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2024年、アメリカの首都ワシントンD.C.にあるスミソニアン国立アジア美術館で、非常に興味深い展覧会が開かれた。題名は「Imagined Neighbors: Japanese Visions of China, 1680–1980」――「想像上の隣国――日本人が見た中国、1680~1980」である。この展示が焦点を当てたのは、17世紀後半から近現代に至るまで、日本の芸術家たちが中国をいかに想像してきたかという点である。

彼らの筆の中で、中国はある時には海を隔てた現実の隣国であり、ある時には古く深い文化の源泉であり、またある時には具体的な地理を超え、ほとんど理想化された精神世界となった。そこには山水があり、高士があり、詩人や聖賢がいる。そして、日本文化の深部にまで入り込んだ一つの美意識と生活様式があった。

これは非常に考えさせられることである。

一つの国が別の国の歴史、地図、戦争、貿易、外交の中に登場することは当然ある。しかし、なぜ一つの文明が、長い年月にわたり別の民族の「想像」の中に住み続けるのだろうか。

なぜ、実際には一度も中国を訪れたことのない多くの日本の画家たちが、瀟湘、西湖、竹林の七賢、陶淵明、李白をよく知り、中国の山水に自らの精神を託し、中国古人の姿を借りて人格や生命境地への憧れを表現したのだろうか。

もし理由が「古代中国が強盛だったから」というだけなら、それでは十分に説明できないように思える。歴史上、強大な帝国はいくつも存在した。武力は人を恐れさせ、富は人を羨望させ、先進的な技術は学びを促すことができる。しかし、ある民族が生命の危険を冒して海を渡り、別の文明を体系的に学び、それを持ち帰った後も世代から世代へと真剣に守り続け、千年後になってなお、そこから人として生きる道、暮らし方、さらには現代社会を運営する道理まで探し続ける――これは「強盛」という二文字だけでは語り尽くせないことである。

海を渡ってきた文明

その答えを探すには、時間をさらに千年以上さかのぼる必要があるのかもしれない。

隋・唐の時代、日本は何度も使節、留学生、学問僧を中国へ派遣した。特に唐代、中国文明はまさに最盛期にあった。

長安を訪れた人々が目にしたのは、壮麗な宮殿や繁栄した都市だけではない。そこには、すでに成熟した文明の全体像があった。典章制度があり、文字と経典があり、儒家の修身の道があり、中国で成熟した仏教文化があり、さらに書法、絵画、建築、医薬、暦法、礼楽、各種の工芸技術があった。

現代人はこれらを政治、宗教、芸術、医学、技術などに分けて考えることに慣れている。しかし当時、中国へ渡ってきた日本人にとって、それらは本来、相互につながった一つの文明全体だった。

どのように国家の秩序を築くのか。どのように人と人との関係を処理するのか。どのような服を着て、どのように礼をするのか。どのように一字を書き、一つの寺院を建てるのか。どのように天地を理解し、どのように生命を見るのか。

それらは互いに切り離された問題ではなく、一つの完全な生活世界を共に構成していたのである。

したがって、遣唐使が本当に日本へ持ち帰ったものは、いくつかの断片的な「中国的要素」ではなかった。

彼らは文明の頂点にあった中国で、自らの国を立て、人を立て、文化を立てるための根基を探していたのである。

もちろん、その後の日本が中国になったわけではない。日本は中国から学んだものを絶えず消化し、転化させ、自らの歴史、社会、伝統と結びつけ、最終的に独自の日本文明を形作った。

そして、そうしたものが本当に日本自身の文明建設に参与したからこそ、遣唐使の時代が終わった後も消えなかったのである。

だからこそ、本当に強大な文明は、他者に受け入れることを強制しない。

その文明自身が、人を自ら海を渡らせるのである。

文化が海を越えることも、決して自然に起こるわけではない。

西暦753年、60歳を超えた一人の唐僧が、ついに日本の地を踏んだ。鑑真である。

当時、日本にはすでに仏教が広まっていたが、整った正式な授戒制度が不足していた。日本の朝廷は唐から戒律に精通した高僧を招こうとし、唐へ仏法を求めに来ていた栄叡、普照らが揚州で鑑真に出会い、日本へ渡って戒を授けてほしいと懇願した。

それ以前に、鑑真はすでに5度の渡航に失敗していた。妨害、暴風、漂流、病気を経験し、12年にわたる困難な歳月の中で何度も渡航を試み、後には両目の視力まで失った。

それでも6度目、彼は再び海を渡った。

日本に到着した後、鑑真は聖武上皇らに授戒し、正式な授戒制度を築き、後に唐招提寺を建立して、日本仏教に深い影響を与えた。

しかし、鑑真と同行者たちが海を越えて持っていったものは、仏教戒律だけではなかった。

この唐僧の足跡とともに、盛唐の高度に発達した物質文明と精神文化もまた、日本へ渡っていった。医薬、本草、書法、建築、仏像彫刻、飲食、印刷、文学……。

現代において「文化の伝播」という言葉を記すのは容易だが、この言葉を鑑真の生涯に照らし合わせる時、文化は勝手に海を渡るのではなく、生身の人間が担い、時には命を賭して護送するものなのだと気づかされる。

こうして歴史の中に、意味深い双方向の往来が生まれた。

日本人が海を渡って中国へ向かったのは「求めたい」と願う者がいたからであり、鑑真が幾度も海を渡って日本を目指したのは「伝えたい」と願う者がいたからである。

一方が求め、一方が伝える。文化はそのようにして海を越えたのだ。
 

なぜ世代を超えて守ろうとしたのか

しかし、本当に驚くべきなのは、文化が伝わったことではない。

伝わった後、それを千年以上にわたって守り続ける人々がいたことである。

なぜ日本は、唐代以降のこれほど多くの文化遺産を保存することができたのだろうか。

人々がそれを大切にし、世代から世代へと受け継いだことが最も重要な理由であるのはもちろんだが、日本特有の地理的環境も無視できない条件を提供した。

日本は中国と海を隔てた島国である。

海は一方で文化交流を遮断しなかったが、もう一方では自然の緩衝地帯となった。

中国大陸で起きた王朝交代、戦争、大規模な社会動乱が、常に同じ形で、同じ時期に日本まで及ぶわけではなかった。

そのため、中国から伝わったいくつかの文化形態は、日本に入った後、比較的独立し、連続的に保存される空間を得たのである。

しかし地理が説明できるのは、なぜ「残る機会」があったのかということまでである。

なぜ人々がそれを「守ろう」としたのかまでは説明できない。

一つの寺院が一度の戦乱を免れたからといって、それだけで千年残るわけではない。

一つの音楽が島国に伝わったからといって、それだけで百代にわたって継承されるわけでもない。

文化を一つの時代から次の時代へ送り届けるのは、結局のところ人間なのである。

今日、奈良を歩いていると、時に奇妙な時間のずれを感じることがある。

古い木造寺院、唐招提寺の金堂、正倉院に保存される大量の唐代の器物――それらを見ると、中国本土ではすでに極めて珍しくなった古代文化の遺存が、海の向こう側で今なお続いていることに気づかされる。

正倉院に今日まで保存されている毛筆の実物は、唐代と同時期の毛筆遺物として非常に貴重であり、千年以上前の中国の筆の形状や製作上の特徴を、現代の人々が知る手がかりとなっている。

織物、楽器、さまざまな日用品もまた、当時の生活を突然、触れられるものにしてくれる。

今日、唐代文化を研究する人にとって、貴重な実物資料の中には、むしろ日本に保存された遺物から手がかりを探さなければならないものさえある。

器物はまだ収蔵できる。

器物より保存が難しいものは、「楽」である。

唐太宗の時代に名高かった『秦王破陣楽』は、後に中国本土では宮廷楽舞としての完全で連続した伝承を失った。しかし、日本の雅楽には、唐代の『破陣楽』と歴史的なつながりを持つ伝統が今なお残されている。

