今回は『もののけ姫』のエボシ御前の正体について語っていきます。
エボシ御前については、浦谷年良さんが書いた『「もののけ姫」はこうして生まれた。』という本の中に書いてある事なんですけども。
これは、日本テレビから『「もののけ姫」はこうして生まれた。』というドキュメンタリーDVDが出ているんですけども、それの内容のまとめみたいな本なんですね。
それで宮崎さんの机の横には、コンテとか作画以外にメモが貼ってあると。
そのメモが面白くて、撮影班がどんどん撮っているんですね。
それで撮っているのを見ると、エボシ御前についてのメモがあったと。
辛苦の過去から、つまり辛い過去から抜け出した女性。
海外に売られ、倭寇の頭目の妻になる。
そこで頭角を現していき、ついには頭目(親分)を殺して金品を持って故郷に戻ってきた。
このとき、当時の中国の明で最新式の武器 “石火矢” を手に入れて日本に持ち込んでいる。
こういうのがエボシの設定です。
ポイントは、元々は海外に売られた悲しい女性であると。
ところがそこから倭寇の親分の妻になる。
つまり、美人なだけじゃなくて、かなり “やり手” な所があったんでしょうね。
それでドンドンのし上がっていって、ついには頭目を殺してしまい、倭寇の金を盗んで日本に帰ってきて、おまけに中国から最新の武器 “石火矢” という大砲を持って帰ってきちゃった、とんでもない女性です(笑)。
それでサムライの支配から自由な、強大な自分の理想の国を作ろうと考えている。
その為に目をつけたのが、“シシ神の森” だと。
シシ神の森というのは誰の領地でもないから。
「当時、土地というのは天皇の土地であったり、サムライの領地であったり、寺の土地であったり、全部、所有が決まってたんですけども、“シシ神の森” はシシ神に属しているので、ここを手に入れれば自分の国が作れる」というふうに書いてあるんですね。
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これを読めば、何となくエボシって正義の人みたいに見えます。
確かに映画の中でも、売られた女の人を買い取って引き取って、ハンセン氏病などの病気で差別されている人たちも優しく介護して、仕事を与えるという事をしている。
そんな、凄い “いい人” に見えるんですけども、それだけでは説明できない矛盾というのが、エボシにはいっぱいあります。
たとえば僕が最初に気になったのが、やっぱり “タタラ場に子供がいない” って事なんですよね。
宮崎アニメの村のシーン。
たとえばナウシカの “風の谷” とか、ラピュタの “スラッグ渓谷” にしても、必ず子供たちが走り回ってるんですよね。
ところがタタラ場には走り回る子供もいない。
それどころが、母親に抱かれている赤ん坊すらいないんですよ。
それで、これに関して宮崎駿 自身は、当時の『もののけ姫』の映画のパンフレットの中では「いや、そこまで描いてる暇がなかったんですよ」って言ってるんですけども。
「描いてる暇がない」って言い出したら、ラピュタの時の方が忙しいし、それはもうナウシカの時の方が大変なんですけども(笑)。
やっぱり、描いてないには描いてないなりの理由があると。
何でかっていうと、タタラ場っていうのは開拓村だからですね。
開拓村っていうのは、アメリカの18世紀~19世紀にはよくあった、開拓時代でようやく村が成立して、10年とか5年とかそれぐらいの年月しか経ってない村で、まだまだ戦闘状態みたいなものなんですね。
それでタタラ場に関しては、戦乱で家を無くしたり、親に売られた女の人たちを受け入れているんですけどですね。
子供とか老人という “働けない人” を、積極的に仲間に入れるほどの余裕が無い。
それだけの食料が無いし、働けない人を雇えないんですね。
まだ開拓村だから。
だから、外れにあるハンセン氏病の人たちの隔離された区画っていうのは、彼らは “石火矢を作る” という能力があるから、あそこで飼われているんであって。
どちらかというと、弱者には厳しい環境なんですね。
同時に、タタラ場は中で結婚している人もいるから、子供が生まれないはずがないと思うんですけども。
おそらく、凄く強い産児制限をしいてると思うんですね。
つまり、「子供を生んじゃいけない」っていう。
それと、男をバカにする文化。
このタタラ場の中の、男をバカにして、「女の方が強いんだ」っていう文化も、おそらく同じような理由で意図的にやっているんだと思います。
もっと大きい村になって、もう少し生活が楽になって、みんなの生活に余裕が出来るまでは、出来るだけ無軌道に人口が増えないように、かなり注意している。
これが、エボシ御前が “単なるいい人” っていうのに見えないなっていう矛盾点の一つなんですけどね。