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  • <菊地成孔の日記 2023年6月9日 午後1時記す>

    2023-06-09 18:0019
    220pt

          「生まれて初めてづくしの旅の話(最終回)」 

     

     いつもペペトルメントアスカラールのステージMCで言うように、嫉妬と自慢はいけない。これは満州鉄道の警備員というバイトを、生涯で僅か6年間だけやった以外は、ずっと板前で、死ぬまで板前だった父親が、唯一遺したウィズダムなので、一生忘れないだろう。嫉妬すると、やがてされるようになる。自慢すると、やがてされるようになる。その結果どうなるかといえば「自慢が過ぎると前から」そして「嫉妬が過ぎると後ろから」「刺されるから」。という話だ。

     

     このウィズダムがあのクソ親父にしては良くできているーー

     

    (推測だが、きっとこれは、僕の守護神である、父方のお爺ちゃんからクソ親父に伝えられたものを、クソ親父が、さも自分で身につけたみたいな顔で僕に授けたのである。やはりお爺ちゃん=胃癌で、四十六で亡くなったが、大変なカリスマ持ちで、陽気な正義感で、彼にどれだけ抱腹絶倒のエピソードがあったか、僕は、出入りの魚屋とか酒屋、近所の店の大旦那たちから嫌という程聞かされた。銚子市が、東京大空襲の残し球をばら撒かれて焦土と化し=歓楽街から駅舎が見たという、特に歓楽街の人々はメンタルがダウンした。お爺ちゃんは、なんとかやっと食用の馬が一頭、市場に届いた時、屠殺させずに、家のタンスに仕舞い込んであった、セレモニー用の軍服と軍刀の鞘だけ下げ、古物商から買った戦国時代の兜を被って、馬にも魚網やら何やらで作った行進用の衣装をこしらえ、それに乗り、歌を歌い、鞭で指揮をとりながら、歓楽街から商店街へと続く焦土を行進し、街の人々はゲラゲラ笑ったり泣いたりしながら、何百人も付いてきたそうだ。そして行進が終わると、お爺ちゃんは馬にキスをいっぱいしてから、解体し、内臓も綺麗にやって、行進についてきた人々のために馬鍋を作った。戦後、界隈いちの大店になった酒屋の店主は「丁稚奉公の頃だったが、後にも先にも、馬があんなに美味いと思ったことはない。ナルちゃんが生まれるずっと前に亡くなったが、寝る前には必ず、お爺ちゃんに話しかけてから寝なさい」と言って一葉の写真をくれた。元、廓の女将だった老女は「お爺ちゃんは、トンボが切れてね=バク宙ができる)そこらの通りで船方でもヤクザでもない普通の人たちがよ、喧嘩したりすっと、近くまで行って、「やめろー!」って、でっけえ声で叫んでね、孫悟空みたいにトンボ切ったよ。そうすっと、誰だって大笑いになってよ。喧嘩してたことなんか忘れちまうだよ」と、目を細めていった。どう考えてもお爺ちゃんはキチガイだったと思う笑)

     

     ーーのは、「嫉妬はされてもするな」とか「自慢はされてもするな」とかいう、セコく、ありきたりな教えではない事だ。「自慢は前から刺され、嫉妬は後ろから刺される」というのは、原理に属することだと思う。

     

     なので、後ろから刺されるリスクを承知で、滅多にしない自慢をするが、僕は角川春樹に、直接「成孔、伊勢神宮なんて観光地だぜ。それよりお前よう、天河神社知ってるか?あそこで護摩炊くときはもうお前よう、夜中から炊き始めて朝まで炊くんだよ。もう若けえヒッピーがいっぱい来てて、全員マッパだよ。マッパ。それで、片っぱしからフリーセックスしちゃうんだ。ほんとだぜ。すんごいんだよお前、成孔よう。うっはっはっはっは」と言われ、肩を組まれてビールを注がれた男だ。

