今回の『スター・ウォーズ/ジェダイの帰還』について、僕がテーマだと思っているのは、“終わってしまう”ということなんです。
たとえば、「学園祭が終わる」とか、「もう卒業する」とか、「修学旅行が終わる」みたいな。
何かが終わる前の寂しさみたいなものが、この作品の見所なんですね。
『スター・ウォーズ』という作品について、特にエピソード4~6に関しては、「徹底的にポジティブで明るくて楽しくて、アクションがある映画」というふうに、ついつい思っちゃうんですけど。
それはあくまでも、第1作目の『スター・ウォーズ/新たなる希望』と、次作の『帝国の逆襲』に関しての話であって、この『ジェダイの帰還』は、実は、徹底的に寂しくて切ない作品として作られていると、僕は思ってるんですよ。
というのも、「爽快なアクションが魅力の作品なんだ」と思って見ると、どうにも腑に落ちない部分が多いんですよ。
特に、映画のクライマックスで展開される、「なぜか銀河皇帝の手から怪光線がバリバリ出て、苦しむルークの前で葛藤するダース・ベイダー」というシーン。
怪光線を浴びたルークが「痛い! 痛いよ! お父さん!」と言うと、間に挟まれたダース・ベイダーが、「息子……銀河皇帝……息子……銀河皇帝……どうする? どうする?」ってキョロキョロ見ながら迷うというシーンがある。
ですけど、これ、はっきり言っちゃうと、SF映画としては本当にバカみたいなシーンなんですよ(笑)。
でも、なんでこんなバカみたいなシーンを入れたのかというと、実は「帝国軍の宇宙船の中」とか、「広大な宇宙が覗く巨大な窓」とか、「ダース・ベイダー、ルーク・スカイウォーカー、銀河皇帝」みたいなガワの設定をすべて取り払ってこのシーンを見ると、極めてシンプルな切ない人間ドラマが残るんです。
こういったように、“悲しみ”というニュアンスを持って見てあげると、作品全体が、すごくわかりやすくなると思います。
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『新たなる希望』の時には、白い柔道着みたいな服を着ていたルーク・スカイウォーカー。
次に、グレーっぽくもあるんですけど、基本的には白っぽいパイロット服を着ていた『帝国の逆襲』のルーク・スカイウォーカー。
それらに対して、この『ジェダイの帰還』のルークは、完全に黒い服を着てるんですね。
この黒い服というのは、ジェダイの制服なのかというと、別にヨーダも着ていなかったし、オビ=ワンも着てなかったから、そういうわけでないんですけど。
でも、この黒い服というのが、『ジェダイの帰還』のルーク・スカイウォーカーには、やたらと似合うんですね。
この黒い服を着たルークというのが、作品全体の「この物語も、いよいよ終わってしまう」という感じを出しているんですね。
ルーク・スカイウォーカーの孤独感を象徴しているというか。
一番最初は、友達が欲しくて大学に行きたかっただけの青年だったルーク・スカイウォーカー。
そんな彼は、ジェダイに入って、父と戦った結果、最終的に、たった1人になってしまうという。
今回の映画のラストは、そういう話に落ち着いて行くんですけど。
この黒い服っていうのは、そういう自分の未来を象徴しているようで、結構、好きなんですよね。
真っ黒な服って、やっぱり目立つよね。
この、ルーク・スカイウォーカーの未来を暗示するような黒い服っていうのは、どのシーンで見ても、ちょっとドキッとする仕掛けになってます。
よくよく考えると、ルークは、お父さんと同じ黒いフードを被って、黒い服を着ているんですよね。
その上、「自分のことを捨てて、理想のために生きる」っていう部分についても、実はお父さんと全く同じなんですね。
そんなふうに、お父さんと同じく禁欲の象徴である黒い服を着て、同じ世界に生きているにも関わらず、それでも立場的には対立しているっていうのが、なんか面白いよな。
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とはいえ、前半部のジャバ・ザ・ハットの屋敷での一連の話は、まだまだ「明るく楽しいスター・ウォーズ」です。
