人に伝えることで脳で情報の再構築が行われる

今回はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

■人に伝えることで脳で情報の再構築が行われる
人はなぜ知っていること・考えていることを他人に話たくなるのだろう。合理的に考えればなんの得にもならない、むしろ損になる可能性の方が高い状況でも、人間は他人に話さずに入られない。

学生の頃、特に小中学生の頃は「書いて覚えろ」と言われる。本や教科書を漠然と読むのではなく、ノートに要点を書き写すことで覚えられるのだという。これは実際そうだと思う。

思考をアウトプットする作業というのは、パソコンのハードディスクからファイルを読み出すような作業ではない。それ自体が新たな思考を伴うものだ。人間は情報を再構築しながらアウトプットしている。

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こうやってブログを書いていても、書く前はきっちりと整合性がとれていると思っていた考えが、いざ書いてみると穴だらけなことに気付かされたり、逆に書き始める前は「ここまで考えなかった」ということが、文章を書くことで深まっていったりする。

たぶん文章にする前も個々の部品は頭の中にある。積み木がおもちゃ箱に転がっている状態。たぶん組み上げればこういう形になるというイメージもある。

でも実際に組み立て始めると、必要な部品が足りなかったり、予想とは違う形になったりする。これを「困ったこと」と捉えるか、「新たな発見」と捉えるかが、文章を書くのが好きか嫌いか分かれるのではなかろうか。

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部品が足りない、組み合わさると思ってた箇所が微妙にサイズが合わない、そういう場面に直面した時、それを楽しむか、失敗と考えるか。

これは議論も同じだと思う。覆うように相手を説得できない。明々白々だと思って自信満々で始めた議論が、なにやら形勢不利。そういう時にその状況を楽しめるか、不快になって放棄してしまうか。

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そういえば子供の頃「はやく宿題やりなさい」と言われ、「やればできる」と答えて「だったら、いますぐやりなさい!」と怒られたものだ(苦笑)。いや、実際に、やればできる問題ばかりなので(小学生の頃の宿題なんてそんなもんだ)、嘘はついてないつもりだったのだが…。

まあ、あれもこういう意味だったのかもしれない。「こうすればできる」と予想している段階と、実際にやってみることとは、ギャップがある。でもそのギャップはやらない段階ではそれがどういうものかは説明できないんだよね。

工作とか女の子なら手芸とかも、実際に手を動かして作ってみるのが楽しいのは、このギャップを無意識に楽しんでいるのかもしれない。頭の中では予想できなかったことに直面するのが楽しいのだ。旅行なども本を読んでイメージするのと、実際にその場所に行ってみるのは楽しさが天と地ほども違う。文章を書くというのも「工作」なのだ。

執筆:この記事はメカAGさんのブログからご寄稿いただきました。

寄稿いただいた記事は2014年03月14日時点のものです。

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