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nicoさん のコメント

世の中が「言葉」で大騒ぎになっておりますね(苦笑)

常々「言葉」って、取扱注意な劇薬ではあると思ってます。
意思伝達に必要不可欠なものでありながら、単なる道具には終わらない。
発せられたそのままの「言葉」の向こう側には、いくつも扉を開けていかなければたどり着けない、本音があったり。
受け取り手のコンディションによっては、同じ言葉でも薬にもなれば毒にもなる。
まぁまぁ厄介です。

でも、なんとなく、揺らぎようのない本物の言葉というものは、毛穴から染み込むように心に届くものかなとも思ったりします。

石岡瑛子さんの展覧会行きたかったんですが、こういうご時世なので諦めました。行ったの羨ましいです。

ちなみに、よい舞台を観たあとは2パターンありますね。
友人と何時間でも話続けることもあります。語り合うことで、違った視点から作品への理解にたどり着けることもあり、これはこれで有意義です。
見終わったあとにロビーのベンチに座り込んで、私に話しかけるなオーラを放ちながら、ギリギリまで居座ることもあります(若干、迷惑かも…汗)
美術展はすごい作品が並んでると、途中の休憩スペースで一息つかないと非常に疲れてしまうこともあります。それくらい、作品の圧がすごいんでしょう。

それにしても、焚き火に振られてばかりのようで…早いところ思う存分、火の匂い嗅げるとよいですね。
No.1
47ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
例えば、人に何かすごい事を教えてもらった時に、素直に「すごーい」と反応すると 「今の言い方、何?絶対に本心で言ってないよね?」と言われることが多々ある。 今でこそ減ったが、昔はもっと頻繁に言われていたように思う。 もし、このままの「すごーい」が演劇の稽古場で演技として発せられた場合、僕の「すごーい」はやり直しになる可能性が高い。 観客に伝わりづらいからだ。 もちろん本人は本当にすごいと思ってるし、正真正銘、心理と個性に紐づいた真のリアクションである。しかし演劇としては、意味深なものとして捉えられるため、シーンのノイズとして処理されがちである。リアルとリアリティは全く違うものなのだ。 一応、「すごーい」が疎かに受け取られてしまう理由を弁解しておくと、自分の中で、その時受けた「すごさ」が脳内に反響し、そこから派生する色んな可能性などを瞬間的に考え始めてしまい、発話が疎かになるためだと考えている。 なので、周りの求めるリアクションに近づけるためには、一旦「すごーい!!」のクオリティ追求に脳を総動員したほうが相応しいことが多い。 ただ、総動員の号令を脳に呼びかけている時点で作為が働いてしまっていて、嘘の成分が増え、本当のリアルなリアクションからは遠ざかるという自分の中の逆転現象も起きている。 また、別の話で、 ダンサーの友人が過去の出演作の大変さを語ってくれていた時、話に熱が入ってきて一番盛り上がった際に、こう言った。 「あのね、それでね、裏では着替えとか結構あって、手とか口にツバとかつけるの大変なんだよ!」と。 もちろん彼はツバはつけない。特にこのご時世、ツバを手に付着させることは完全にご法度である。 彼が言いたかったのは、「ツメ」と「キバ」である。伝えたい気持ちが強すぎて、勢いでツメとキバが合体して「ツバ」になってしまったのだ。僕としては、愛らしい間違いだと思うし、熱意やジェスチャーから言いたいことは存分に伝わってきていた。 その後、その言い間違いをしっかり、いじったけど。 また、ある時のコンビニのレジでの話。 僕がレジに着く1mくらいから、緑色の髪をした20代と思われる女性のレジの店員さんが、 「レジ袋どうしますかー」と抑揚のない無感情な声で告げた。声かけが早い。そう思いつつ商品をレジに置き 「必要ないです」と言ったか言わないかで 「〇〇円です」と食い気味に無味乾燥に会計が進んでいった。 レシートさえも必要かどうか確認されることなく、無言で素早くレジ脇の箱に入れられてしまった。 僕はレシートをもらいたいタイプなので、少し大袈裟にその箱からレシートを拾い上げ、「(レシートを欲しい人もいるんだよ。お嬢さん。)」という不敵な笑みをマスク越しに作り、少し顔を残しながらその場を去った。 彼女のような接客では、怒ってしまうお客さんもいるのではないかとその時は感じた。 しかし、振り返って考えてみると、ニューノーマルが声高に叫ばれている昨今、彼女の接客スタイルの方が、ディスタンスも保たれるし、接触時間も減るし、飛沫も飛びづらいし、理想的な形なのかもしれないという気がしてきた。結局、僕の行動も「レシート欲しい人は勝手に持っていくやろ」という彼女の中にある定説を補強をしただけなのだ。 少し芝居がかった動きは別として。 さて、人は言葉に頼って生きている。これはもう、どうしようもなく絶対にそうだ。 人間が二足歩行を始めて言葉を獲得し、ものに名前をつけてしまった時から誰も言葉から逃れられない。無人島に一人で暮らしている人も、雨が降れば、「雨」や「水」という認識=言葉から逃れられない。シニフィエとシニフィアンの世界である。 加えて、日本の為政者の言葉が伝わってこないと声高に言われている。勿論、僕もそう思っている。 まるで国民感情を逆撫でしているような読み上げ口調の答弁の伝わりづらさは仕組まれたもののような気さえする。 そんな光景を見せ続けられると、情熱的で大衆の想いに寄り添ってくれる強力な権力者を待望するのも自然なように思われる。しかしこれが最も危険な事態である。大衆と言う概念さえ、すでに分断されているし、何よりこの思想は独裁者の誕生を招きやすい。 ま、この話は置いておく。 なにが語りたいかと言うと力強い言葉についてだ。 東京都現代美術館に石岡瑛子さんの 「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」という回顧展を見に行った。    
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