千年以上の伝承を経た今日の日本の楽舞を、単純に唐代そのままの姿だということはできない。

しかし、本当に考えるべきなのは、それが一切変わらなかったかどうかではない。

一つの音が、なぜ千年も生き続けることができたのか。

一本の筆なら倉庫にしまうことができる。

一枚の銅鏡なら箱に収めることができる。

しかし、一つの音楽は、そのようには保存できない。

誰かが演奏しなければならない。

誰かが舞わなければならない。

誰かが学び、誰かが教えなければならない。

一人の人間の人生は数十年にすぎない。

ある人が習得し、それを数十年間守った後、次の世代へ渡す。

次の世代もまた数十年守り、さらに後の人へ渡す。

百年、五百年、千年。

そうして初めて、一つの音は遥かな過去から今日まで歩いてくることができる。

だから、本当に古い音楽を守り続けたものは倉庫ではない。

人なのである。

ここまで来ると、「文化を保存する」という言葉の意味もまったく変わってくる。

古い物を保存するだけではない。

一つの文化を、生きている世代の人々の中へ入り込ませ、彼らの身体と生命を通じて存在し続けさせることである。

礼も同じである。

今日、日本を訪れる多くの人が、そこでの人との接し方の細かな部分に気づく。

客をどう迎えるか。

物をどう渡すか。

どう座るか。

どう進み、どう退くか。

公共の場で、どのように他人へ配慮するか。

こうした礼儀は千百年の発展を経て、すでに日本独自の形を作っており、唐代の礼儀がそのまま保存されていると言うことはもちろんできない。

しかし、その中に表れている秩序、節度、他者への配慮は、古代中国の礼制文明が大切にしたものを容易に思い起こさせる。

なぜ中国の古人は、これほど「礼」を重視したのか。

礼とは、頭の中で何条かのルールを知っていることではないからである。

本当の礼は、最後には身体へ落とし込まれなければならない。

どう立つのか。

どう座るのか。

どう進み、どう退くのか。

年長者と年少者、客と主人、人と人との間で、どのような適切な距離を保つのか。

だから礼は『礼記』の中だけに書かれているのではない。

人の身体にも書かれている。

文化が身体へ入った時、それはもはや外から学んだ知識ではなく、人の習慣と性格になり始めるのである。

日本の職人文化も、ここから理解すると興味深い。

現代人は、日本の職人が仕事に真剣に向き合い、一つの技を数十年続け、一つの家族が何代にもわたって一つの技術を守り続けることを称賛することが多い。

しかし、それを単に「勤勉」や「プロ意識」と理解するだけでは、まだ最も深いところには届いていない。

中国の伝統文化において、技芸とは本来、単なる技術ではなかった。

『荘子』の「庖丁解牛」では、庖丁がこう語る。

「臣の好むところは道なり。技より進めり」

技芸を深く極めていくと、追い求めるものはすでに技巧そのものを超える。

木工職人は木の性質を理解しなければならない。

陶工は水と火を理解しなければならない。

書家は筆と墨を理解しなければならない。

本当に深くまでやっていけば、人は材料をただ「征服」するだけではいけないことに気づく。

理解し、従い、調和しなければならないのである。

心がせわしければ、手もせわしくなる。

心が粗ければ、作る器物も粗くなる。

一人の人間が何十年も変わらず一つのことを丁寧に続けていくことは、同時に、自分の浮つき、いい加減さ、目先の利益を急ぐ心を削り落としていくことでもある。

そこで、人と器物の間には非常に微妙な関係が生まれる。

人が器を作っていると同時に、器もまた人を形作っている。

表面では器を修めているが、実際には心も修めている。

技芸が極まれば、そこには修行にも似た意味が生まれる。

文化はここまで来ると、外にある知識ではなく、本当に人の手の中に住み、人の性格の中に住むようになるのである。
 

 『論語』がそろばんと出会った時

もし中国伝統文化の日本における生命が、古寺、雅楽、伝統工芸の中だけにとどまっていたなら、それは「よく保存された古代文化」にすぎなかったかもしれない。

本当に注目すべきなのは、日本が近代社会へ入った後も、古い思想の一部がなお働き続けたことである。

明治維新以降、日本は大規模に西洋を学んだ。

銀行、鉄道、株式会社、近代工業、資本市場が急速に整備され、唐代とはまったく異なる社会が生まれた。

まさにその時、日本近代の著名な実業家・渋沢栄一は、『論語』とそろばんを並べた。

そろばんは経済、経営、利益を表す。

『論語』は道義と人としてのあり方を表す。

渋沢が向き合っていたのは、実は現代社会が今日に至るまで避けることのできない問題である。

資本は人に「どう富を作るか」は教えられる。

しかし、どの金を稼いではならないかは教えてくれない。

市場は価格を形成できる。

しかし、何が「義」であり、何が「信」なのかを自動的に教えてはくれない。

法律は人間の行動の最低限の境界を定めることができる。

しかし、すべての人の背後に常に立って監視することはできない。

だから現代経済も、最後には古い問いへ戻ってくる。

制度を動かすのは、いったいどのような人間なのか。

もし人の心に道徳的な境界がなければ、どれほど精密な制度を作っても、その隙を探そうとする者が現れる。

もし誰もが利益だけを問い、信義を問わなくなれば、社会は互いを防ぐためにますます大きなコストを払わなければならない。

そろばんは利益を計算できる。

しかし『論語』は、利益の境界を定める。

渋沢栄一は、『論語』で近代経済制度を置き換えようとしたのではない。

近代制度がすでに成立した後もなお、古い儒家の伝統から、人を律する道徳的尺度を探そうとしたのである。

これは非常に意味深い。

千年以上前、日本人は中国から経典を持ち帰った。

千年以上後、日本がまったく異なる近代経済社会に直面した時にも、なおそれらの経典から答えを探すことができた。

なぜだろうか。

制度は変わる。

技術も変わる。

産業も変わる。

しかし、人が向き合ういくつかの根本的な問題は変わらないからである。

人は今も、利益と道義に直面する。

信用と欺瞞に直面する。

欲望と節制に直面する。

何をしてよいのか、何をしてはいけないのかを、なお答えなければならない。

本当に生命力を持つ文化は、ある特定の時代でどのように暮らすかだけを教えるものではない。

まず人そのものを形作る。

そして、社会が人によって構成される限り、その文化は生き続けることができるのである。

この千年以上の歴史を一本につないで見ると、時に奇妙な感覚が生まれる。

まるで冥冥のうちに、一双の見えない巨大な手が、すでに後世のために壮大な配置をしていたかのようである。

中華文明が最盛期にあった時、一群の文化の種が海を越え、日本へ運ばれた。

遣唐使たちはもちろん、一千年以上後、中国本土がどのような戦争や変遷、そして伝統文化の巨大な劫難を経験することになるのか知るはずもなかった。

鑑真もまた、自分と弟子たちが日本へ持っていった文化が、いつの日か後世の人々があの時代を再び理解するための重要な証拠になることなど知らなかった。

当時の人々は、ただ目の前のことをしていただけである。

ある人は求めに来た。

ある人は伝えに行った。

ある人は寺を建てた。

ある人は経典を書き写した。

ある人は器物を作った。

ある人は音楽を学んだ。

後の人々は、祖先が残したものには守る価値があると感じ、さらに受け継いだ。

一代から一代へ。

百年が過ぎた。

五百年が過ぎた。

千年が過ぎた。

一人ひとりは、自分の手の中のほんの小さな一事を成し遂げただけのように見える。

しかし、その小さな出来事が千年という時間の中でつながると、どの一世代だけでは完成できない一つの大きな事業を、共に完成させたかのように見えてくる。

そうすると、人は問わずにはいられない。

これは本当に、ただの偶然の連続なのだろうか。

それとも、人には見えない歴史の深部で、互いに無関係に見える人と出来事が、もともと何らかのより深いつながりを持っていたのだろうか。

中華伝統文化が後に巨大な劫難を経験するより前に、貴重な文化の種の一部はすでに遠方へ播かれていた。

故土で一部の記憶が断絶を経験した後も、それらは異郷で成長を続けていた。

人が自分の時代の中で見るのは、一つ一つの偶然にすぎないかもしれない。

しかし、視野を千年まで引き延ばして見ると、一部の偶然は次第に「按配」の姿を帯びてくる。
 

千年後、再び自分自身を見つける

こうして今日のもう一つの興味深い現象を見ると、また違った理解ができるかもしれない。

なぜ、これほど多くの中国人が日本旅行を好み、とりわけ京都や奈良のような古都を好むのだろうか。

もちろん、そこには多くの現実的な理由がある。距離、交通、食事、景観、買い物、サービスなど、すべてが答えの一部である。

すべての人の旅行先の選択を文化心理だけで説明することはできない。

しかし、もう一つ、とても注目に値する感覚がある。

このように捉え直せば、今日見られるもう一つの興味深い現象に対しても、異なる理解ができるかもしれない。なぜこれほど多くの中国人が日本を旅行することを好み、とりわけ京都や奈良のような古都を好むのか。距離、交通、飲食、風景、買い物、サービスなど、現実的な理由は多々あり、すべての旅行者の動機を文化的心理に帰結させることはできない。しかし、見過ごせないある感覚が存在する。一部の中国人が奈良の古寺を訪れ、木造建築の軒下に立ち、京都の庭園に入り、漢字、屏風、器物、古くからの節句や礼儀を目にし、一つの技術が何代にもわたって守られている姿や、現代生活の中に依然として残る古い秩序や節度を目にした時、言葉にしがたい親近感を覚えるのである。

不思議なことに、それは異国文化に接した時の「新鮮さ」とは少し違う。

むしろ、久しく離れていたものに再会したような懐かしさに近い。

もちろん、それらはすでに日本文化の一部である。

千百年にわたり、日本自身の伝統、社会、美意識と混ざり合い、すでに独自の枝葉を伸ばしている。

しかし現代中国で育った人にとって、その中のあるものは、自分でもうまく説明できない生命の深部の記憶に触れることがあるのかもしれない。

ただ「ここは静かだ」と感じる。

古寺が美しいと感じる。

器物が大切に扱われていると感じる。

人と人との間に節度があると感じる。

なぜ自分が感動するのか分からない。

自分が何を探しているのかさえ分からない。

それでも、あの伝統が別の形で再び目の前に現れた時、心の方が先にそれを見分ける。

千年以上前、日本人は海を渡って中国へ来て、自らが仰ぎ見た文明を探した。

千年以上後、一部の中国人は再び海を渡って日本へ行き、そこに保存された古寺、庭園、礼楽、器物、人々の振る舞いの中に、自らの文明がかつて持っていたものの一部を再び見る。

歴史はここで、非常に意味深い一つの輪を描く。

当時は、日本人が中国へ「求め」に来た。

今日では、中国人が日本で無意識に「探している」ことがあるのかもしれない。

これは、郷愁というものが、必ずしも故郷の一つの山、一つの川、一軒の古い家だけを懐かしむものではないことも教えてくれる。

一つの民族もまた、自らが失った文明に対して郷愁を抱くことがある。

ここで再びスミソニアンの「Imagined Neighbors」に戻ってみると、なぜ中国が日本の芸術家の筆の中で、現実に存在しながら、同時に現実を超えた精神世界となったのかを、さらに深く理解できるかもしれない。

