貧困もまた文化資本

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

■貧困もまた文化資本

「高学歴と低学歴をわける「好奇心」は、個人の資質ではなく「文化資本」である」 2013年08月23日 『ihayato.書店』

http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/26575

いいエントリだが、なんで最後に「努力」に対する否定になってしまうのかねぇ。ひろゆきとかもそうだけど、「愛国」とか「努力」とか「一生懸命」とかを、とにかく否定しないと気が済まない。まあ、これも彼らの世代の「環境」、いわゆるゆとり教育のせいであって、彼らが悪いわけではないのだけどねw

問題はそういう考え方が、彼らや彼らを取り巻く社会にとってプラスの方向に働いているか?だ。いまはまだ上の世代が残っているから、歯止めになっているけれど、そういう邪魔者がいなくなった後に、本当に彼らの考え方で社会が成り立つのか…。

たとえば少数の人間が「自分は自由な生き方を優先して年収150万円でもいい」と決断したとしよう。それ自体は別にその人の生き方だからたいして社会全体に影響はない。でも大半の人がそう考えると、当然税収も減るわけで、だんだん日本社会は現在のレベルを維持できなくなっていく。

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少数の人間がちょっと変わった生き方を選ぶのは、社会の多様性を生むからむしろ社会にとってプラスになるだろう。そういう生き方から突拍子もないアイディアが生まれるかもしれない。

しかし逆にそういう人ばかりになってしまったら、多様性は縮小してしまう。変わった人間は少数だから価値があるのであって、みんなが同じになってしまったら、社会にとってメリットはなくなる。

その意味では貧困や格差もまた多様性を生み出しているのだから、社会にとっては必要な要素。犯罪とかブラック会社とか戦争もね。戦争ばかりやってたら文化や文明は滅びてしまうが、まったくやらないのは、同じぐらい文化や文明にとって有害。犯罪も同じで完全に社会から排除してしまったら、多様性が失われる。

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このように社会のあり方を考える場合、倫理観や一般に常識とされるものを、別な視点から再考しなければならない。個人の延長に社会があるわけではない。異質のものなのだ。個人や企業の借金と国の借金がまったく違うものなのと同じ。生物がしばしば利他的な行動をとるのも、個体の維持よりも種の繁栄が生物の目的だからだ。個体の利益よりもその種全体の利益を優先する性質をもった生物が、その当然の結果として繁栄して現在に至っている。

個人的な倫理観を突き詰めると、結局は中世の暗黒時代のように、頭で(目先の)正しさを教会の偉い人たちが社会はこうあるべきだと考えて、結果的に自然の摂理に反した判断をしてしまう。自然の摂理というのは、争いであり、弱肉強食。そういうものを倫理観は否定する。倫理が自然の摂理に沿っているなら、そもそも倫理など必要ない。自然にそうならないから、必要なわけだ。

こういうシビアな考えが社会のあり方、進むべき道を考える上で必須なのだが、ゆとり世代には無理か…。真実の残酷さに耐える訓練ができていない。

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あとイケダハヤトがなにかと「死ぬわけじゃないし」と付け加えるのも気になる。自由な生き方をなにより尊ぶ彼が、死だけは自由じゃない。ひろゆきも「命をかけろと言ってはいけない」とか言う。どうもゆとり世代にとって命は、絶対不可侵のようだ。なので思考にすごく制約がかかっている。彼ら自身は気づかないようだが。

でも人間は永遠に生きられないわけで、いつ死ぬか?も、一つのパラメータに過ぎないと思うのだけどね。でも彼らの世代は幼少の頃より「命は何より大事」と刷り込まれているので、そこから抜け出せない。これって自然に生まれた価値観じゃないと思うのだよね。戦後の反戦教育の中で、神風特攻などへの反発から、生まれたものだ。不自然極まりない。

命と引き替えにしても満足だと本人が思うなら、それでいいと思うんだけどね。ブラック会社でも本人が心の底から満足して、結果的に死ぬまで働くなら、それもいいと思うし。死につながるものは、とにかくなんでも良くないという考えは、柔軟性に欠ける。むしろそういう考えにとらわれる方が不幸だと思うね。

ブラック会社で命と引き換えに、売上ナンバーワンの地位を得るのも、当人がそれでいいと思えばいいと思う。ただ国民の大半がそういう考えだと、みんな早死してしまい国として成り立たなくなる。だからそうならない程度には規制する。そういうものだ。それを何が何でもダメだと一律に規制してしまうと、社会の多様性が失われてしまい、デメリットの方が上回る。

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個人と社会の関係は、生物の個体と種の関係に似ている。生物の目的は個体の維持ではなく、種の繁栄にある。ただ個体の維持に無頓着な生物だと、さっさと死んでしまって種の繁栄にも貢献できないから、基本的にすべての生物は死を忌避するようにプログラムされている。でもそれは手段であって目的ではない。

個人と社会も同じで、個人もまた社会の繁栄を究極的な目的としている。しかし個人の幸せの追求に無頓着な個体は、社会の繁栄にも貢献できない。だから個人の幸せが重視される。でもそれは最終目的ではない。

こういうことを書くと「愛国心か!」と嫌がる人が少なくないが、自然は個体よりも集団の利益を優先することを求めるのだ。集団よりも個人が大事というのは、不自然で歪んだ思想。むろん全体主義国家のように何が何でも(目先の)集団の利益ばかり追求すると、多様性が損なわれ、結果としてその集団も自滅してしまう。だから個人の利益や自由は大切。しかしそれはあくまで集団(社会)の繁栄にとって、その方がいいというだけで、それ自体が目的ではない。

すべては社会の繁栄のため。社会にとってなにがプラスになるかを考えることが、「結果として」個人の幸せを考えることにつながる。なぜなら個人は社会が繁栄することを「幸せ」と感じるように生物的にプログラムされているのだから。これは逃れようがない。

執筆: この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年08月27日時点のものです。

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