理屈=男性的=無力、よりも写真=感覚的=女性的=有力という、80年代が盛んに夢見ていたユートピアである。当時はこの理念を、テクノロジーの整備ないまま強行し、つまり、いたずらに言語的な意味の繋がりを疎かにし、図像のインパクトで何かを語ろうという、よくわからないモダンアートもどきの現象(作品ではない。具体的な作品も遭ったけど)がメディアに横溢した。一言で言えばエリートの時代である。エリートは理念を試験的に実行する権利を持つ。

     

     現在、その「整備」は、エリートから大衆の手に渡った。彼等はまず「良い写真」を撮ってしまい、そこから誘導的に連想されるテキストを添えている。いま、インスタグラムに小説を連載し、その挿絵としての写真を自分で撮影して添える者がいたらかなり斬新だろう。

     

     しかし、では現在は、80年代が夢見た事が女子中学生にまで定着した、素晴らしい時代の実現した姿なのだろうか?答えはギリギリで否である。言葉優位から、写真優位へ、というのは発達ではなく単なる変化である。つまり、何も変わっていない。写真家は変わらず言葉が不自由であり、小説家は変わらず写真に不自由である。求められるのは常に越境者しか無い。この事は現在、当サイトの動画コンテンツ「ポップアナリーゼ・リローデット」で、「教養主義と無教養主義の融合」として追求されている事や、過去、私と大谷能生と慶応義塾大学で展開した、後に「アフロディズニー」にまとめられる視聴覚の追求とほぼ同じだ。

     

     写真(視覚情報)中心主義には、社会的に盲者を排除するという構造的な欠陥がある。「いや、それは液晶画面上の言葉も一緒でしょう?」という反駁はあるだろうか?無いと思いたい。言葉は音声に容易く変換出来るが、写真を言葉に変換する事はできない。私はさっき、最終スパンクハッピーの歌詞を書いていた、その中に「目の見えないお洒落なアタシはインスタグラムが出来ない」というフレーズを入れたばかりである。当初の案では「目の見えないアタシはお洒落が出来ない」としていたが、どうも釈然とせず、切り替えた瞬間に総てが納まった。

     
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