日本人が最初に向き合ったのは、現実の中国であった。

彼らは海を渡り、文字、経典、礼楽、仏教、建築、芸術、医薬、工芸を学んだ。

しかし、それらが日本へ入った後、永遠に「外国文化」のまま存在したわけではない。

千百年の時間の中で吸収され、変化し、次第に日本文明そのものの一部になっていった。

それは人の目へ入り、美意識となった。

人の手へ入り、技芸となった。

人の身体へ入り、礼となった。

人と人との関係へ入り、信義となった。

人の心へ入り、徳となった。

さらに深く入れば、それは一人の人間が「どう生きるのか」「どう自分を安定させるのか」「なぜ生きるのか」を理解するための文化的資源にまでなった。

ここまで来ると、中国はもはや地図上の隣国だけではなくなる。

詩書の中の中国。

山水の中の中国。

人格理想の中の中国。

精神の中で何度も振り返ることのできる一つの世界となるのである。

本当に別の民族の想像の中に住み込むことのできる文明とは、まずその民族の生活の中に入り、最後には人の生命の中にまで住み込んだ文明なのである。

そしてさらに意味深いのは、千年以上が過ぎ、その文明の精神が故土で断絶を経験した時、かつて遠くへ運ばれ、そこで根を張り成長した文化の種が、今度は故郷の人々が自らの文明を再び知るための道標になっていることである。

もしかすると、だからこそ歴史が今日まで進んだ今、私たちはなお、古寺、古楽、器物、文字、人の振る舞いを改めて見る必要があるのかもしれない。

それは、それらを日本から「取り戻す」ためではない。

本当に戻るべきものは、決して物ではない。

戻るべきなのは、人の心が伝統をもう一度理解することなのである。

一つの国は、別の国の隣国になることができる。

しかし一つの文明は、山海と千年を越え、別の民族の想像の中に住み、人の生命の中に住むことができる。

そして長い歳月の後、静かに待つ。

故郷の人が再びそれを見つけることを。

そして、自分自身をもう一度見つけることを。
 

編集者注コラム「神韻観止」を新設した。「観止」の二字は、もともと季札が周の楽舞を観た故事に由来する。季札が観たのは、単なる音楽や舞踊の美しさではなく、楽を通して徳を見ることであった。舜の楽舞『韶箾』を観て、その徳が天地のように広大であることを感じ、「観止矣(これ以上のものはない)」と感嘆した。したがって、「神韻観止」が見つめようとするものも、舞台上の芸術美だけではない。礼楽の美を通して、そこに表される宇宙の最高基準「真・善・忍」の精神を感じ取ることである。同時に、皆さんにもそれぞれの思いを語り、神韻を観た後の気づきや感想を分かち合っていただきたい。

・・・・・

五千年とは、一つの文明にとって何を意味するのだろうか。

世界には、かつて数多くの輝かしい古代文明が存在した。メソポタミア文明は粘土板と都市国家を残し、古代エジプトはピラミッドと神殿を残し、古代ギリシャは叙事詩、哲学、芸術を残した。それらの遺産は今日なお人類に影響を与えているが、かつての言語、信仰、制度、社会生活は、長い歴史の中で程度の差こそあれ断絶や変容を経験してきた。

しかし中華文明は、極めてまれな連続性を保ちながら今日まで歩み続けてきた。王朝は幾度となく交代し、国土の支配者も繰り返し変わり、戦争、災害、離散も絶えることがなかった。それでも漢字は伝わり、詩書は伝わり、礼楽や衣冠も受け継がれた。天を敬い、徳を修め、神、道、天命について語る記憶もまた、世代から世代へと受け継がれてきた。

なぜなのか。

「五千年間途絶えなかった」という事実以上に問うべきなのは、この五千年の間、いったい何が伝えられてきたのかということである。

もし古い器物や技術、生活様式を後世に残すことだけが目的であったなら、そうした形式だけでは、なぜ一つの文明がこれほど長く存続できたのかを十分に説明できない。文明が本当に受け継いでいくものとは、決してその形式だけではなく、生命の最も根本的な問いに対する答えである。

人はどこから来たのか。なぜこの世に来たのか。得失や苦難の中で、人はどのような選択をすべきなのか。善悪を見分けることはなぜ重要なのか。そして生命は最後にどこへ向かうのか。

こうした問いをたどりながら中華文化の奥へ入っていくと、浩瀚な詩書礼楽、神話伝説、歴史物語の下に、五千年の歳月を貫く一筋の伏流が流れているかのように見えてくる。それは時に姿を現し、時に隠れながらも、一度も本当に途絶えたことはなかった。

ある時は「天」と呼ばれ、ある時は「道」と呼ばれる。ある時は詩人の頭上に浮かぶ一輪の明月となり、ある時は山へ帰っていく隠者の後ろ姿となる。ある時は「返本帰真(本来の真なる自己に返る)」という言葉の「返」の一字に宿り、またある時は『西遊記』で九九八十一難を乗り越えた末の功成円満として描かれる。

それは一つまた一つと王朝を越え、さまざまな表現へと姿を変えながらも、常に同じ方向へ流れ続けてきた。

中華五千年の文化において本当に途絶えなかったものとは、おそらく、この精神の伏流なのである。

 

一、人間界から天へと通じる道

中国人の文化は、天を仰ぎ見ることから始まった。

伝統的な中国人の世界において、「天」とは決して頭上に広がる空だけではなかった。人には天命があり、物事には天意があり、善悪には天理がある。帝王は天子と呼ばれ、人として生きるうえでは「敬天知命」が重んじられ、人と天地との最高の調和は「天人合一」と呼ばれた。

こうした天への畏敬は、制度や古典の中に存在しただけではない。庶民の日常生活にも深く入り込み、中国人が世界を理解し、自らの生命を位置づける基本的なあり方となっていた。

古代の文明起源にまつわる伝説も、すべて神と結びついている。盤古が天地を開き、女媧が人を造り、伏羲が八卦を描き、神農が百草を嘗め、倉頡が文字を造り、黄帝が華夏文明を開いた。

今日、こうした上古の伝説をどのように理解するにせよ、そこには重要な文化的記憶が保存されている。すなわち、中華文明はその始まりから、自らの源を天と神に結びつけてきたということである。文明の起源から人間の道徳観、生命観に至るまで、天と神は常にそこに存在していた。それが中華神伝文化の最初の基調を形作った。

もし生命に来たところがあるのなら、人間界に来ることは、単に数十年という時間を過ごすためだけではない。生命に来たところがあるなら、帰るところもあるはずである。

こうして「天」は中国人の道徳の中へ入り、「道」は中国人の生活へ入り、「徳」は一つの生命を量る重要な尺度となった。人は地上で暮らしながらも、心の中では常に、自分の頭上には天があることを知っていた。

この生命の方向性は、その後、儒・釈・道によってそれぞれ異なる形で保存されていった。

儒家はまず、人間社会の中で立派な人間になることを教えた。『大学』では格物、致知から誠意、正心、修身へ、さらに斉家、治国、平天下へと進む。学問は最終的に人の心と行動に落とし込まれなければならない。父子、夫婦、君臣、朋友という具体的な人倫関係も、すべて自己修養が行われる場となった。

道家は、複雑な人間社会の得失から人の目を天地と生命の本真へ向けた。清静、無為、少私寡欲、返本帰真。その「返」という一字は、生命がどれほど遠くまで歩んだとしても、なお帰ることのできる本来の場所があることを示している。

仏家が中国へ伝わると、修煉、覚悟、彼岸、輪廻、生死を超越するという観念が、さらに中国人の精神世界へと入っていった。

三家の道は同じではない。しかし、それらは共に中国文化に一つの非常に特徴的な生命の方向性を形成した。

人は世間で生きていても、ただ外に向かって追い求めるだけではいけない。塵世に身を置きながらも、常により高いところへ向かって歩むことができるのである。

この方向性は経書の中だけにとどまらず、詩書礼楽、そして琴棋書画にも入り込んだ。

琴が「雅」とされたのは、単に音色が美しいからではない。その根底には「和」がある。人は琴の音の中で心を静め、息を整え、人と天地との呼応を感じる。

囲碁は一枚の盤と白黒二色の石だけで、陰陽、虚実、進退、取捨、全局を展開する。人は得失の間で局面を見渡し、止まることを知り、捨てることを学ぶ。

書法は一点一画を通じて人の心性を磨く。「書は人なり」といわれるように、突き詰めれば筆墨に現れるものもまた、その人の気質と品格である。

中国画も、形が似ていることだけを最高の境地とはしない。山には気があり、水には勢いがあり、竹には節があり、蘭には幽玄があり、梅には骨がある。画家が天地万物を借りて探し求めるものは、最後には人の精神的境地なのである。

琴は人に「和」を教え、棋は大局を見ることを教え、書は心を正すことを教え、画は境地を見ることを教える。

表面は「芸」であっても、その深奥ではすべて「道」へ通じている。

文学も同じである。屈原は追放されながらもなお天地を求索し続け、陶淵明は官界から帰り「帰去来兮(さあ、故郷へ帰ろう)」と詠んだ。その声は千年以上の時を越えてなお人の心を打つ。李白は青天の明月を仰ぎ、その詩には仙人、天門、銀河が現れる。蘇軾は生涯に何度も左遷されたが、苦難によってその生命が狭くなることはなく、むしろその文章は次第に天地のような広がりを持つようになった。

