今回は橘玲さんのブログ『Stairway to Heaven』からご寄稿いただきました。
■『臆病者のための裁判入門』事件の発端 えっ、ぜんぶウソだったの!?
最新刊『臆病者のための裁判入門』(Amazon「在庫切れ」から「発送可」に復帰しました)から、事件の発端部分を掲載します。
臆病者のための裁判入門 (文春新書) 橘 玲 (著) 『Amazon』
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ここから、2年半におよぶ民事裁判の迷宮めぐりが始まりました。
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トムから最初に相談を受けたときは、こんな面倒な話になるとはまったく思わなかった。
トーマス(トム)・ニーソンはメルボルン生まれの28歳で、日本に来て5年になる。カナダ人の知人に紹介されて知り合ったのだが、英会話学校の教師をしながら通信教育でMBAを取得した努力家で、当時は大手コンサルタント会社の契約スタッフだった(現在は外資系IT企業の日本法人で働いている)。
相談の内容は、ほんとうにささいなものだった。
その年(2009年)の2月、トムは友人のバイクを運転中に事故に遭った。といっても乗用車と接触しただけで、革のジャケットやヘルメット、カバンの中の電子機器などが破損したが大した怪我はなかった。
事故による損害(物損)は15万円ほどで、それを保険金請求したいのだが、損害保険会社の担当者が相手にしてくれないのだという。このままでは埒があかないので、自分の代わりに損保会社と交渉してくれないか、というのが相談の内容だ。私がその話を聞いたのが10月だから、事故からすでに8カ月経っていた。
トムは日常生活に差し支えない程度の日本語を話すが、約款が読めるわけでもなければ、損害保険の専門用語を知っているわけでもない。ひととおり事情は聞いたものの、私はたんに損保会社の説明を理解できないだけだと考えた(誰だってそう思うだろう)。だったら担当者から保険金を請求できない理由を聞いて、それを本人にわからせればいいだけだ。
ここから、相手の損害保険会社をA損保と表記する。特定の損保を批判するのが本書の目的ではなく、事件の内容を一部簡略化しているためでもある。個人名もすべて仮名で、担当者は栗本としよう。
栗本は、A損保の保険金処理窓口となる東京郊外のサービスセンターに勤務する若い男性社員で、私が電話すると、トムの件にはほんとうに困っているのだ、とため息混じりにいった。彼の説明によれば、事故は明らかに相手のドライバーの責任で、先方の損保会社(T海上)とも20対80の過失割合で合意しているのだが、ドライバーが頑として非を認めないのだという。「保険金の支払い手続きが滞っているのはT海上がドライバーを説得できないからで、このままだと訴訟が必要になるかもしれない。現在、T海上に対してなんとか解決するよう強く申し入れているところだ」という説明だった。
もちろん私は、栗本の説明を100パーセント信じた。私は車もオートバイも所有しておらず、損害保険を請求した経験もないが、交通事故が過失割合で揉めるケースが多いことくらいは知っており、彼の言葉を疑う理由などどこにもなかった(「そんなこともあるんだろうな。大変だな」と思った)。
栗本の話では、現在、T海上がこの件を社内で協議していて、結論が出るのは今週いっぱいかかるとのことだった。そこで、「できるかぎりトムの希望に沿って手続きしてあげてください」と頼んで電話を切った。
その週の金曜夕方になっても栗本から連絡がなかったので、どうなったのかと思ってこちらから電話してみた。栗本は報告が遅れたことを詫びると、「いまちょうどT海上の担当者が上司と話し合っていて、もうすこし時間がかかりそうでなんです」といった。いずれにせよ、週明けまで待つしかないとのことだった。当然のことながら、私はこの言葉もそのまま信じた。
翌週の月曜は振替休日で、火曜日の夕方になっても栗本から連絡はなかった。仕方がないのでこちらからまた電話をすると、体調を崩して休んでいるといわれた。
ここに至って、生来鈍感な私も、なにかがおかしいと思いはじめた。そこで、T海上に事情を聞いてみることにした。
T海上の担当者ははきはきとした若い女性で、トムの名前を告げるとすぐに思い出した。彼女の説明は、驚天動地としかいいようのないものだった。
T海上の記録によれば、トムの件は事故直後の2月に自損自弁で処理されていて、ファイルは解決済みとして倉庫にしまわれていた。乗用車のドライバーは車両保険に加入しており、修理代はすでにT海上が全額保険で支払っていて、「過失割合で揉めている」などということもなかった。この件が社内で問題になっているとか、上司と対応を協議している、という事実もない。A損保の栗本からは2月以来なんの連絡もなく、いったいなんの話か困惑するばかりだ……。
栗本の説明は、すべて嘘だったのだ。
(これ以降の経緯は本でお読みください)
臆病者のための裁判入門 (文春新書) 橘 玲 (著) 『Amazon』
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執筆: この記事は橘玲さんのブログ『Stairway to Heaven』からご寄稿いただきました。
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