※『IT批評 2号 特集:ソーシャルメディアの銀河系』(2011年5月刊行)より岩上安身さんの「ソーシャル・ジャーナリズムの可能性」を転載。『IT批評』最新号は2013年3月12日発売です。
■ソーシャル・ジャーナリズムの可能性
既存マスメディアの機能不全を補うもの
●ジャーナリズムの原点
最初に押さえておきたいことだが、ソーシャルメディア・ジャーナリズムなどと言っても、IT技術の変化だけでジャーナリズムや政治といった生の現実がすぐに変わるとは私は思っていない。私は2009年にパソコン教室に通っていたくらい元々はIT音痴なのだが、毎日iPhone で呟き、ユーストリームで情報配信するようになっても、仕事の本質はそう大きく変わっていない。人の営みは有史以来、アナログな行動が中心だ。その理解のうえで、ITが私たちにもたらしてくれた恩恵をあげるとすれば、第一に、情報伝達の圧倒的な即時性があげられる。ユーストリームなので、リアルタイムで中継ができる。しかも、簡易な機材でいくらでも多元中継が可能だ。結果として、テレビよりもはるかに大量の情報を送り届けられる。
一般に、私たちがテレビや新聞などのマスメディアを通じて得ている情報は、加工され編集されたもので、生の現実世界とは異なる。メディアはその特性上、生の現実世界をわかりやすいストーリーに演出して見せるが、現実には「私利私欲だけにかられた政治家」や、「正義だけのために動く警察組織」や、「公正中立で不偏不党のマスコミ」といったステレオタイプは存在しない。現実は常に、もっと複雑である。
私はジャーナリストとして取材をしながら、いつもマスメディアの提示する単純な世界像と生の現実世界との乖離に違和感を覚えてきた。そして、一般市民が受け取る情報と取材の最前線で自分が見ている現実とをできるだけ近づけられないかと、ひそかに思案もしてきた。自分の見ている現実を、その場にいない誰かにありのままに伝えたい────これがジャーナリズムの「欲望」の原点ではないかと思う。
2009年11月下旬、私はある政界関係者から、「普天間問題で、大阪府の橋下徹知事が関空の使用を検討する旨の発言をしている」との情報を得た。しかし、当時は、このような重大な発言が、テレビや新聞ではまったく報道されていなかった。各メディアがまるで申し合わせをしたかのように、情報をコントロールして表に出さないようにしていたからだった。そこで私は、11月30日、大阪まで出向いて、定例会見に出席し、知事にこの件について直接、質問し、その模様をビデオカメラに収めた。すると、その場に居合わせた記者クラブメディアの記者たちは皆、本社に連絡をし、私が東京に戻ってユーチューブに会見の動画をアップする前に、この橋下発言をニュースとして一斉に報じた。私の取材によって、情報のコントロールができなくなり、私に情報を出される前に先に報じてしまおうと判断したものと思われる。
これはITの進歩によって誰もが映像の配信を行えるようになり、マスコミが情報を管理することが難しくなったひとつの事例である。
昨今の中東の民主化革命でも、ITによる情報伝達が大きな役割を果たしている。エジプトでは、ムバラク大統領がネット回線を遮断しようとしたが、完全に断絶することはできなかった。アルジャジーラも放送を止められたが、支局員は「うちは何度も止められているから慣れています。どんなことがあってもお伝えします」と意気軒昂であった。
●マスメディアの裏にあるもの
新聞やテレビはメディアとしてはいびつな構造になっている。記者クラブ制度による情報の独占だけではなく、電波など、限られた社会的資源も、ほんの数社の寡占資本が独占しており、業界への新規参入を許していない。これはカルテルそのものである。また、巨大な装置企業になってしまったがゆえに、ある程度の売上を確保しないと存続できない。そのため、マネタイズを優先せざるをえず、広告主(スポンサー)の意向に背くこともできず、また読者・視聴者の最大公約数の嗜好に合わせた紙面・番組作りを余儀なくされている。その結果、日本のマスメディアは、大資本と権力に対するチェック機能を十分には果たせなくなっている。90年代後半以降、マスメディアにあふれた新自由主義や行き過ぎた自己責任論の言説は、マスメディアのスポンサーに外資系資本が入り込み始めた時期と重なり合っている。たとえば消費税の税収は、導入されてから現在までのトータルで220兆円近くになるが、その増税分は法人税減税によってほぼそっくり置き換えられ、再分配されないままになっている。一般家計から大企業に資本が移転されたわけだが、株主の取り分ばかりが大きくなり、トリクルダウン効果などは起きないまま、格差は拡大して、庶民の生活はどんどん苦しくなっている。こうしたからくりについて、マスメディアは積極的に語ろうとしない。消費税増税論議でも、「財政再建」の視点ばかりが強調される。最近でも、アメリカが日本の「植民地化」を「深化」させるための総仕上げともいえるTPPについて、ほとんどのマスメディアはその危険性を報じることがない。