なぜ中国の詩歌には、月、雲、山、水、帰舟、故郷がこれほど好んで詠まれるのか。

なぜ「帰」という一字が、中国人の精神世界にこれほど繰り返し現れるのだろうか。

帰郷、帰田、帰隠、帰真、帰去。

一つの「帰」という字が、数千年にわたって書き続けられてきた。

それはもしかすると、中華文化の深奥において、人が本当に懐かしんできたものが、この世の一つの故郷だけではなかったからかもしれない。そこには、もう一つの、さらに遠い故郷についての記憶が、かすかに保存されていたのである。

苦難もまた、そのために異なる意味を持つようになった。

蘇武は長年拘束されても屈服せず、岳飛は栄辱と生死の間で忠義を守り、文天祥は死を前にして「留取丹心照汗青(丹心を留め取って 汗青を照らさん:不変の忠義を遺して、歴史の鑑を明るく照らそうではないか)」と詠んだ。

彼らの多くは、世俗的な意味では「成功者」ではなかった。それでも千百年にわたり中国人が彼らを敬い続けてきたのは、伝統文化が一つの生命を量る尺度として、成功と失敗だけでなく「徳」を重んじてきたからである。

『西遊記』は、この生命の道をさらに鮮明に描いている。唐僧一行は西天へ経典を取りに行くのであるが、必ず九九八十一難を経験しなければならない。

目的が数巻の経典を手に入れるだけなら、なぜそれほどの苦難を経験しなければならないのか。

それは、苦難そのものも道の一部だからである。

孫悟空は天にも通じるほどの力を持ちながら、旅の中で繰り返し磨かれ、自分自身を変えていかなければならない。猪八戒は食欲、色欲、怠惰、貪欲と何度も向き合う。唐僧もまた、信と疑、生と死の試練を繰り返し経験する。

最後に得たものは真経だけではない。変わったのは生命そのものでもあった。

詩書礼楽は人を教え、琴棋書画は人を養い、忠孝節義は人を立て、歴史と苦難は人を磨く。そして仏道の修煉文化は、さらに直接的に人へ告げる。

生命は修煉を通して返本帰真することができる、と。

ここまで来て初めて、数千年にわたり流れ続けてきたあの精神の伏流が、実は一つの字を指し続けていたことに気づく。

――「帰」である。

中華文化が表面で描いているのは人間界である。しかし、その深奥では絶えず人にこう語りかけている。

人間界を、生命の最後の故郷だと思ってはならない。

塵世から本真へ帰り、人間界からより高いところへ向かう。

もし人の生命が本当に天から来たのであれば、その帰路が最後につなぐものは、人間界と天なのである。

一本の天への道である。

 

二、天への道はいかに断ち切られたのか

しかし近現代になると、数千年にわたって続いてきたこの文化の脈絡は、大きな断絶に直面した。

特に中国共産党(中共)が政権を樹立した後、無神論と階級闘争が公式イデオロギーとなり、伝統信仰、宗教、礼教、そして多くの文化的習慣が継続的に改造と批判の対象となった。

文化大革命では「破四旧」が中国全土を席巻し、寺院、仏像、古籍、碑刻、祖祠をはじめ、大量の文化遺産が破壊された。伝統文化を担っていた多くの人々も深刻な打撃を受けた。

しかし、一つの文化財は、本当にただの「物」なのだろうか。

一つの古寺、一尊の仏像、祖先が残した一枚の碑、数百年続く祠堂。それらはもちろん物である。しかし、その周囲で暮らす人々にとって、それらは単なる物ではない。

それは、一つの民族が目で見ることができ、手で触れることのできる「記憶」なのである。

子供が祖祠の前を通り、古寺の鐘の音を聞きながら育ち、祖先が残した碑文を眺め、老人から数百年間語り継がれてきた物語を聞く。たとえ誰も「文化継承とは何か」と説明しなくても、その子供はおぼろげながら理解する。

自分より前には長い歴史がある。自分の生命の外には、さらに大きな天地がある。そして、自分は今日から突然始まった存在ではない、と。

だからこそ、寺院が壊され、仏像が砕かれ、祖祠が取り壊され、古籍が焼かれた時、破壊されたのは古い物品だけではなかった。

一つの民族が自らの目で見、自らの手で触れることのできた文化的記憶そのものに、巨大な断絶が生じたのである。

それと同時に、さらに深刻な破壊が人の心の中で起きた。

敬天は迷信として退けられ、神仏は否定され、因果、天命、修煉、返本帰真は別の解釈体系へ組み込まれた。人と天地、人と神、人と祖先との間に本来存在していた精神的なつながりも、再解釈され、さらには否定された。

一方では文化の「形」を壊し、もう一方では文化の「神」を否定したのである。

形を壊すとは、人が過去をますます見られなくなることである。

神を壊すとは、人が過去をますます信じられず、理解できなくなることである。

そして、さらに深い断絶とは、伝統文化を見る人間の「目」そのものが変わったことである。

今日の中国には、古装、古建築、詩詞、歴史を題材とした作品が不足しているわけではない。多くの時代劇や歴史ドラマは、衣冠、建築、礼儀作法に至るまで非常に精巧に作られている。

しかし、古人を理解する際に、依然として無神論、唯物主義、権力闘争、現代的な功利主義という枠組みに立っているなら、奇妙な光景が生まれる。

「外見は古代、魂は現代」

古人の敬天は政治的必要から生まれたものと解釈され、神仏への信仰は科学が未発達だったためとされる。忠義は利益計算へ還元され、修道や礼仏も、現実社会で挫折した者の精神的な逃避として説明されることがある。

衣服は古人のもの、宮殿も古人のもの、人物の名前も古人のもの。しかし、その人々の生活、選択、信仰を本当に支えていた天地観と生命観は抜き取られてしまっている。

したがって、最も深刻な文化的断絶は、古装が消えた時に起こるのではない。

人がすでに、非伝統的な思想体系によってしか古人を理解できなくなった時に起こるのである。

寺が壊れても再建できる。古籍が散逸しても整理できる。古装が失われても復元できる。

しかし、人間の思考の枠組み、価値判断の尺度、世界を理解する方法そのものが変わってしまったなら、古いものを再び目の前に置いても、人はそれをどう見ればよいのか分からないかもしれない。

一幅の山水画が今も博物館に掛けられている。人々は構図や筆墨、市場価値について語ることはできる。しかし、なぜ古人が幾重もの山と雲気の間に、ごく小さな高士を描くことを好んだのか、なぜ「林間に高人あり、笑語天外に落つ」という境地が憧れの生命境地とされたのかを、自然に理解できるとは限らない。

その絵の中へ本当に入るためには、「天人合一」とは何か、「修身」とは何か、「清静」とは何か、「高士」とは何か、「返本」とは何か、「道」とは何かを知る必要があるからである。

もし、そうした言葉の背後にある生命の内涵が人の心から消えてしまったなら――

「絵は残っていても、人はもう、その中へ入れない」

したがって、本当に断ち切られたものは、伝統文化の「形」だけではなく、伝統信仰への認識だけでもない。

さらに深いところで失われたのは、中国人が自らの文明を理解する能力である。

天、道、徳、善、因果、修煉、返本帰真――これらの漢字は今も毎日のように誰かが書いているかもしれない。しかし、その背後にある生命の内涵が理解されなくなれば、残るのは、見慣れているのにどこか見知らぬ文字の列だけかもしれない。

五千年文明の土地に生きる人が、こうして次第に根を失い、自分がどこから来たのか分からず、そしてどこへ向かうべきなのかも、ますます分からなくなっていく。

これこそが、「断ち切られた天への道」の本当の意味なのである。

 

三、なぜ五千年は、よりによって今日まで続いたのか

しかし、ここでさらに深い問いが現れる。

もし中華伝統文化が単に過去に属するものなら、なぜこれほど長い歳月を越えて、今日まで伝えられる必要があったのだろうか。

なぜ、これほど巨大な破壊を経験しても、最も古い言葉の数々は完全には消えなかったのだろうか。

「天」はまだある。「道」もある。「徳」も「善」もある。そして、数千年間書き続けられてきたあの「帰」の字も残っている。

『西遊記』も残り、詩書も残り、修煉、因果、天命、返本帰真についての文化的記憶も、今なお人間界の各所に散らばっている。

これほど長い継承によって残されたものは、明らかに過去だけではない。

今日の人々へ渡されるべき「何か」もまた、残されているのである。

改めて五千年を振り返ると、歴史はまったく別の姿を見せ始める。

一つ一つの王朝は、歴史の長河に次々と立ち上がる舞台のようである。帝王将相、文人、隠士、忠臣義士、修道人が次々と登場し、そして退場していった。

儒・釈・道は思想の基礎を築き、詩書礼楽は人の心を陶冶し、忠孝節義は善悪を判断する尺度を築いた。修煉文化は、生命が返本帰真できることを人に知らせ、神話伝説は、目に見えるこの人間界の外に、さらに高い世界が存在することを繰り返し人々に思い出させた。

一層また一層と敷き、一朝また一朝と演じられてきた。

ここまで来ると、一つの問いを避けることはできない。

なぜ「返本帰真」と「修煉」を説く文化が、「修煉」というものをますます理解できなくなった時代まで、延々と受け継がれてきたのだろうか。

答えは、まさにそこにある。

人がますます物質を信じ、ますます神から遠ざかり、目の前のこの一生だけを生命のすべてだと考え、「修煉」が何を意味するのかさえ理解しにくくなった時、五千年にわたって保存されてきた文化的記憶が、もう一つの意味を現し始めるのである。

