今回はブログ『とらっしゅのーと』からご寄稿いただきました。
※この記事は2014年07月06日に書かれたものです。
■『超高速!参勤交代』はどれだけ無茶か、行軍速度から考える~主に南北朝主要武将の事例から~(とらっしゅのーと)
最近公開された映画『超高速!参勤交代』が好評のようですね。何でも、湯長谷藩(福島県いわき市)藩主が徳川政権から「5日以内で江戸へ参勤交代せよ」という無理難題を命じられ、知恵を絞り妨害をかわして何とか命令を遂行しようという物語だそうで。果たして彼らはこの無茶振りな使命を成功させられるのでしょうか?
関連サイト:『超高速!参勤交代』
http://www.cho-sankin.jp/
少し調べてみたところ、湯長谷藩のあった福島県いわき市から江戸(東京)まではほぼ最短距離で約210㎞、もし仮に白河を経由して奥州街道を通れば約300㎞になるようです。まあ、googleマップで大雑把に調べただけなので当時と現代で多少のルート違いはあるでしょうが極端な差はないかと思います。これを5日、実質4日で突破するとなると1日当たり55㎞~75㎞程度の行程が必要になる計算に。
これが実際のところどの程度無茶なのか、比較対象として軍隊の速度を参考に考えてみたいと思います。参勤交代のルーツは軍役にあったらしいですし、多人数を率いて長距離を移動する事例としてサンプルとするには適切かと。もっとも、街道が整備された平和な時代の行列と乱世の道中略奪しながらの行軍を同一に扱えるのか、という問題はあるかもしれませんが(事実、そのようなコメントはいくつか頂戴しております)。まあ、個人的な好みによるお遊びという事で、大目に見ていただければ幸いです。上記サイトによれば、裏道を通ったり道中で妨害を受けたりがあるっぽいので、「敵地」を行くと言えなくもないかも、という事で。
あと、せっかく個人的な趣味の企画ということで、主に南北朝時代の事例を対象に考えてみます。これも、googleマップで大雑把にルート・距離を計測しています。当時と現代で違いもあるでしょうから厳密な評価にはなりませんが、大凡の目安ということで御勘弁を。こんな大雑把かついい加減な計測・考察なのでネタとして御覧いただけたらと存じます。では。
建武二年(1335)、中先代の乱を鎮圧した際の足利尊氏は、『梅松論』によれば8月2日に京を出立し同19日に鎌倉へ到達しています。京都から鎌倉を東海道経由で行くと約430㎞程度のようですから1日当たり25㎞程度です。
その後、尊氏が建武政権に反旗を翻したためこれを討伐するためやはり東海道を攻め上った新田義貞は京都から箱根西まで約380㎞を16日で踏破。1日平均約24㎞。
新田軍を撃破した尊氏がこれを追撃して京に攻め上った時のペースは『梅松論』を参考に考えると同年12月15日に浮島原(沼津市)を出立し同30日に伊岐代(滋賀県草津市)まで330㎞強で1日当たり約22km程度。
そして、そんな尊氏を撃つべく奥州から急追する北畠顕家。彼が奥州将軍府を出撃したのは12月22日、近江愛知川に到着したのが翌年1月13日です。将軍府の位置は諸説あるらしいのですが、多賀城と仮定すると愛知川まで関東・東海道経由で約810㎞。1日当たり約38㎞といったところでしょうか。
その後、京攻防戦に敗れ九州に落ち延びた足利軍は巻き返しを果たし、水陸に分かれて再上洛を行います。その際に陸軍を率いた足利直義は建武三年(1336)5月10日に鞆(広島県福山市)を出立し兄・尊氏の率いる水軍と連携しながら同25日に兵庫(神戸市)に至り新田・楠木軍と合戦。その距離は約210kmで、1日当たり約14㎞程度。
南北朝を代表する名将たちによる進軍と比較しても、湯長谷藩の参勤交代は明らかに過大なペースが要求されるようです。まさに「超高速」。
世界史レベルの視点で比較すると、どうなのか。それについては、以前にMyがまとめてくれています。
関連記事:「どれほど兵は神速を尊ぶか? ~歴史的に行軍速度を探求し戦争術評価の尺度とする試み~」 2008年03月05日 『とらっしゅのーと』
http://trushnote.exblog.jp/8127505/
それによれば、時代や条件の違いを考慮する必要があるとはいえ1日6㎞以上なら並以上、10㎞以上なら優れた組織、20㎞以上を維持できれば最高水準だそうで。短期間に無理をすれば可能なギリギリの範囲が1日50-70㎞というところのようです。