こうしたマスメディアによって構成されてきた戦後日本の言論空間もまた、いびつである。いわゆる戦後右翼は愛国と再武装の重要性を語るが、在日米軍を否定せず「属米」の態度を貫いている。一方、戦後左翼は憲法九条の理念を掲げて平和を希求するのは良いのだが、そのために武装にならねばならないと空想的な理想を語る。結果として、アメリカへの依存を脱却することができない。周辺諸国との友好を求めつつ、自国で安全保障をまかない、自主防衛、自主独立の道を選ぶというまっとうな主張が行われない。実質的にアメリカの「属国」である。ところが、こうした指摘や批判は、マスメディアの表舞台に登場することはなかった。行政権力が対米依存構造となっているときに、国民本位の政治を行うように糺すのは有権者によって選ばれた政治家の役割だが、日本ではメディアがよってたかって政治家をピエロに仕立て上げて無力化するために、まともな議会制民主主義が機能しにくい。「政治家叩き」こそが、権力批判だと主張する向きもある。しかし、個々の政治家を批判しても、行政権力への批判を回避するようでは、その「権力批判」の底の浅さが露呈してしまう。どちらが権力を持っているかは一目瞭然なのに、だ。
●マスメディアvsソーシャルメディア
いま起きている中東の民主化革命ではソーシャルメディアが大きな役割を果たしていると言われているが、私は日本でも同じような「革命」が起きるかどうかについては疑問視している。「革命」は、技術の進歩によって「自動的にもたらされる」ものではなく、担うのはあくまでも人々の政治意識だからである。中東や南米には、イスラム教やカトリックのような国民国家を越えて拡がる宗教、さらにスペイン語のような国境を越えた共通言語による結びつきがあるために国家の外部からの視点がもたらされ、国家の欺瞞が暴かれやすい。
それに比べて、日本のように、言語や宗教で「孤立」した情報の閉鎖系たる島国では、マスメディアが足並みそろえて情報を統制してしまうと、自らを相対化する視点を持ちにくく、自分たちのありのままの姿を見失いがちになる。
日本人の政治的な感覚は必ずしも高くない。小沢一郎氏の事件でクローズアップされた検察の問題についても、南米では同じような不当捜査で何人もの有力政治家が失脚しているので、誰もが検察の捜査の政治性や恣意性を疑ってかかる。また、背景に米国という「帝国」の存在が控えていることも、政治的な常識として広範に共有されている。しかし日本では、推定無罪の原則を無視して、小沢氏に対するネガティブキャンペーンが繰り返されても、多くの人々は素朴に報道を信じ、疑おうとしない。
マスメディアが発信する一方通行の情報を鵜呑みにすることが正しいかどうか、立ち止まって考える必要がある。マスメディアが国会や省庁内部に記者クラブを作って、フリーランスのジャーナリストやネットメディアなどを締め出してきた現実は、最近ようやく一般の人々にも知られるようになってきた。行政権力にもたれかかりながら情報を独占してきたマスメディアは、それ自体、巨大な権力であり、その権力が私たち一般の国民の利益のために正当に行使されているという保証はどこにもない。
情報は権力である。情報こそは権力であると言ってもいい。私たちは資本と行政権力と深く結びついたマスメディアの、一方向からの情報の流れにあまりにも依存し過ぎてきた。ソーシャルメディアの持つ双方向性、情報の相互応答はこうした一方的な情報の流れを変える可能性がある。
ソーシャルメディアに絡めて言えば、フェイスブックが日本で流行らないとされる理由のひとつに実名の記載がある。匿名性の中に逃げこんでいたほうが責任を負わされることなく、権力を振るいやすい。官僚も新聞記者もそうだが、可視化されない領域であれば責任をとらなくてもよいし、不当な権力行使も行いやす
いからだ。
ソーシャルメディア、特にツイッターは、これまでのネット上の掲示板などとどう違うのか。掲示板では誰もが同じ一望監視の視点から均一な「全体」を眺めることになる。そうした場では、荒らし行為によって場を破壊することは容易である。小さなテロによる脅しの効果は非常に大きい。
しかし、ツイッターにおいては、相互のフォローによって成り立つので、各人の見ているタイムラインはそれぞれに違う。一望監視の視点には誰も立つことができないので、共通の場を一挙に破壊することは困難だ。もし荒らしを行う者がいても、相互フォローせず、スルーすればすみやかに場の平穏を回復することができる。これは実際の社会のコミュニケーション感覚により近い。
●物語は権力と結託する