それらは、長い道の途中に残された道標のようなものである。

道標そのものが帰路なのではない。

しかし、すでに遠くまで歩いてしまった人が、本当の分かれ道に立った時、それでも進むべき方向を見分けられるようにしているのである。

五千年の神伝文化は、世代から世代へと受け継がれる中で、修煉を理解し、帰るべき道を見分けることのできる文化的記憶を保存してきた。

儒家は修身と徳を理解させ、道家は返真と「帰」を理解させ、仏家は慈悲、覚悟、因果輪廻、生死の超越を人々の心に深く浸透させた。そして文学、歴史、神話は、天、善悪、因果、生命の帰宿についての言葉を世代を超えて保存してきた。

さらに深く見ると、儒・釈・道が残したものは、「修煉」という漠然とした概念だけではない。それぞれが、生命が上へ向かって高まっていく時に到達できる異なる境地を後世に示してきた。

道家は清静無為を説き、後天的な欲望や執着を取り除き、最終的に返本帰真することを説く。「真」という一字は、道家文化において極めて深い生命の内涵を持っている。

仏家は慈悲と善を修めることを重んじ、因果輪廻を説き、執着を放下し、衆生を普く済度することを説く。それによって、人は善念を絶えず広げた生命が、どれほど高い境地へ到達できるのかを見る。

儒家は人間社会に立脚しながら、修身、克己、守礼、成仁と、一段一段上へ向かわせる。人は得失、栄辱、人と人との関係の中で自分を律し、他者を寛容に受け入れることを学び、最後には君子、さらには聖人の境地を目指す。

「仁」の背後にも、克己と忍譲がある。人間社会の争いの中で真に仁徳を守り抜くこと自体、大きな「忍」を必要とする。

こうして振り返ると、五千年の文化には、さらに別の一層の伏線が見えてくる。

道家は人に「返真」とは何かを知らせ、仏家は「善」がどれほど広大な境地まで修められるかを知らせ、儒家は人間社会の中で絶えず人の克己、寛容、忍譲を磨いてきた。

それらを単純に「真・善・忍」と同一視することはできない。しかし、「真」「善」「忍」という文字が、中華文化の中ですでに深い生命経験を持つものとなる土壌を作った。それらは単なる抽象的な道徳概念ではなかったのである。

五千年の文化は、人類の言語、思想、道徳的経験、さらには生命の境地についての想像の中に、これらの内涵を理解するための基礎を築いてきた。

したがって、五千年の神伝文化によって育まれてきた民族は、実はすでに「真・善・忍」という三文字を理解するための文化的基礎を備えていたのである。

かつて異なる修煉の道、思想的伝統、人としての実践の中に分散していた生命の境地が、今日に至って、互いにつながり合う可能性を持ったかのようである。

五千年に及ぶ歴史の積み重ねは、単なる文化的な考え方を残しただけではない。それは、この民族がより高次の「生命の法則」を理解するための力を育んできたのだ。

そして、まさに伝統的な修煉文化から遠ざかったこの時代に、法輪大法が伝え出され、真・善・忍を説き、修煉と返本帰真を説いた。

五千年の神伝文化に育まれてきた民族にとって、それらはまったく聞き覚えのない言葉ではない。長い歴史の中に散らばっていた「天」「道」「徳」「善」「修」「返」「帰」、そして数千年間にわたる返真、修善、克己、忍譲、生命の向上についてのさまざまな実践が、今日に至り、再び互いに呼応する可能性を持ったかのようである。

それによって、真・善・忍が持つ内涵の広大さを、さらに理解できるようになる。

五千年の文化そのものは法ではない。しかし、人が法を理解するための言葉を準備してきた。

それ自体が帰路なのではない。しかし、帰路についての記憶を一路保存してきた。

五千年は過去のためだけに存在したのではなく、今日のために「法を理解できる」文化的記憶を保存してきたのである。

ここに至り、五千年間ひそかに流れ続けてきた伏流は、ついに今日へと流れ着いた。

 

四、神韻が再び扉を開く

まさにこの意味から神韻を改めて見ると、まったく異なる感覚が生まれる。

幕が開くと、雲霞の間に天国世界がゆっくりと姿を現す。音楽が響き、長い袖が翻る。漢唐の雄大な気風、塞外を吹き抜ける長風、江南の水景――一つ一つの王朝、一つ一つの物語が、五千年の歴史の奥深くから再び歩み出してくる。

そして、そうした人間界の光景の向こうには、中国人が数千年間親しんできたもう一つの天地がある。

雲海と仙山、洞天福地。その間を仙人が行き来し、まるで道家文化における清静で超然とした、返本帰真することのできる世界が、再び人の目の前に現れたかのようである。

古人にとって仙境とは、単なる文学的想像ではなかった。「修道成仙」「返本帰真」と同じように、生命は塵世を超越し、より高い境地へ帰ることができるという認識を保存していたのである。

そのため、神韻の舞台における天上と人間界は、互いに断絶した二つの世界ではない。

仙境は上にあり、人間界は下にある。神仏が世に下り、生命は人間界で悲歓、選択、磨煉を経験する。そして人の目は、何度も再び天へと向けられる。

五千年文化の中でかすかに見え隠れしてきたあの天への道が、こうして抽象的な文字や伝説から、再び目で見ることのできる光景へと変わるのである。

もし古代の衣冠、舞姿、物語を復元するだけなら、それはまだ文化の「形」を復元したにすぎない。

本当に難しいのは、精神的背景を失った文化の形式に、もう一度「神」を取り戻すことである。

神韻の舞踊劇『観画入境』は、この問題を意味深い舞台表現へと変えている。一人の古代女性が偶然の機縁によって絵の中へ入り、絵の中の人物たちと出会う。

舞踊劇が描くのは古人の物語である。しかし、今日の観客にとって、この「絵の中へ入る」というイメージには、もう一つの意味があるように見える。

すでに伝統の外側に立ってしまった現代人が、再び自らの文明の中へ入っていくのである。

前にこう述べた。

絵は残っていても、人はもう、その中へ入れない。

神韻が行っていることは、まさにこの扉をもう一度開くことである。

その中へ入って目にするのは、何着かの古装や、いくつかの楼閣だけではない。衣冠の背後にある「礼」、読書の背後にある「修身」、山水の背後にある「天地」、人と人との間にある節度、そして天地の間における人間本来の位置である。

したがって、伝統の中へ本当に入るとは、古装を一着身につけることでも、古建築を一棟再建することでも、現代人の思想を古代の物語の中へ入れることでもない。

本当に入るとは、伝統文化を読み解くことのできる「目」を再び取り戻すことなのである。

これこそ、神韻が一般的な「復古」と異なるところである。

復古とは、過去を復元することである。

回帰とは、自分がどこから来て、どこへ帰るのかを再び見つけることである。

神韻は、現代人を唐や宋の時代へ戻そうとしているのではない。古人と同じ生活をさせようとしているのでもない。

舞踊、音楽、色彩、衣装、伝統的な物語を通じ、すでに遠いものとなった文化の言葉を、再び目で見、耳で聞き、心で感じられる生命の光景へ変えることで、今日の人々にもう一度理解させようとしているのである。

古人はなぜ天を敬ったのか。

なぜ徳を重んじたのか。

なぜ神仏を信じたのか。

なぜ身を修めたのか。

そして、なぜ返本帰真を絶えず求め続けたのか。

こうして過去、現在、未来は、さらに深い一本の線によって再び結ばれる。

 

五、文化を再び人の中に生かす

しかし、一つの文化を本当に復興させるには、扉を再び開くだけでは足りない。

文化は最後には、人によって担われなければならないからである。

衣冠は複製できる。建築は再建できる。楽器も復元できる。舞踊の動作も訓練できる。

しかし、その精神を担うことのできる人がいなければ、最後に復元されるものは、やはり美しい外殻にすぎないかもしれない。

最も復元することが難しいのは衣服ではなく、その衣服を本当に着こなせる人である。

礼儀ではなく、なぜ礼が必要なのかを心から理解している人である。

美しい動作の一式ではなく、その動作の背後にある人の心性、気度、生命状態なのである。

中国古代の礼楽文化も、舞踊を単なる身体技術とは考えなかった。『礼記・楽記』にいう「楽」には、音楽、舞踊、礼儀そのものが含まれている。

その考え方に沿えば、礼・楽・舞は三つの側面から、一つの完全な芸術世界を共に形作っている。

礼はその位を定め、楽はその心を和し、舞はその徳を形にする。

礼によって人と人はそれぞれの位置を知り、進退に秩序が生まれる。楽によって互いに違いながらも調和できる。そして舞によって、本来目には見えない徳と精神が、人の身体、表情、歩み、進退を通して、目に見える形となる。

『楽記』が『大武』について語る時、人の堅固さ、奮発する精神、天下を治める気象までも、楽舞の姿勢や隊列によって表現できるとする。

したがって舞とは、単に身体が動くことではない。

身体そのものが、精神の言葉になるのである。

この角度から神韻を見ると、舞台上の多くのものがさらに深い意味を持つようになる。

人物がなぜそのように立ち、そのように歩くのか。君臣、父子、師弟、男女の間で、なぜそれぞれ異なる振る舞いと節度があるのか。これが「礼」である。

音楽と舞踊が互いに呼応し、異なる人物、色彩、動作が最後には一つの完全な境地へ溶け込んでいく。これが「楽」である。

そして忠、義、慈悲、端庄、勇毅といった本来目には見えない精神が、俳優の眼差し、身法、姿勢、舞台全体の気象を通じて姿を現す。これが「舞」である。

礼は形に秩序を与え、楽は心に和をもたらし、舞は徳を形にする。

したがって、神韻が本当に復元しているものは、失われ、あるいは薄れてしまったいくつかの舞踊形式だけではない。

さらに深いところでは、中国伝統芸術が本来持っていた「形と神が呼応する」状態を再び現しているのである。

一つの動作が美しいのは、線が美しいからだけではない。一人の人物が人の心を打つのも、物語が波瀾に富んでいるからだけではない。

その奥へ本当に入れば、形の背後には心があり、心の背後には徳があり、徳はさらに高い精神的基準へ向かっていることに気づく。

古人は楽によって徳を見た。

神韻は純善純美によって、その徳と精神を再び人が見、聞き、感じられるものにしているのである。

この角度から見ると、飛天芸術学院と飛天大学が示す教育方法は、中国古代の書院を思わせる。

伝統的な書院が育てようとしたのは、単に本を読み、試験を受けられる人間ではなかった。経典、師友、環境、日常生活、そのすべてが最終的には一人の人間を形作り、学問を本当に生命の中へ入れるために存在していた。

