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サブカルチャー、という言葉について、ある女性と話す機会があった。彼女曰く、「サブカルチャーなんていつの時代の言葉ですかね、今はメインとかサブなんて存在しないですよ」ということだった。そこで私は気がついた。サブとかメインとかは文化の問題ではなくて、人が何か本なり音楽なりに触れる時の自意識の問題なのだと。そういうことについて書かれているのが本書『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』である。

これはあまりにも痛すぎる。表題作であるJ-POPをボサノヴァカバーする女は、枕営業をものともせずに、所謂サブカルチャー的な文化の中で浮き上がろうともがいている。いや、もがいているのではなくて、サブカルチャーつまり、彼女の自意識では最高位であると勘違いしている(と冷たく言い放ってしまおう)文化に対する態度を崩そうとしない。

そして別の2編、お笑い芸人を目指す、ダウンタウンに心酔するフリーターの男と、バンプオブチキンに心酔する男は、愛する対象を正確に受け入れているのは自分だけだと思っている。これも愛する対象を自意識とシンクロさせすぎるために起こる、哀しくて可笑しいエピソードである。

本や音楽などに接する際、この内容や歌詞を理解できるのは私だけだと思わないだろうか? そしてそういうポーズが格好良いのでは、などと思ってはいないだろうか?微妙な問題なのかもしれないが、J-POPを歌う女は最終的に原発問題にまで発言しようとする。それも自分が有名になるためには何でもする、そういう態度が「サブカルチャー的に正しい」と思うポーズをとっている。そういったポーズと自意識は不可分で、本書はそういったポーズ、何か文化を受け入れたり発信しようとしたりする人を単に笑う為に書かれたものだと思われるかもしれない。しかし著者は、そういった自意識をもった人々の頭に斧を突きつけると同時に、共感という温かい目で見守っているのだ。ラストの一編に救いが待っているように。

『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』
著者:渋谷直角
発行:扶桑社
発売日:2013年7月30日

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