少子化対策の具体案はひとつではない。若年の新婚世帯を対象に優先的な公営住宅の斡旋を行うといった支援も行われている。
主に「結婚」「妊娠」「出産」「育児」の4段階ごとに打ちだされる支援のうち、「出産」に関して打ち出されたのがこの女性手帳だ。
30歳半ばまでの妊娠・出産を推奨する狙いがあり、配布は子宮頸(けい)がん予防ワクチンを接種する10代前半時点や、20歳の子宮がん検診受診時点が想定されているという。
この政策に対しSNSサービスでは男性からも女性からも、反感・嫌悪を示す声が上がっている。
女性だけが少子化の原因ではない、そもそもが女性蔑視の感がある、管理社会の極み、支援すべきは経済にある、男性手帳もあるべきではないのか、といった内容がほとんどだ。
また、リプロダクティブ・ヘルス・ライツの侵害とする声も上がっている。
リプロダクティブ・ライツとは、性に関する健康を享受する権利である。具体的には、すべてのカップルと個人が、自分たちの子どもの数、出産間隔、出産する 時期を自由にかつ責任をもって決定でき、そのための情報と手段を得ることができるという権利。また、差別、強制、暴力を受けることなく、生殖に関する決定 を行える権利も含まれる。(国際保健用語集より引用)
しかし、ここで取り上げたいのは、セクシャルマイノリティの言葉だ。彼らの声はもっとも痛切に感じられる。さまざまな「女性」の声を記しておきたい。
●いくつかの声
FtMの声
「FTM的にはマジで凶器」
「FTMにとって女性手帳がどれだけ驚異的であるかは理由を挙げてしまえばキリがない。しかし最も苦痛なのはジェンダーをMaleと認識しているにも関わらず「女性」手帳に苦言を呈さなければならない現実。政府はそんなにGIDが嫌いなのか...生きていることが申し訳なく思えてくる。」
MtFの声
「もう俺たちは「女装手帳」を作ろうぜ。トランスウーマンで「女装手帳」を作ろう!」
「女性手帳をFTMの子が受け取った時のショックたるや。想像するだけでもやめとくれと叫ぶレベル。」
レズビアンの声
「わたしは子どもが欲しいと思ってるよ。でも、今の日本では実質産めないよ。少子化対策になってないよ、理解できるかな?」
「この多様化した社会でその多様性を認めず、適齢期()に異性()と結婚して出産して自力で育てる、っていう一つの生き方しか認めんのは無理がある。バッシングされたくなければ言う通りに生きろ、と抑圧される社会ですね、特に女性に対してね。おかしいね。」
「子どもを三人ほど生んでなんとか彼女と自力で育てると約束するので彼女との結婚を認めてくださいな、色々と保証してくださいな、とお願いすれば法律は変わりますかね? きっと変わりませんね。結局なにがしたいんだ?少子化対策だけではないのが見えてきそう。」
「言わせてもらえばただでさえ家族とうまくやれなくて生きづらさMAXなのに女性手帳なんぞ配られたら結婚出産が女の幸せって鎖がまた重くなるわ…」
性的マイノリティ全体について
「レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダーの存在を無視して一括して「女性」と括るのは乱暴すぎる。10代で自分のセクシュアリティに違和感を持った少女が「女性手帳」を渡されたら絶望的な気持ちになるのでそれだけは避けたい。ただでさえ生きにくいのだから。」
「心と体って同じになるとは限らないよね。産めない体の人もいるよね。やっぱりあれなの?多数のほうだけ見るんだね。」
●十代とは未分化な生き物である
私も女だが、セクシャルマイノリティだ。デミセクシャル(一定以上恋愛関係を結んで気持ちが高まらないと性行為が出来ない)で、特に同性を好きになる傾向が強い。よって、レズビアンの女性の呟きとまったく同じ考えだ。
十代の頃のことを記そう。
初恋の相手は同性の親友だった。しかし、その時点で告白もせず、気持ちを伝えることはしないでいようと誓った。彼女が女性として成長し、結婚することを見届けようと恋を自覚した時点で誓った。実際にその通りに生きて、彼女の結婚の式で彼らを祝福した。それまでの十数年の間、死なずに生きていられるのが不思議なほどの苦痛があった。このような誓いは世間的常識・古い通念に押しつぶされて誓ったものであり、過ちだったと今なら言える。
