今回は、前の時代の“ラノベ脳”みたいなものが何なのかを考えてみました。
“ジャンプ脳”ですね。
ジャンプを読んでいるヤツが毒される、“ジャンプ脳”です。
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少年ジャンプの“友情・努力・勝利”ですけども、このジャンプ脳がラノベ脳へと時代が変わってきていてですね。
努力っていうのは、“ヘタレ”と“チート”に置き換わった。
友情は、“モテ”や“ハーレム”になってる。
それで勝利は、勝利を求めてるんではなくて、“感動”や“感謝”になってるんですね。
もう本当にこれは『異世界はスマートフォンとともに』を見てると分かるんです。
主人公がほとんど努力をせずに、チート状態で何かをしたら、周りが大げさに感動して感謝してくれる。
その結果、友情ではなくてモテやハーレムがもれなくやって来るというですね、めっちゃ都合のいいような話なんです(笑)。
これが、ジャンプ脳からラノベ脳への移り変わりでないかな?
と、いうふうに思います。
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ついこの間、発売された黄金時代の少年ジャンプ。
すごいですね。
1987年の、今から30年前の少年ジャンプ。
最初のジョジョが掲載されたやつなんですけども、これを見ていると、本当に 友情・努力・勝利 ばっかり出てくるんですよ。
で、ラノベ脳で言うと、『ドラゴンボール』に足りないものって何か。
今、何でドラゴンボールがそんなに流行らないかっていうと、やっぱり “ハーレム” が無いんですよ。
あと、“感謝” が無い。
ゴクウは地球を救ったんですけども、ミスターサタンに栄光を譲ってしまった。
周りの人間は「ゴクウ、お前はたいしたヤツだ」と言うだけで、止まっちゃってるんですね。
だから、周りからの評価も無いし、ハーレムも無い状態なんですよね。
そこら辺が、やっぱり違う。
『うしおととら』はドラゴンボールの改良版で、その結果、ハーレムやモテみたいなものがやって来るんですけども、それでもやっぱり弱いんですよ。
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で、『Re:ゼロ』ですね。
『Re:ゼロから始める異世界生活』は、ヘタレでありチートでありながら、一応“友情・努力・勝利”が、ちゃんとあるんですね。
僕が『Re:ゼロ』という作品の何が面白いのかって言うと、ヘタレ・チートで始めておきながら、ちゃんと努力をせざるをえない環境になってる。
努力じゃないんですよ。
主人公が色々と足掻いて頑張った結果、最終的には友情みたいなものを手に入れて、いろんなものとの戦闘で勝利みたいなものを手にするって事で。
実は『Re:ゼロ』っていうのは、ラノベ時代の作品でありながら、かなりジャンプ的な価値観なんですね。
いわゆる40代50代のオタクのお兄さんも、喜べそうな、オジサンたちも喜べそうなものを持ってきた。
そういうのが、その『Re:ゼロ』のすごい評価されてる所ではないかなと思います。
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じゃあ昔のジャンプ脳が良くて、今のラノベ脳がダメなのかというと、そうじゃなくて。
ジャンプ脳というのは、友情・努力・勝利なので、勝利しない場合は「お前の努力が足りないからだ!」という事で、“脅し”にも使われてしまうんですね。
でもラノベ脳の場合は、最初から「俺、もう今のまま何も努力せずに異世界に行ったら、チートなのにな」と妄想して終わりなので、現実に不満を持たない。
で、この“現実に不満を持たない”というのは、悪い事に聞こえる。
けども実は凄く大事なことで、中世のキリスト教の意味っていうのは、ほとんど“それ”にあるんですね。
現実生活の中は苦しくて、ヨーロッパにしてみたら小さい氷河期が来ていた。
作物が少なくなってくる中で、普通に生きてる農民とか、そういう人たちが、いかに 「いやいや、それでも仕方が無いんだ」 「これで いいんだ」 と思えるための装置として、中世の“キリスト教”というのは、凄く大事だったんです。
同じように、ラノベ的な発想法っていうのは、中世の宗教にかなり近い。
「来世で、あの世で、幸せに」っていうのは、「現世を諦めて、楽しく慎ましやかに暮らしましょう」という、ラノベを好きな人の生き様を、そのまんまやっている。
「あまり現世で望んでも、それは“幸せ”にならないよ」 と、いうような。
何回か前に“浄土信仰”って言われたんですけども、それよりは中世ヨーロッパのキリスト教に近いんじゃないかなと思います。