古田織部は徳川家に、徳川幕府に消されちゃったんですね。
千利休は、何だかんだ言って秀吉に切腹を命じられた。
つまり、徳川家の敵の秀吉に切腹を命じられたから、「だから、いいヤツだ」 という事になって、千家として千利休の名前は残ったの。
どんな事を考えてたのかとか、弟子達の発言も、ちゃんと残ってるんですけども。
ところが古田織部は大阪冬の陣で、レオナルド・ダヴィンチのスケッチを渡して豊臣の味方をしたという事で疑いを持たれて、その疑いだけで切腹させられた。
本人だけじゃなくて、その子孫もすべて断絶されたり、もしくは切腹させられたり、首を切られたりして殺されてしまった。
その当時、建築で自分の茶室っていうのが、何よりも大事な自分のアートの中心なんですね。
作品そのものなんですけども。
その家屋敷とか茶室も、焼かれたり潰されたりしてるし。
あと自分が焼いたり集めた茶器も、すべて打ち壊されたりしてしまっているし。
あと、その人の発言力とかの資料とかも すべて焼かれてしまって、もうほとんど残ってないんですね。
それは何でかっていうと、漫画『へうげもの』の11巻で家康自身が言ってるんですけども、「数奇(すき)の分かる武士などいらない」と。
「日の本には武人が多すぎる」
「武人が多ければ、食うために戦が続くは必定」
「徳川の世が成った暁には、削ぎ落とさねばならん」
これが大阪 夏の陣・冬の陣 の理由だというふうに、このマンガの中では言ってます。
つまり大阪 夏の陣・冬の陣というのは、天下分け目の関が原の後で、豊臣方が徳川と戦ったのではなくて、何よりも侍・大名の数が多すぎると。
こんなに数が多かったら、絶対にこの後で揉めるに決まっているから、どうすればいいだろうと。
「そうだ! 武将の数の半分ぐらい、ギリギリ自分達が勝てるぐらいで不満を持ってるようなヤツらを、ぜんぶ豊臣方に付かせて、彼らにケンカをさせよう」と。
そうしたら、それを力押しで全部 滅ぼして、負けたほうは全部ホームレスにしちゃえば、日の本から武人がいなくなるってふうに考えたんですね。
まぁ、武将のリストラです。
で、「泰平創りに肝心な事はもう一つ」
「皆 賢すぎるのよ」
「かような物を良いと申す者がおる程に」
という事で、みんな、こんなセンスが良い物を「良い」と言っているほど、江戸時代初期の、安土桃山時代の人たちが賢くなってしまった。
こんな賢い者達がいれば、治まる世の中も治まらなくなるという事で、この古田織部が持つセンスそのものを邪魔なものとした。
そうではなくて、武士でも分かる、真っ直ぐで格式ばったものっていうのを“良い物” だというふうにしたかったわけです。
それで “武力” と “数奇” って言うんですかね。
この “趣味の力” と “武力” 。
この二つの価値が等しいというのは、信長が作って秀吉が茶の湯の形で広めたんです。
だから戦国武将たちは、手柄を立てると良い茶碗がもらえたりした。
それが城をもらったりするよりも、ずっと嬉しかった時代があったんですね。
この時代、一時期は “武力” と “数奇” っていうのが、同じ力を持ってたんですね。
でも石田三成と徳川家康だけは、この事をよく理解できなかった。
というか、納得しかねていた。
理解は出来るんだけども、「それはイヤだ」と納得しかねていたわけですね。
この「暴力とアートは等価である」という、すごいテーゼですよね(笑)。
「暴力とアートは等しい価値がある」というテーゼは、ピカソの『ゲルニカ』よりも遥か以前に、東洋の島国・日本で宣言されていたんですね。
それは、圧倒的な革命だと思うんですね。
だから現代の日本の陶器っていうのを見てるとき、僕らは傍で見てるから「あぁ、お茶が好きな雅(みやび) な方々だな」とか「趣味の人たちがやってるんだろうな」って思うんですけども。
実はこの戦国時代を生き延びた茶道っていうのは、「武力とアートは等しい意味がある」「価値がある」といっていた、えらい革命思想だったわけですね。