無論、相手の回答に臆したためでもある。しかしそれは恋が成就するか否かという青春の恥じらいではなかった。
偏見を受けるのではないか、友情そのもの、信頼そのものが瓦解し、人間性を否定されるのではないか…そうした畏れだった。
言ってしまえばよかったのだと、今では思う。
十代であった自分には、沈黙こそが正しいとしか思えなかった。
当時はエイズに対する偏見が払拭されていない時代だ。現代のように男性同士の同性愛表現を好む女子たちも、「腐女子」といったライトな表現ではなく、特殊な社会現象として問題視されていた。
現代と当時では、時代背景も偏見の重度の差もあるかもしれない。
しかし、社会構造が直截的に響いてくるのが学校社会であり、そこが十代の生きる日常だ。どのように手助けを求めればいいのかわからない、という意味では大人たちよりもある意味過酷な世界の住人でもあろう。
そうした意味で、私の生きた時代の十代と現代の十代は等しい。
どんな時代であっても、十代とは、生命としての自我から乖離し、社会的な人間としての生の責任を負い始めるその扉のことだ。ただでさえ、その扉で躓く子供たちは大勢いる。その危うさ、その頼りない足取りの背中を、扉の開いていないうちから、鉄の棒で強く前へ突き押して鼻先から頭から扉へ叩きつける政策。それがこの「女性手帳」だと感じる。
四角四面な「女性手帳」が配布される。自分が今十代の立場だったら、と思うと申し訳なさでいっぱいになる。今の十代に対して、このような政治を押し付けているのが性的マイノリティの有権者として恥ずかしく、心から申し訳ないと思う。
第一、先述のようにレズビアンも愛している相手なら子供はほしいと願うものだ。子供ができない原因は生理現象への無知ではない。もしそれが十全でないというなら教育制度を正すべきであり、その努力を怠って、ただ手帳一冊に任せようというのは怠慢であろう。女性・男性の同性愛や性的マイノリティの同性婚と養子をとる制度を敷くことこそ急務であろう。また、一方で、虐待を行うヘテロセクシャルの両親から、彼らを救うことこそ急務であろう。このような政策を十代の意見なしに採択していいのかという気持ちが拭えない。いっそ義務教育を終えた段階で選挙権を与えてはどうだろうかという思いに至る。
私が友人への告白を考えなかったのは、それでもヘテロセクシャルの親友の「認識」の自然さを愛し、それを尊びたい、守りたい、不自然なことを言って困らせてはならないと思っていたからだ。今ではその考えの馬鹿げていることを知っている。愛は打ち明けられるべきだ。結果がどうあろうとも。しかし、愛がないなら関係は成立しない。
国家の政策の数字上の諸問題のためだけになされる出産はありえない。結婚や交際、その前には必ず恋情が前提される。このような政策を打ち立てた人間は恋を知らないに相違ないと感じてしまう。それが過ぎた表現であるなら、少なくともこうした政治を摂る者が恋と呼ぶものと、私の体験した恋は異なるものだと言いたくなる。
先日、同性間の結婚式を祝福する記事を書いた。その直後にこのような政策が打ち出され、今また暗闇のうちに放り出されたような気がしている。しかし、このような呟きもあった。
「女性手帳は惚れたヤッた付き合った女をリストアップするのに使うわ」
シスジェンダー(自らの性に違和感のない)のレズビアンのつぶやきだ。
そう。問題は「配布されること」であるという意見もあろう。
しかし、手帳へのとらえ方そのものの多様性まで奪われるべきではない。
思うままにならないことは多いが、心は自在でありたい。
リプロダクティブ・ライツとは
http://www.kaigamori.com/jyourei/what/repuro.html
性自認に関する参照記事:TRUE COLORS
アイデンティティスペクトラム【あなたはどこに当てはまる?】
http://beurself.blog.fc2.com/blog-entry-7.html
画像:写真素材足成 www.ashinari .com
※この記事はガジェ通ウェブライターの「小雨」が執筆しました。あなたもウェブライターになって一緒に執筆しませんか?
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