かつて永田町では「秋風が吹けば政局が始まる」と言われた。夏が終わって秋を迎えたころに自民党総裁選挙が行われたからである。
特に自民党と社会党が対峙した「55年体制」の時代は、自民党総裁選が日本の最高権力者を決める唯一の選挙で、秋の政局は熾烈であった。「万年与党」と「万年野党」の政治は国民に最高権力者を選ばせず、自民党員だけの選挙で権力者は選ばれた。
しかしこの時代を「自民党独裁政治」と捉えるのは誤りである。自民党には5つの派閥があり、派閥はそれぞれ総理候補を抱えてしのぎを削った。それぞれの候補はそれぞれ学者や知識人をブレーンに日本の将来ビジョンを競い合った。
従って自民党は単独の政党というより、異なる総理候補と異なる政策を持つ5つの派閥の連立であった。自民党総裁選はいわば連立内部の主導権争いで、野党は残念ながら権力闘争に参加することのない外野席の観客だった。
ただし私が政治記者をしていたころ、外野席の観客はそれぞれが自民党派閥の「隠れ応援団」であった。社会党左派と公明党は田中角栄氏の応援団、社会党右派は田中氏と対立した金丸・竹下氏の応援団、そして中曽根派は民社党と緊密だった。
そのため自民党総裁選を軸とする「秋の政局」には野党も陰に陽に関わり、総選挙とは別のところで日本政治の将来は決まっていた。つまり「秋の政局」はそれが日本の行方を決める権力闘争の本舞台であった。
しかしこの権力闘争に国民の多くは参加していない。そこから「政権交代」を可能にする「政治改革」の必要性が叫ばれ、国民の選挙によって日本の最高権力者を決める政治構造が作られた。
与野党対決の総選挙が権力闘争の本舞台となり、自民党総裁選は他の政党の代表選と同じように総理候補を決めるための予備選挙と位置づけられる。小選挙区制によって派閥政治も終わり「秋の政局」という言葉も過去のものとなった。
ところが今年は「秋の政局」が再来するという予感を私は持った。それは4月末に安倍総理が米国議会で安保法案の成立を「この夏まで」と公約したからである。公約が果たせなければ政治責任を問われる。「大丈夫か」と思ったのである。
第一次政権の時に安倍総理は、インド洋での海上自衛隊の給油活動継続を国際公約したが、参議院選挙に大敗して継続が難しくなり、それでも続投を表明したため「秋風が吹く」ころぶざまな形で政権を投げ出さざるを得なくなった。
今回は前回と違い議席数は衆参ともに盤石である。しかし安保法案の国会審議が始まる前に米国議会で成立を約束するのは、あまりに国会と国民を舐めた話である。立憲主義を無視したその姿勢は必ず国会審議に現れる。それによって前に進むものも進まなくなる恐れがあると思った。
またTPP交渉でも、米国は国内から反対意見を強く出させ、それを口実に譲歩しない姿勢を強めるのに、日本は反対意見を表面化させないようにし、わざわざ米国にすり寄る交渉を行っている。その結果が表に出れば「日本大敗」の批判を免れない。
そして8月になれば国民が戦争の記憶に包まれる行事が相次ぎ、そこで安倍総理の歴史認識が問われる「70年談話」が国際的に注目される。また沖縄の辺野古基地建設工事が着工されれば県民の怒りが爆発する。さらに原発再稼働も予定されている。そうした数々の問題が集中的に夏に訪れる。問題が横たわる政治の先行きを私は「地雷原」と表現した。
米国議会での演説直後に「安倍総理は地雷原に足を踏み入れた」と私はブログに書いた。そして地雷原を通り抜けるには、相当の政治力を発揮しなければ難しいと予想した。
ところが安倍総理には数の力を頼む直球勝負しかなかった。安保法案の議論が煮詰まらないまま衆議院で強行採決に踏み切る。地雷を一つ一つ確認しながら慎重に進む政治ではなく、まるで目をつぶって地雷原を突っ走るような政治であった。
これに国民はついていけない。安倍総理は一気に支持率を下げ、支持と不支持が逆転した。すると今度は支持率アップを図るパフォーマンスを始める。国民に不人気な新国立競技場建設を白紙撤回し、八方美人的な「70年談話」を出すことで、支持率の低下を食い止めようとした。
しかしそれがまた新たな「地雷」を生む。新国立競技場白紙撤回はオリンピック組織委員会の無責任体制をあぶりだし、続いて五輪エンブレムの白紙撤回につながる。「70年談話」も各国政府は外交上の儀礼の範囲で反応するが、各国のメディアは批判的である。そして参議院に移った安保法案審議も先行きが多難である。
そこに思いもよらぬ事態が発生した。無投票再選されるはずの自民党総裁選挙に野田聖子氏が名乗りを上げたのである。結果は20人の推薦人を集めることができずに野田氏は出馬を断念したが、もし総裁選が実施されていれば安保法案の今国会成立は極めて危うくなり、安倍政権は致命的な打撃を受けた。
今国会中の安保法案成立がなければ、第一次政権の時と同じように安倍総理は国際公約を守れない無能な総理というレッテルを貼られる。それでなくとも米国にすり寄る以外に外交術を持たない安倍総理に対し、ロシアも中国も韓国も北朝鮮も足元を見てゆさぶりをかけてきている。
安倍総理側の必死の切り崩し工作で、何とか野田氏の出馬は食い止めたが、しかし総裁選の一歩手前まで行ったという事実は大きい。国民は素朴になぜ選挙をやらないのか疑問に思い、安倍自民党の体質に違和感を抱く。この一件は安倍政権にとってボディブローになる。負の効果は後から効いてくる。
自民党総裁選を乗り切った安倍政権が次に乗り切らなければならないのは参議院での安保法案の出口である。よほど慎重にやらないとまた支持率を下げ、ボディブローの効果が次々に現れてくる。安倍総理は再び「アベノミクス」を前面に出して支持率低下を食い止めようとしているが、日本経済の先行きが明るくなる保証はない。むしろ国民は格差の拡大を実感していくと思う。
安倍総理のおかげで「秋風が吹けば政局が始まる」というフレーズを久しぶりに思い出した。そして自民党総裁選はなくなったが「秋の政局」はまだ続いている。「紅葉が山を染めるころ政局は佳境に入る」と昔の政治家は語ったものだが、山が燃えるころ何が起こるかを注目していく。
【関連記事】
■田中良紹『国会探検』 過去記事一覧
http://ch.nicovideo.jp/search/国会探検?type=article
<田中良紹(たなか・よしつぐ)プロフィール>
1945 年宮城県仙台市生まれ。1969年慶應義塾大学経済学部卒業。同 年(株)東京放送(TBS)入社。ドキュメンタリー・デイレクターとして「テレビ・ルポルタージュ」や「報道特集」を制作。また放送記者として裁判所、 警察庁、警視庁、労働省、官邸、自民党、外務省、郵政省などを担当。ロッキード事件、各種公安事件、さらに田中角栄元総理の密着取材などを行う。1990 年にアメリカの議会チャンネルC-SPANの配給権を取得して(株)シー・ネットを設立。
TBSを退社後、1998年からCS放送で国会審議を中継する「国会TV」を開局するが、2001年に電波を止められ、ブロードバンドでの放送を開始する。2007年7月、ブログを「国会探検」と改名し再スタート。主な著書に「メディア裏支配─語られざる巨大メディアの暗闘史」(2005/講談社)「裏支配─いま明かされる田中角栄の真実」(2005/講談社)など。