     

     僕は「いやあ角川先生(頭を思いっきりしばきながら「先生はやめろ!」と叫んだ)、痛ってー。フリーセックスとかトランスとかには僕興味ないんですよ。お伊勢さんは、天照大神を祀ってある、全国の神道のネットワークの、プロトコル作ったような中心地でしょう。先生が(頭を思いっきりしばきながら「先生っていうなバカ!」と叫んだ)痛ってー。おっしゃるように、観光地ですけど、それ言ったら最初から観光地ですよ。観光地が聖地ってえのが、良いんじゃないですか?」と言った。 

     
  • <菊地成孔の日記 2023年6月6日 午後2時記す>

    2023-06-07 22:2012
    220pt

     「生まれて初めてづくしの旅の話(2)」

     

     

     僕が不安神経症を発症し、強いパニック発作があったこと、それを精神分析と内気功のコンビネーションで治療したことすら知らない。という人も増えているかもしれない。僕は分析医にも気功師にも恵まれ、症状としては半年で治ったし、その後も自分の心身をチェックするために、今でも内気功(合気道の秘術や、ドラゴンボールのカメハメ波みたいな、両掌中から発するエネルギー体。みたいなものが実存しないのは言うまでも無いが、遠隔で整体ーーここでは、気の流れを整えることーーすることさえ「外気功」とされ、これは中国政府も、気功の学会も実存は認められていない。気功によるあらゆる治療は「内気功」、即ち整体師が患者の体に触って、更には患者自身が自分の体を触って通気させる治療法のことで、日本語の「手当て」に結実しているが、「癒気(ゆき)」とも言う)の道場には通い続けているし、精神分析のセッションも、強い症状が収まり、「寛解」のような状態になっても10年間(50歳ジャストまで)続けた。

     

     しかし、コレは行動療法(僕は行動療法の指導は一切受けていないので、偶然。ということになるが)としても、伝統的、慣習的な自然療法にも適合していると思うのだが、僕が日々行なって、それによって明らかに症状を収めたものは、「散歩」だった。

     

     中でも、それまで、まあ、嫌いということも全く無いが、特にありがたみを強く感じていたわけでも無い、「神社や寺院に行くこと」の効果は絶大なものだがあった。

     

     神社の方は、幼少期に性被害に遭いかけた舞台が神社の裏庭みたいなところだったので、しばらく恐怖心があったが、地方の、寂れた神社はお化け屋敷の如きであり、神社という存在に一般性を持たせるには至らなかった。小中の頃から、まだ売れっ子小説家になる前の兄が、家族旅行を企てる歳、最初に行ったのが京都で(なので、高校の修学旅行よりも早く僕は京都通いをしていた)、神社仏閣がどれも素晴らしく、三味線を伴奏楽器にした、長唄、清元、常磐津、都々逸、小唄、端唄、といった芸事が(テレビで歌舞伎中継を熱心に観ていた事もあり)好きで、いまだに誰の前でもやったことがないが、インチキな長唄の類を、学童の頃から、学校の帰り道で歌っていた事もあり(これが、「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」の、第一近過去のシーンに活かされている)、花街や元花街に興味を持っていた事も幸いした。

     

     しかし、「樹木に触れる事」を経験したのは、この、治療中の散歩の時が初めてである。浸透儀式、神道の歴史、等々に関しては全て割愛する(無駄に長くなるので)が、もちろん、賽銭を投げ、柏手を打つのは最重要な行事で、僕は自宅にも事務所にも神棚は欠かしたことがない。しかし、神社には100年単位の樹齢を持つ巨大な古木が植えられている(ここで、1000年単位のが凄かろう。という論法が出てくる。後述するが、僕は100年単位で充分である)。