多くの神韻芸術家にとって、真・善・忍もまた、単なる舞台上のテーマではなく、修煉の中で自らに求める基準である。

そのため伝統文化は、単に研究し、模倣し、表現する対象ではなく、どのように人として生きるのか、どのように心を修めるのかという実際の生活へ入っていく。

こうして伝統芸術は、再び古い一つの道へ戻っていく。

まずその心を修め、その後に芸に現れる。

中国人は古くから、人の内面の状態がその作品へ入り込むことを知っていた。

「書は人なり」。書が深まれば、筆墨の中にはその人の心性が現れる。画が深まれば、山水の間にもその人の境地が現れる。

同じように、舞踊家の内面も、眼差し、振る舞い、身法、舞姿を通して自然に表れる。

だから観客が感じ取るものは、時に動作がどれほど美しく完成されているかだけではない。その動作の背後にいる人間が表す精神的な力なのである。

『観画入境』というイメージも、ここでもう一つの意味を持つ。

神韻は観客を再び「絵の中」へ導くだけではない。

自らが「絵の中の人」となり得る人を育ててもいる。

復元しているのは、古人の衣冠と舞姿だけではなく、その衣冠を身につけ、その神韻を舞うことのできる人である。

そうした人が再び現れた時、礼は単なる礼儀作法ではなくなり、衣冠も単なる衣服ではなくなり、道徳も壁に掲げられた古訓ではなくなる。

なぜなら、それらの形式に本当に生命を与えるのは、それを担う人だからである。

人の心性、気度、精神状態が戻れば、文化の「神」もまた、その「形」の中へ戻ってくる。

したがって、伝統文化の本当の復興は、最後にはやはり「人」に行き着く。

破壊されたのが形と神であるなら、両者を再び出会わせるためにも、まずその文化を担うことのできる人が必要である。

文化は器物の中に保存することはできる。しかし、生きることができるのは人の中だけなのである。

 

六、純善純美はなぜ人の心を打つのか

伝統文化から長く隔てられてきた現代人は、どのようにして再びこの精神世界へ入ることができるのだろうか。

それは必ずしも理屈から始まるわけではない。

時にはむしろ、「純善純美」を感じることから始まる。

音楽が響き、長い袖が優美に舞い広がる。舞台上の色彩、所作、調べ、そして背景のスクリーンが一体となり、清らかで調和に満ちた、光あふれる世界を織り成している。

人が最初に感じるものは、多くの場合、何らかの概念ではなく、一つの「美」である。

しかし、その美は単に視覚的に美しいというだけではない。

そこには善があり、純粋さがあり、人の心を自然に静めるような力がある。

中国の古人はすでに、最高の芸術とは決して人の耳目を楽しませるだけのものではないことを理解していた。

『礼記・楽記』には「楽者、徳之華也(楽は徳の華なり)」とあり、また「大楽与天地同和(大楽は天地と和を同じくす)」とある。

楽は人の内心から生まれるため、人の徳を表すことができる。そして本当の楽は、再び人の心へ入り、その感情、好悪、生命状態に変化をもたらすことができる。

そのため古人は「楽」を単なる音とは考えず、音楽、舞踊、人の心性、天地の和を互いにつながったものとして捉えていた。

春秋時代、呉の公子・季札は魯国を訪れ、「周楽(注1)」を観た。

彼は詩を聴き、舞を観ながら、単に旋律や動作を見分けていたのではない。楽を通して風俗を見、政治を見、聖王の徳を見ていた。

そして舜の楽舞『韶箾』を観た時、その徳の広大さに感嘆し、「天の覆わざるなきがごとく、地の載せざるなきがごとし」と感じ、ついに「観止矣」と語った。

「観止」とは、舞踊技術にこれ以上のものがないという意味ではない。

本当に楽を知る人が、楽舞の中から聖王の徳を見、その徳を通して天地と通じる一つの境地を見たのである。

この故事は、中国伝統芸術を理解するための一つの鍵も残している。

本当の「観」は形にとどまるのではなく、形から神を見る。

本当の「楽」は音にとどまるのではなく、楽から徳を見、徳から天へ通じるのである。

神韻が表しているものは、古代の『韶』楽における聖王の徳だけではなく、特定の古代礼楽形式を単純に復元したものでもない。

舞踊、音楽、色彩、物語、そして芸術家自身の生命状態を通して、真・善・忍という宇宙の最高法則の精神を表している。

こうして、古代礼楽文化が人々に残した「芸術を通してより高い内涵を見る」という能力は、ここで新しい意味を持つ。

古人は楽によって徳を見た。神韻は純善純美によって大法を顕す。

なぜ、ある美はただ人を楽しませるだけなのに、別の美は人の心の奥深くを揺さぶり、時には自分でも説明できないほどの感動を生み出すのだろうか。

それはおそらく、本当の純善純美が、人の美的感覚だけでなく、人の善念と生命の本性にも触れるからである。

芸術が欲望を刺激し、感情を発散させることを目的とせず、純粋さ、善良さ、荘厳さ、光明を表す時、人はそれを前にすると、自然と心が静まっていくことがある。

その感動は、必ずしも最初から理解によって生じるものではない。

むしろ生命の中にもともと存在していた何かが、そっと触れられたようなものである。

これは前に述べた「まずその心を修め、その後に芸に現れる」という考えともつながっている。

一人の人間の内面状態が芸術へ入れば、芸術はもはや形式だけではない。

人の心性が純粋になり、善意が眼差しに入り、修養が振る舞いに入り、内なる精神状態が舞う姿、音楽、舞台に自然と現れる時、観客が感じ取るものも、技巧そのものだけではなく、その技巧の背後にある純善純美の生命状態となる。

もし人の生命が本当に天から来たのなら、このように高みを指し示す純粋さ、荘厳さ、光明が再び目の前に現れた時、生命の奥深くに言葉では言い表せない懐かしさが生まれるのかもしれない。

かつて見たことがあるような。

長い間そこから離れていたような。

遠い異郷を何年も旅してきた人が、突然、故郷の声を耳にしたような。

こうして純善純美が触れるものは、もはや美的な喜びだけではなく、さらに深い「記憶」となる。

それは頭の中にある特定の王朝についての知識ではない。

生命の深奥にある、自らがどこから来たのかについての記憶である。

神韻は再びその扉を開き、純善純美は長い間扉の外に立っていた人に、もう一度その中へ入りたいという思いを生じさせる。

しかし、絵の中へ入ることは、まだ帰路の終点ではない。

 

七、帰るべき道が再び現れる時

こうして五千年を改めて振り返ると、かつて互いに散らばっていたものが、次第につながっていく。

なぜ中国人は数千年にわたって天を仰ぎ続けたのか。

なぜ文化の中で「道」と「徳」がこれほど重んじられたのか。

なぜ詩歌には、月、雲、仙山、「帰去」がこれほど多く登場するのか。

なぜ修煉文化は、中国人の生命観の中へこれほど深く入り込んだのか。

なぜ『西遊記』では必ず九九八十一難を経験しなければならなかったのか。

そしてなぜ、これらの文化は巨大な破壊を経験しながらも、最も根本的なものの一部を今日まで残したのだろうか。

それは、この五千年が本当に残そうとしていたものが、決して過去だけではなかったからである。

そこには、生命の来たところと帰るところについての記憶が保存されていた。

中共によって引き起こされた文化的断絶は、人とこの記憶とのつながりを断ち切った。

神韻は神伝文化の「形」と「神」を再び表し、純善純美によって長い間眠っていたその記憶を呼び覚ます。それによって、すでに伝統の外側に立ってしまった人に、再び自らの文明の中へ入る可能性を与える。

