「何を言った」より「誰が言った」という社会(中部大学教授 武田邦彦)

今回は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。

■「何を言った」より「誰が言った」という社会(中部大学教授 武田邦彦)
後にそれは偏見であったことがわかるのだが、かつて女性と話をしていると、相手が自分の言っている内容はほとんど聞いていないで、様子を見ていることに嫌になったことがあったし、女性と話をしていて、時には「誰が言った」ということだけに関心があってがっかりしたことも記憶している。

最近では、たとえば「原発の廃棄物を片づけてから原発の再開を考えるべきだ」というのは何10年も前から多くの人が言っているのに、小泉元首相が言ったというと、みんなが「小泉さんが言ったことは正しいか?」という議論を始める。

つまり、「何を言った」というより「誰が言った」に極度に注目していることを意味している。もちろん、人間社会だから「誰が」も重要だが、程度を超えているように思う。私たちはもう少し慎重に、「言った人」ではなく「言ったこと」に注目すべきではないだろうか?

そうしてよく考えてみると、女性にそういう傾向があると思ったのは間違いで、男性でもほとんど同じで、「言ったこと」に反応する人はほとんどいない。議論の目的が「真実を知りたい」というのではなく、「誰かをバッシングしたり、ほめたりする」というための材料として「情報」を受け取っているからのようだ。

「誰が」というのを強調すると、学歴とか、学閥、地位、男女、結婚しているかなどその人の「状態」などが「内容」にかぶってくる。そうすると、さらに詮索が始まり、「そう言っているけど、実は」などとなりさらに複雑になる。

小泉さんの原発ゼロ発言にしても「あれは攪乱戦術じゃないの」というような話になって、日本のために真正面から原発問題を検討するというのにはむしろ障害にすらなる。誰が言っても同じ内容のものは同じなのだから、その内容に注目して議論をするべきなのだ。

若いころから私は話をしている相手が、どのような生い立ちなのか、どこの学校を出たのかほとんど興味を示さず、聞かないことにしている。ときどき「少しは調べなさいよ」と言われることもあるけれど、その人の言うことや行動だけに注目してそのまま自分で考えたほうが良く分かる気がする。

このような考え方の延長だと思うけれど、私は「空気」というのが嫌いで、空気というのは「あの人は偉い人だ」とか、「あの人の考えはこうだ」というように「人」に中心があり、「その人が今、どういう意見を持っているか」というのは言葉でしか伝わらない。

「空気を読む」限り、自分の力を上回ることはできないし、先入観をさらに深めることになるだけのように思う。

ネット上に多く見られる「バッシング」もまた内容より「人」にその牙を向けているように思う。それは特定の人の口をふさいだり、活動を制限したりすることを考えれば、できの悪い秘密保護法よりさらに社会的に大きな害をもたらすと思う。

明るい社会とは「誰が」というのをできるだけ減らして、「どんな内容」に注目することだろう。

執筆: この記事は武田邦彦さんのブログ『武田邦彦(中部大学)』からご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2013年12月24日時点のものです。

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