     
  • <菊地成孔の日記 2023年6月6日 午後2時記す>

    2023-06-06 18:0010
    220pt


    「生まれて初めてづくしの旅の話(1)」

       
      「志摩観光ホテル ザ・クラシック」は、僕が生まれて初めてワイン、厳密には白ワインを飲んだ場所で、尚且つ、美味すぎて飲みすぎ、さすがに自室に戻ってからだが、ゲロを吐いたホテルである。それは1977年のことだ。


     

     「酒を飲みすぎてゲロを吐く」という行為は、日本では法律的にも倫理的にも強くは禁じられていない。なので、これを読んでいるどなたにとっても、見知った光景であろう。そして、概ね「嫌いな(軽く目を背けたくなるような)光景」ではないかと想像する。



     

     今更こんな場所(有料会員制のテキスト&動画チャンネル)で、僕の幼少期の話をするのも、いかに年寄りとはいえ、繰り言が過ぎるという誹りを受けてもおかしくない。僕はヤクザか漁師のゲロから逃げ、ゲロを浴び、かなりの暴力を目の当たりにし(それには「店内」と「店外」という違いがあり、多くの格闘技ファンや、喧嘩にまつわるファンタジーに淫する人々が考えるような、大きな差があった。ウチは春夏秋冬にかかわらず入口を開けていたーー閉めると漁師が暑くて裸体になってしまうのでーーので、いわゆる「路上」と「屋内」は地続きであり、閉鎖的か、開放的か、ぐらいの空間感覚の違いでしかなかったが、そこで使用される、特にヤクザのムーヴには、全く別の競技スキルが存在した)、血液や体(主に顔面)の切片、折れた歯、を始末し、ゲロと血液を掃除して幼少期を過ごした。この時間だけが、僕と実の母の、毎夜の交情の時間だった。



     

     彼女は強く強く、何事かを隠していた。隠しながら、ニコニコしていた。僕と実母は、濡れた雑巾をひと組のワイパーのように動かしながら、その日の終わりの会話を楽しんだ。「お母ちゃん、また歯があったよ。これ、前歯だね」「(ニコニコしながら)奥歯が多いのに、珍しいなナル坊笑」「根っ子がついてる」「おお、折れてねえのが。今日、山岸さんいだあ?」「いたよ」「じゃあ山岸さんが折ったでしょうよ。山岸さんはおっかねえがんな笑」「コーラの瓶でやってた笑」笑いながら母親が陶器の灰皿を差し出す。僕はおどけて、遠くから賽銭のように前歯を投げ、上手く入るとコリン、という音がした。「あら、また当たりだよ。腕上げだな、ナル坊笑」。



     

     東京の人間である義姉と結婚した兄は、のちにワイキキにまでたどり着くが、最初期の親孝行旅行には、昭和の結婚式旅行のコースの定番を選んだ。両親ともに飛行機を怖がるだろうから。それは、京都、金沢を経て、ここ伊勢志摩に決まった。



     

     ミキモトの真珠島、そして何よりお伊勢参りがあるこのコースは定番の一つだったが、(当時まだ)真珠にも、お伊勢参りにも興味がなかった僕が、地産地消の先駆だったリゾート開発事業の一環として、山海の珍味をフレンチのルセットに乗せて供するというのは、想像するだけでよだれが出た。ネットもグルメガイドブックもない時代に、僕は文字情報だけでギンギンに勃起していた。 


     

     のちにこうした職業に就く中坊の自意識過剰がどのようなものであるか、想像していただけたら幸いである。自分で選んだVANのスーツとシャツとネクタイで、リゾートホテルのグランフルコース(現在においても「志摩観光ホテル ザ・クラシック」のメインの食材が、伊勢海老、鮑、伊勢牛、の三種の神器であることは変わらない)のテーブルに着いた、夢のような気分。フォークとナイフは、対称性を持って各々6本づつ置かれていた(エビの細かい部分をせせりだす、二本鉤の手術用組たいなアレ。も生まれて初めて見た。銚子の人間は、甲殻類をあんなものを使って食べたりしない)。