しかし、かつて一本の道があったことを思い出すことと、すでに帰路を歩んでいることとは同じではない。

道標は人に方向を教えることはできる。しかし、人に代わって歩くことはできない。

文化は「修煉」が何を意味するのかを理解できるようにし、美は生命に再び天上の故郷からの呼び声を聞かせる。

しかし、一つの生命がどのように返本帰真し、自らの来たところへ帰るのかという本当の問題は、最後にはやはり法と修煉にかかっている。

ここに至って、この三つの関係が本当につながる。

文化は記憶を保存し、純善純美は記憶を呼び覚まし、大法は帰るべき道を指し示す。

こうして、五千年の神伝文化がなぜ今日まで歩み続けてきたのか、そしてなぜ今日、それを再びつなぎ直す必要があるのかにも、さらに深い意味が見えてくる。

歴史が今日まで歩んできたからである。

そして、人もまた今日へやって来たからである。

私たちは客席に座り、五千年の歴史を眺め、自分はただの観客だと思っている。

一つ一つの王朝はすでに幕を閉じ、一人一人の歴史人物もすでに舞台から退いた。

しかし最後まで見た時、もしかすると気づくかもしれない。

自分自身もまた、この歴史の中にいるのだ、と。

そうすると、一つの問いが静かに、今日を生きる一人一人の前に置かれる。

私は、なぜ今日という時代にやって来たのだろうか。

早く出会う人もいれば、遅く出会う人もいる。

すでに修煉の道を歩み始めた人もいれば、今なお複雑な人間社会の中で探し続けている人もいる。自分がいったい何を探しているのか、まだ気づいていない人もいる。

しかし、もし長い歴史が本当に今日のために何かを保存し続けてきたのであれば、今日に生きる一人一人が、改めて自分自身に問いかけてみる価値があるのかもしれない。

私はどこから来たのか。

この一生、なぜここへ来たのか。

人間界でのこの旅を終えた後、私はどこへ向かうのか。

五千年の文化は、後世の人々を過去へ連れ戻すために存在するのではない。

人間界をあまりにも遠くまで歩き、最も天を忘れやすくなった生命が、それでもなお天を見分け、創世主を見分けるための記憶を少しでも残しておくためにある。

五千年の歴史に散らばる「天」「道」「徳」「善」「修」「返」「帰」は、長い道の途中に残された道標のようなものである。

それらは長い歳月を越え、王朝の興亡を経験し、近現代の破壊と断絶をも経験した。それでも完全には消えなかった。

なぜなら、今日を生きる人々へ渡されなければならない記憶が、まだ残されているからである。

そして神韻が再びその扉を開き、一人の人間が五千年の文化に保存されてきたこれらの言葉をもう一度理解し、自分の来たところと帰るところを問い始めた時――

断ち切られた天への道は、再び人によって見いだされる可能性を持つ。

それは、人を過去へ戻す道ではない。

生命に自らの来たところをもう一度思い出させ、最後には帰るべきところへ向かわせる道である。

その道は天から始まり、人間界を通り、五千年の歴史を貫いてきた。

そして最後まで、なお天を指している。

長い間、忘れられていた――

自らの天上の故郷を。

 

【注釈】

(注1)周楽(しゅうがく)とは、古代中国の周王朝(西周時代)において確立された、宮廷の儀礼・典礼用の音楽や舞踊(礼楽)の総体を指す。単なる娯楽や芸術としての音楽ではなく、周公旦が定めた「礼楽制度(国家統治のための秩序や道徳体系)」の中核をなすものだった。周楽には、周自身の音楽だけでなく、黄帝から古代の聖王たちが定めたと伝えられる歴代の楽舞(黄帝の『雲門』、堯帝の『咸池』、舜帝の『韶(韶箾)』、禹王の『大夏』、湯王の『大濩』、周の武王・周公旦の『大武』)が含まれていた。

【原文】

有子曰:「(1)近於(2),言可(3)也;恭近於禮,遠恥辱也;(4)不失其(5),亦可(6)也。」

 

【注釈】

(1) 信(しん):約束を守ること、誠実であること。言ったことに責任を持ち、自分の約束をきちんと果たすことを指す。ここでいう「信」は「義」にかなっていることが必要である。

(2) 義(ぎ):物事にかなっていること、正当な道義。人の言動が正しい原則や、善悪・是非の基準にかなっていることを指す。

(3) 復(ふく):履行すること、実行すること。自分がした正当で適切な約束を、実際に果たすことを指す。

(4) 因(いん):頼ること、親しくすること、信頼すること、よりどころとすること。人と人との付き合いの中で自然に生まれる、親しみや頼り合う関係を指す。

(5) 親(しん):親しい人。また、人と人との間に自然に生まれる親疎の関係や、親愛の情を指す。

(6) 宗(そう):尊び従うこと、信頼して従うこと。よりどころとして頼り、手本として見習うことができる、という意味。

 

【訳文】

有子は言った。「約束を守るには道義にかなっていることが大切であり、道義にかなった約束であってこそ、実際に守り、果たすことができる。人に対して恭しく接するにも礼にかなっていることが大切であり、相手を尊重しながらも節度を失わなければ、自ら恥や屈辱を招くことを避けられる。人と人とが付き合っていれば、自然と自分がよく知る親しい人に近づき、信頼し、頼るようになる。そのような関係の中でも、本来守るべき原則や道義を失わないのであれば、その親しみや信頼もまた従うに値するものであり、人から信頼され、尊重されるに値するのである。」 

 

【解説】

これは『論語・学而篇』第十三章である。有子は「信、義に近ければ、言、復むべきなり。恭、礼に近ければ、恥辱に遠ざかるなり。因ること、その親しきを失わざれば、また宗ぶべきなり」と述べている。

 

礼の働きとは、人と人との関係を調和させ、家庭を和やかにし、社会に秩序をもたらし、最終的には天下の調和へとつなげていくことである。(Shutterstock)

この章は、前章の内容を受けて続いている。前章で有子は「礼の用は、和を貴しとなす」と説いた。礼の働きとは、人と人との関係を調和させ、家庭を和やかにし、社会に秩序をもたらし、最終的には天下の調和へとつなげていくことである。

しかし、「和」は尊いものである一方、日々の人付き合いの中では最も節度を失いやすいものでもある。人間関係を保つために、何でも引き受けてしまうことがある。相手に気に入られようとして、必要以上にへりくだってしまうこともある。また、家族への情や友人との友情を大切にするあまり、正しい判断を失い、身内びいきに陥ってしまうこともある。

そこで有子は、誰もが日々避けることのできない人間関係の問題から説き始め、弟子たちに「礼」を具体的な生き方の中でどのように実践すべきかを教えている。人への情を大切にしながらも「義」を失わず、人との「和」を求めながらも、守るべき道徳的な原則や一線を失わないこと。それこそが、人と人とが正しく付き合っていくために大切なのである。

 

約束は守るべきだが、「信」のために「義」を失ってはならない

「信、義に近ければ、言、復むべきなり。」

人と人とが付き合ううえで、最も大切な基礎の一つが「信」である。親が子どもに約束したことは、できる限り果たすべきである。友人同士も、互いに約束を守るからこそ信頼関係を築くことができる。商業社会ではなおさらであり、信用の有無は、その人が社会の中で確かな立場を築けるかどうかに直接関わることも多い。

人と人とが付き合ううえで、最も大切な基礎の一つが「信」である。(Shutterstock)

だからこそ、「信」はもちろん大切である。しかし有子は、「信」は必ず「義」にかなっていなければならないと強調している。なぜなら、すべての約束が必ず守るべきものとは限らないからである。

もし誰かを傷つけることや、金銭を奪って人の命まで害すること、あるいは道徳に反することをすると約束してしまい、後になってそれが間違っていると気づいたとする。それでも「約束を守るため」という理由で、そのまま実行すべきなのだろうか。当然、そのようなことをしてはならない。

「義」にかなわないことであれば、そもそも約束すべきではない。もしそのとき十分に考えずに約束してしまったとしても、後になって道義に反していると気づいたのであれば、そこでやめ、その理由をきちんと説明すべきである。

つまり、本当の意味で約束を守るとは、善悪や是非を問わず、何があっても「言ったことは必ず実行する」ということではない。「義」にかなった約束であってこそ、揺るがずに守り抜くべきなのであり、「義」に反する約束であれば、実行してはならないのである。

これは、前章の「和を貴しとなす」をさらに一歩深く説明したものでもある。人と人とは、もちろん仲良く調和して付き合うことが大切である。しかし、ただ「和」を保つことだけを目的として道義を捨ててしまえば、その「和」はすでに「礼」の根本を失っている。「和」にも「義」がなければならないのである。

 

人には恭しく接するべきだが、尊厳を失ってはならない

「恭、礼に近ければ、恥辱に遠ざかるなり。」

人と人とが付き合ううえで、最も基本的な礼儀は相手を尊重することである。人を軽んじるような態度を取れば、相手を傷つけて関係を損ない、争いや対立を招きやすくなる。反対に、相手に対する恭しさを心得ていれば、人間関係も自然と穏やかで調和したものになりやすい。

しかし、その「恭しさ」もまた「礼」にかなっていなければならない。自分の利益のために権力や地位のある者に卑屈な態度を取り、へつらい、お世辞を並べるのであれば、一見すると恭しく見えても、実際にはすでに守るべき原則を失っている。また、必要以上にへりくだり、自分の立場や分を越えて振る舞うことも、同じように礼を失うことになる。

これは、先に孔子が述べた「巧言令色、鮮なし仁」という戒めにも通じている。

本当の恭しさとは、自分を低くすればするほどよいというものではない。相手を尊重すると同時に、自分自身も守ることである。人には礼をもって接しながらも、自らの立場や尊厳、守るべき原則を失わない。そのようにして初めて、「恥辱から遠ざかる」ことができるのである。

したがって、前章の「礼の用は、和を貴しとなす」とは、人との和を保つために、ひたすら相手の機嫌を取り、迎合せよという意味ではない。人との調和を大切にしながらも、その中で「義」と「礼」を守ることが大切なのである。「和」のために「礼」を失ってはならないのである。

 

人を親しく信頼することと、親疎の情を捨てることは別である

最後の一句は、「因ること、その親しきを失わざれば、また宗ぶべきなり」である。この一句は、とりわけ単純に解釈されやすいところである。

ここでいう「因」は、頼ること、親しくすること、信頼すること、よりどころとすること、と理解できる。人はこの世で生きていく以上、まるで情を交えない裁判官のように、誰を選ぶ場合にも冷たい基準だけで判断することなどできない。

因ること、その親しきを失わざれば、また宗ぶべきなり(Shutterstock)

人は自然と自分の父母や兄弟に親しみを感じ、よく知る友人を信頼する。何かあったときにも、まず自分がよく知り、理解し、信頼している人を頼ろうとするものである。これは人として自然な感情であり、人と人とのつながりによって社会が成り立つうえでも大切な基礎である。