私たちは世界や歴史を眺めるときに、つい中央集権国家の中枢や巨大産業の動向といった権力の中心ばかりに目を向けがちだが、情報というものは世界のありとあらゆる局所から発信されている。中央から周縁に向けて放散されるもののみが正しい情報であるとか、古い情報は常に新しい情報に置き換わって一方向に向かって進歩していくというリニアな歴史観は、正しいとはとても言えない。
そもそも歴史は、過去から未来へと常に一方向の進化の道をたどっているわけではない。その意味では、マルクスの歴史観は確かに間違っていた。歴史の内部に生きている人間が、その歴史を外部から眺めることはできない。現在の事象をもっともらしく整然と説明する言説はすべてよくできたフィクションにすぎない。
私の『あらかじめ裏切られた革命』(講談社)は、ソビエト連邦の崩壊とロシアの民主化革命の過程を描いたノンフィクションだが、これはクレムリンの動きだけを追った作品ではない。ソ連崩壊後にあちこちで起きた諸問題についてそれぞれに取材を重ねていったものだ。
ソ連は共産党が中央集権的に経済を統制していたといっても、中央が捕捉できない地下経済はいくらでも存在した。経済主体はひとつではなかった。また、共産主義社会では「克服」されたはずの民族問題も各地で勃興していた。モスクワだけが「中心」なのではなく、「辺境」とみなされていたチェチェンやグルジアにも、それぞれ固有の物語が存在した。それぞれの土地、それぞれの民族は、それぞれに世界の「中心」だった。だから、クレムリンのみに焦点を当てて、包括的なストーリーを描くのではなく、それぞれの現場で起きている事件を私自身が取材した視点でそのまま記述するのが、もっとも誠実な方法と感じられた。一部では「まとまりがない」との批判も受けたが、世界とはそもそもがまとまりのない多極的なもので、そこに無理にわかりやすい構造を当てはめて単純化したストーリーを捏造することのほうが、私にはいかがわしく感じられた。
歴史を外部から見渡し、俯瞰する視点は、我々生身の人間には決して持ちえない。そうした俯瞰の視点は、虚構の視座に他ならない。私たちは空間的にも時間的にも限定的な存在である。局所的な場所を占めながら、それぞれに限定的で多様な認識を刻んでいくのだ。私の描ける記述は、「私」という固有の肉体をもった限定的な存在が認識できたことだけだ。そして、それで十分なのである。統一された一望監視の視座は、存在しない、ということ、これはソーシャルメディアの世界観にとてもよく似ている。私たちのそれぞれのタイムラインは、それぞれに似かよってはいても、しかしひとつとして同じタイムラインは存在しない。
一人の英雄や、あるいは英雄的な集団や国家や民族という単一の主体が、ある種の理想に燃えて世界を変えていくという単線的でわかりやすいストーリーは、時に非常に残忍な結果を生むのではないか。そうした危惧が、私の中には常にある。その懸念の原点となったのは、おそらく、連合赤軍によるあさま山荘事件だろうと思う。あさま山荘事件の当時、私は小学生だったが、あの生中継は、忘れがたい体験として胸に刻みこまれている。機動隊による包囲と突入の一部始終を、テレビが何時間にもわたり、いま風の言葉でいえば「ダダ漏れ」の中継を行った。教師も授業を止め、生徒とともに食い入るように見続けた。連合赤軍事件というおぞましい事件を小学生のときに「目撃した」私は、左右を問わず、自らをエリートとみなした人間が一段高いところから紡ぐストーリーへの警戒心を強く抱え込んだ。
では、さて、どうすればいいのか。それを考えることが、私のジャーナリスト人生の始まりだった。それは必然的に、マスメディアに対する違和感にもつながっていった。最初の書籍で権威ある賞をもらった後に、私のもとにはいくつか出版の企画が舞い込んだ。しかし、そのほとんどは受賞作品の「欠点」であるまとまりのなさを「是正」して、わかりやすいストーリーを紡ぐことを求めるものだった。その理由は、「読者は物語を求めている」から、言い換えれば、そうしたほうが「売れる」からというものだった。しかし、それは私の書きたいものではなかった。
●兼業ジャーナリストの誕生
ソーシャルメディアは、私のような「まとまりのない世界観」を持つジャーナリストにも声をあげる術を与えてくれた。ツイッターは、最初は虚空に向けて呟くようなものだったのだが、私はどんな反応が返ってくるかも考えず、期待もせず、ただただ暗闇にボールを投げ込むように、呟き続けた。そのうち、ぽつぽつと反応が返ってきはじめた。思いがけないことに、共感や賛意を表明するツイートが圧倒的に多かった。そのうちにフォロワー(読者)が増えて、さらにRT(リツイート)という機能で声を増幅してくれる人が現れた。いまのフォロワー数は8万人近くいるから、控えめに4万人が定期的に見ていると仮定しても雑誌程度の影響力はあるだろう。もしソーシャルメディアなくしてこれだけの大きな声をあげようとすると、大変なコストがかかってしまう。