これに照らし合わせると、南北朝の武将たちは、「10日以上にわたって敵の防衛線を突破しながら敵の拠点に迫る」という難易度の高い過程で通常行軍における「最高水準」レベルの速さを維持していた、という事になります。大したものです。個人的な感想としては、尊氏はやはり優れた指揮官だな、というのと顕家は色々とおかしいということ。流石は南北朝を代表するチート指揮官二人というところでしょうか。
あと、義貞もさすがです。彼は尊氏・顕家や楠木正成と比較してパッとしない印象を受けがちなんですが、統率においては尊氏と比べてもそう引けを取らない、非常に優れた力量を発揮する指揮官であった事がわかります。大軍指揮の経験が乏しい状況で、かつての同僚・目上や戦慣れしていない貴族たちによる混成軍を率いてこの速度ですからね。
なお、義貞は元弘三年(1333)に鎌倉へ攻め上った際には5月8日に生品明神で挙兵したのち八幡荘(高崎市)で越後の一族と合流し9日に出撃、同日夜は将軍沢(比企郡嵐山町)で宿営しています。これは1日で約48㎞進撃した計算に。更に11日朝には小手指原(所沢市)で合戦し敵を撃破していますから、翌日もほぼ同様なペースで進軍したもののようです。この際、新田軍は足利千寿王(義詮)を奉じる足利軍と道中で合流しており、指揮系統が充分統一されているか怪しい状況で1日約50㎞ペースを達成している訳ですから、やはり賞賛に値するものと思われます。
あと、直義は兄と異なり戦場での実績があまり芳しくなく弱将のイメージを持たれがちですが、少なくとも大軍を崩壊させず戦場に連れていく統率力、という面においてはなかなかに優秀な力量を示しています。正直、意外でした。彼もまた、足利軍にとっては欠かせない指揮官なのがわかりました。
さて以上から考えるに、湯長谷藩に要求された速度は、無理をすれば何とかならなくもなさそうに思えるギリギリのラインを巧みについたもののようです。…出てくる比較対象が古代ローマの精鋭だったりナポレオン帝国が誇る大陸軍だったりするあたり難易度の高さを伺わせますし、太平に慣れきった時代という点では練度という意味で難易度が乱世の軍隊より高そうですが、街道は太平の世の方が進みやすかったりもしますから何とも。一縷の希望を残して「一か八か」の賭けに打って出させ、妨害によって挫折させ心を折る。そういう中々によく考えられた意地の悪い命令、なんでしょうか?このあたりの設定も、ある種のリアルさを感じさせるもののように思います。映画を見る上で、その辺も頭に置きながら鑑賞するとあるいは面白いかもしれません。
【参考文献】『世界大百科事典』平凡社
『京大本梅松論』京都大学国文学会
村松剛『帝王後醍醐』中公文庫
中村孝也著『北畠顕家卿』小学館
岡野友彦『北畠親房』ミネルヴァ書房
『日本古典文学大系太平記』一~三 岩波書店
峰岸純夫『人物叢書 新田義貞』吉川弘文館
「Googleマップ」(https://www.google.com/maps/preview)
関連記事:
「どれほど兵は神速を尊ぶか? ~歴史的に行軍速度を探求し戦争術評価の尺度とする試み~」 2008年03月05日 『とらっしゅのーと』
http://trushnote.exblog.jp/8127505/
「<雑記>南北朝武将版「全選手入場!!!!」【ネタ記事】」 2013年11月20日 『とらっしゅのーと』
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「サムライ、ハラキリ、ブシドー~切腹を軸に武士の有り様を見る~」 2010年07月24日 『とらっしゅのーと』
http://trushnote.exblog.jp/13645724/
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
南北朝に関しては
「南北朝関連発表まとめ」2009年03月25日 『とらっしゅのーと』
http://trushnote.exblog.jp/10583247/
軍事史に関しては
「とらっしゅのーと軍事史図書室」2011年02月22日 『とらっしゅのーと』
http://trushnote.exblog.jp/14951953/
執筆者:NF
執筆: この記事はブログ『とらっしゅのーと』からご寄稿いただきました。
寄稿いただいた記事は2014年07月08日時点のものです。
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