なので、切なくて悲しいというテーマは、ここを見ているだけでは、まだ分かりにくいと思うんですけど。
やっぱり、ハン・ソロを救出するまでは、前作の『帝国の逆襲』でのテンポを残しているんですね。
これは、僕も何か証拠があって言えるんじゃないんですけども、ジョージ・ルーカスの中では、エピソード4~6の6時間ぶっ続けで見ても、ある程度は1つの話になるように作っていると思うんですよね。
「『ジェダイの帰還』はこういう映画」とか、「『帝国の逆襲』はこういう映画」みたいに作品ごとのイメージを意識してはいると思うんですけども、最終的に全部まとめて見た時にも、わりとまとまりがあるようになっている。
なので、ハン・ソロ救出のパートでは、まだ『帝国の逆襲』のテンポを少し引きずっているんですね。
なぜ、僕がそう思うのかというと、『スター・ウォーズ』というのは、元々は“シリアル”と呼ばれる連続活劇をイメージして作られているからなんですよ。
シリアルというのは、毎週毎週、10分とか15分の新作映画を映画館で公開して、それを後で繋げても1本の映画として見ることも出来るという形の作品形態です。
そして、『フラッシュ・ゴードン』のような、モノクロ時代の映画館でやってたようなシリアルを、もう一度、現代に蘇らせようとして作ったのが『スター・ウォーズ』なんです。
だから、映画ごとにブツンと切れちゃうということではなく、1つの繋がりとして大きい話を作っている。
まあ、そういった雰囲気は、エピソード1~3の頃にはなくなっちゃったので、それらが公開された当時は「ジョージ・ルーカスの中からは、もう、そういう理想はちょっと消えちゃったんだな」なんて、ふと思ってたんですけども。
なので、ハン・ソロ救出までの時点では、「切なく悲しいスター・ウォーズ」というのは、まだ、ちょっとそんな予感がしている程度なんですね。
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ジャバ・ザ・ハットに囚われていたレイア姫が着せられていた、あのビキニみたいな格好というのは、なかなか良かったと思うんですよね。
まあ、レイア姫役のキャリー・フィッシャーとしては、たぶん、年齢的にも見せるのは限界なところもあるんですけども。
やっぱり『スター・ウォーズ』の元々のイメージというのは“スペース・オペラ”なんですよ。
そして、スペース・オペラというのは、『火星のプリンセス』って作品に出てくる、デジャー・ソリスという火星人のお姫様に代表されるようなイメージを持っているんです。
パルプ雑誌と呼ばれる、いわゆる昔の安物のSF雑誌では、「オスの宇宙人は、なぜだか全員、腕が6本くらいあるモンスターみたいに描かれるけど、メスの宇宙人は、もう絶世の美女」っていうのが定番だったんです。
そんな、美女の宇宙人が、ビキニみたいな肌もあらわなギリギリの格好で「あっはーん」としなだれているっていうのが、当時のSF雑誌の表紙の典型例だったんですね。
そこから端を発している『スター・ウォーズ』としては、そういった古き良きSFのイメージを出したかったんだと思うんです。
そして、『スター・ウォーズ』の中で、ビキニを着せるとしたら、もう、レイア姫しかいないんですよね。
『ジェダイの帰還』というのは、そういった過去作でやり残したことを、全部詰め込んじゃってるんですよね。
だから、ちょっと無理矢理な感じもするんですけど。
そういうわけで、「あのビキニシーンを見れて嬉しかったか?」と聞かれたら、当時の僕としては「お得感はないけど、これこれ。これでなきゃいけないよ」みたいな感覚はあったんですよね。
叶美香さんのグラビアというか……いや、この例えは違うな。
なんか上手い例が思いつかないんですけども。「ああ、これはあっていいものだよ」みたいな。
まあ、『ラ・ラ・ランド』のクライマックスのキスシーンみたいなものですね。
主役の兄ちゃんと姉ちゃんがクライマックスにキスをしたからといって、別に見ている僕らとしては嬉しいこともないんだけど、「これがなけりゃ終われないよ。これこれ」とは思う。
それと、すごく似たような感じですね。