私はこれまで雑誌に記事を書き続け、テレビにも10年以上コメンテーターとして出演し、発言し続けているが、正直なところ、ここまで多くの方々からダイレクトなメッセージを受け取ったのは初めてだった。「日本はアメリカの属国であり、まだ独立を果たしていない」というのは私の長年の持論ではあるが、これを人に理解し、受け入れてもらうのは困難で時間がかかると感じていた。しかしツイッターで呟くと、あちらこちらから同意の声があがってきた。「自主独立」「自主防衛」などという理念は、日本の言論空間ではほとんどタブーに近かったが、あっという間に広がり、受け入れられていった。ソーシャルメディアでなければ、こうした呼応、響き合いは生じなかったと思う。
情報の「送り手」であるメディアと情報の「受け手」である大衆という二元論では見えなくなっていた、自分の意見を持つ個人が、ソーシャルメディアによって可視化され、つながりと応答の関係を持てるようになっていった。ツイッターは、個々人が短文で言葉を交わすメディアだ。私にはこれが、ブログよりもさらに生の現実世界のコミュニケーションに近いものだと感じられた。
新聞や雑誌の記事や、ブログは、時間をかけて編集された独白の文体である。しかし、生の現実世界では独白の文体でしゃべる人はいない。いるとすれば、それこそ政治家の演説くらいのものである。ツイッターの短文の応酬は、演説ではなく対話により近い。現実のコミュニケーションの代替となりうる。
ソーシャルメディアの持つ重要な特性は、視点の複数性、応答性である。一般市民の一人ひとりがマイクロメディアの「市民ジャーナリスト」となって、自分から情報を発信し、絡み合うことで、本当のソーシャルメディアの可能性が広がると私は思う。
いま私は、市民の一人ひとりが身の回りに起こりつつある現場をレポートする「兼業ジャーナリスト」のすすめと、ホームビデオカメラを持った「中継市民」によるストリーミングネットワークを提唱している。賛同して、行動を始めている方々の中には、行動力のある若者だけではなく、これまでまったく政治に興味のなかった50代の主婦や、定年退職し、時間の余裕のできた60代の男性など、多様な人々がいる。これまでは情報発信力がないと思わされてきた市井の人々が、ソーシャルメディアによって「市民ジャーナリスト」へと変貌していく姿を見ると、いままさに、メディア史上の大きな転換点にさしかかっていることを実感する。「私なんかがジャーナリストなんて」と謙遜したり、怖じ気づいたりする方も少なくないが、そもそも情報発信の権利は、政府からの許可によって与えられるものではないはずだ。自分が見て、聞いて、感じて、知りえた事実を他者に正確に伝える権利は、生まれながらにして人間が持つ自然権のはずである。本来、「ジャーナル」とは「日々の記録」であって、個々人が自分の日々の記録を発信することがジャーナリズムの起源である。本来のジャナリズム活動とは、今日の新聞記者のような、特権的な専業ジャーナリストのみの専売特許なのではなく、他に仕事を持ち、多様な人生を営む、様々な職種の人々によって担われるべきものであると思う。情報の受け手である市民が兼業ジャーナリストとして情報発信する側に回ることは、閉塞してしまったこれまでの専業ジャーナリズムを大きく揺さぶり、私たちを取り巻く情報環境を一変させてゆくだろう。専業のジャーナリストとなると、生計をジャーナリズム活動にのみ依存するので、生活費を稼ぐために志を曲げる可能性も否定できないが、兼業で、他に収入を得る道が確保されていればその心配もない。
私に関して言えば、ソーシャルメディアでの情報発信は、これまでずっと持ち出しが続いていた。そうしたときに複数のフォロワーの方々から「銀行口座を教えてほしい。カンパしたい」との申し出を受けた。初めは驚いたが、考えてみれば、既存メディアという情報の流通経路を通さずに、ダイレクトに「情報の産直」を行っているのだと思えば、志を断る理由はない。ありがたく受け取ることにした。カンパを頂いてもまだまだ赤字の状態だが、もちろん、カンパがなければすでに活動を止めていたかもしれない。活動資金の問題だけではなく、「応援したい」という人々の熱意に応えたいというモチベーションがわいてくるからである。これもソーシャルメディアの効用のひとつである。情報の送り手も、受け手の反応が乏しかったら発信をいつまでも続けることはできないが、応答と対話があれば行動力に変えることができる。少なくともソーシャルメディアは、人を変える可能性を感じさせてくれるものであることは間違いない。
※『IT批評 2号 特集:ソーシャルメディアの銀河系』(2011年5月刊行)より岩上安身さんの「ソーシャル・ジャーナリズムの可能性」を転載
『IT批評』
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