したがって、孔子は人に親子や兄弟の情、あるいは友情を完全に捨てるよう求めているのではない。まして、友人や協力相手を選ぶとき、さらには人材を登用するときにまで、自分にとっての親しさや疎遠さ、好き嫌いといった感情をすべて排除せよと求めているわけでもない。

本当に注意すべきなのは、親しい人とは親しくしてよく、信頼できる人は信頼してよく、頼れる人には頼ってよいが、その親しさゆえに「義」や「礼」を失ってはならないということである。

相手が身内だからという理由で、間違っていると分かっていながらかばい続ける。友人だからという理由で、関係を守るために不義な行いに手を貸す。ある人を信頼しているからという理由で、守るべき原則をまったく顧みなくなる。これこそが「根本を失う」ということである。

反対に、前に述べた二つの節度、すなわち「信において義を失わず、恭において礼を失わない」という原則を守ることができるのであれば、自分と親しい人と付き合い、よく知る人を信頼し、さらには自分がよく理解している人を優先して登用すること自体に問題はない。人には感情があり、親しい人とそうでない人がいる。それはもともと人として自然なことだからである。

聖人の教えとは、すべての人に感情を捨てさせ、誰もが感情に左右されない「聖人」になることを求めるものではない。そうではなく、情があっても情に目を曇らされず、親しい人がいても公正さや道義を失わず、人を信頼しても自ら判断する力を失わないことを教えるものである。そのようにできれば、「親しさ」は私情につけ込まれる隙になるのではなく、むしろ人と人との関係をより和やかで確かなものにすることができる。

したがって、「また宗ぶべきなり」とは、このように理解することができる。親しい人を大切にする人情を持ちながらも、「義」や「礼」という守るべき原則を失わない。そのような人であれば、自然と人から信頼され、尊重され、また人々が信じて従い、手本とするに値するのである。

 

「礼の用」から、人の心を修めることへ

このように第十二章と第十三章を改めて見てみると、二つの章のつながりがはっきりと見えてくる。

第十二章では、「礼」の働きは「和」を貴ぶことにあると説いている。そして第十三章では、そこからさらに一歩進んで、では人が日々他者と付き合う中で、どのようにすれば「和」を保ちながら、守るべき原則を失わずにいられるのかを説いている。

その答えが、約束を守る「信」は「義」にかなっていなければならず、人に対する「恭しさ」は「礼」にかなっていなければならず、人を親しく思い、信頼し、頼るときにも、人として守るべき根本を失ってはならない、ということである。突き詰めれば、ここで説かれているのも、やはり自らの心を修めることである。

『学而篇』冒頭の「学びて時にこれを習う」から始まり、孝悌や仁愛を家庭の中で実践すること、さらに「終わりを慎み、遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す」と説くこと、そして孔子が君主に徳のある政治を勧め、「礼」によって天下の人々を教え導くことまで、一見すると個人の生き方から始まり、次第に国家のあり方へと話が広がっているように見える。しかし実際には、そのすべてに一貫して流れている根本は変わっていない。

家庭にあっても、社会にあっても、国家にあっても、人は常に自らの心を正し、日々の具体的な人間関係の中で、学んだ徳を実践していかなければならないということである。

だから聖人の教えは、人に感情を持つなと説くものではなく、情の中にも「義」を持つことを教えるものである。人との親疎をなくせと説くのではなく、親しい人とそうでない人がいる中でも、守るべき原則を失わないことを教えている。また、ひたすら「和」だけを求めよというのではなく、「礼」と「義」を守りながら「和」を求めることを説いているのである。

これこそが、「礼の用は、和を貴しとなす」という教えを、日々の人生の中で実際に行う姿である。

信には義があり、恭しさには礼があり、親しさには節度がある。人としての情と義を大切にしながらも、その根本を失わない。そのような人であってこそ、真に他者と調和することができ、その和やかな関係を長く保つことができるのである。

 

先王の道は、なぜ「礼」によって「和」を求めたのか

有子は続けて、「先王の道、これを美となす」と述べている。ここでいう「先王」とは、孔子が生涯にわたって敬い、理想としていた古代の聖王たちのことである。

孔子が常に礼楽を重んじたのは、単に古代の儀式や形式を懐かしみ、それを復活させようとしたからではない。その本当の目的は、先王たちが天下を治めた根本的な原則を取り戻すことにあった。古代の聖王たちが天下を治めるとき、すべての人を同じようにしようとしたのではなく、一人ひとりがそれぞれの立場に安んじ、それぞれが担うべき責任を果たせるようにしたのである。

君主は仁愛をもって民を慈しみ、臣下は忠実に自らの務めを果たす。父母は子を慈しみ、子は親を敬い孝を尽くす。年長者は後の世代をいたわり、年少者は年長者を敬う。それぞれが自らの守るべき道に従いながら、互いに「礼」をもって接する。このようにすれば、社会には上下、長幼、親疎の違いがあっても、その違いによって争うのではなく、秩序の中で互いを尊重することができる。

したがって、先王の道が「美しい」とされるのは、違いの中に秩序を築き、その秩序の中で調和を実現することができるからである。

「徳」は、人の内面にある根本である。「礼」は、その徳を人と人との関係の中で具体的に実践するための規範である。そして「和」は、「礼」が実践された結果として生まれる、理想的な社会のあり方である。

徳があっても礼がなければ、徳は高尚な理念のままにとどまりやすい。実際にさまざまな人間関係や人付き合いの場面に直面したとき、どのような言葉や行動によって、その徳を具体的に表せばよいのか分からなくなってしまう。一方で、礼があっても徳がなければ、礼は中身を失い、表面的な形式に流れやすくなる。徳と礼が互いに支え合ってこそ、真に調和のとれた秩序ある社会を築くことができるのである。

いくら心に「徳」があっても、「礼」を知らなければ、徳は頭の中の高尚な理念にとどまり、日々の人付き合いの中でどう行動や言葉に表せばよいか迷ってしまう。反対に、「礼」の形式だけを整えても「徳」という中身が伴わなければ、それは形骸化したお世辞や見せかけに過ぎない。徳という内面と、礼という実践の双方が揃って初めて、徳と礼が互いに支え合い、真に調和のとれた秩序ある社会を築くことができるのである。

 

なぜ「和」だけではなく、「礼」によって節度を保つ必要があるのか

有子は最後に、こう戒めている。「小大これによるも、行われざる所有り。和を知りて和するも、礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり。」

大事であれ小事であれ、ただ「和」だけを求め、何事につけても人の機嫌を損ねないことや、衝突を避けることばかりを優先すれば、かえって本当の意味で問題を解決できなくなることがある。

親に過ちがあれば、子は表面的な和やかさを保つために、ただ従い続ければよいわけではない。君主が徳を失えば、臣下も表面的な安定を保つために、諫めることを恐れて黙っていてはならない。友人が過ちを犯したときも、関係が悪くなることを恐れて、何も言わずに見過ごしてよいわけではない。

本当の「和」とは、異なる意見が存在しないことではない。意見が異なっていても、「礼」と守るべき原則を失わず、道理に基づいて意見を交わし、徳をもって相手に接することである。

有子は最後に、こう戒めている。「小大これによるも、行われざる所有り。和を知りて和するも、礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり。」(Shutterstock)

だから孔子は、また「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と述べている。君子は「和」を求めるが、すべての人が同じ考えになることを求めるわけではない。なぜなら、「和」とは異なるものを調和させることであり、「同」とは、場合によってはその違いそのものをなくしてしまうことだからである。

ただひたすら相手に自分と同じであることを求めれば、表面上は衝突がないように見えても、実際には対立や矛盾を見えないところに押し込めているだけかもしれない。真の君子は、異なる考えや立場が存在することを認め、その違いの中にあっても「礼」と「徳」を守ることができるのである。

したがって、原則のない「和」は、相手への迎合に陥りやすい。節度や境界のない「和」は、相手の過ちまで許してしまうことにつながりやすい。そして秩序のない「和」は、最後にはかえって混乱を招く可能性がある。だからこそ、「礼」は「和」と対立するものではなく、「和」が成り立つために必要な節度と境界なのである。これこそ、有子がまず「礼の用は、和を貴しとなす」と説きながら、続けて「礼をもってこれを節せざれば、また行うべからざるなり」と特に戒めた理由である。

孔子が求めたのは、決して表面的な平穏ではない。原則のある「和」、秩序のある「和」、そして徳に支えられた「和」なのである

 

結び

このようにして『学而篇』のこれまでの章を振り返ると、この章が、それまで説かれてきた思想をさらに一歩先へと進めていることがわかる。

「学びて時にこれを習う」とは、徳を修めるためである。孝悌や忠信は、その徳を日常生活の中で実践することである。「終わりを慎み、遠きを追えば、民の徳、厚きに帰す」とは、一人ひとりの徳によって社会の風紀をより良いものにしていこうとする考えである。孔子が諸国を巡り、各地で政治について尋ねたのは、君主に徳のある政治を行ってもらうためであった。そして「父在せばその志を観、父没すればその行いを観」とは、真に天下の責任を担うことのできる人間は、まず自らの徳が試され、それに耐えられる者でなければならないことを示している。

そしてここで有子は、さらに一歩進んで教えている。たとえ一人ひとりに徳があったとしても、人と人との関係を整える「礼」がなければ、真に調和のとれた社会を築くことは難しい。だからこそ、「徳」と「礼」は切り離すことができない。

徳は根である。礼は人と人との関係を整える具体的な規範であり、徳が外に現れた形である。そして和は、その先に実る果実なのである。

 

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