高畑勲にダメを出されたもう1つのポイントは何かというと「『ナウシカ』という作品のテーマが “神による救い” になっちゃっている」ということなんです。
「自然を汚した人間は、どう生きればいいのか?」ということに対する救いとか答えを宗教に求めてしまったんですね。
漫画版では違うんですけども、アニメ版の『ナウシカ』の設定では「腐海とか王蟲は勝手に生まれた」ということになっているんですよ。
これが何を意味するかと言うと「海を汚し、空気を汚し、大地を汚した人間の過ちを、大自然がなんとかフォローしてくれた」ということなんです。
大自然によって、勝手に腐海が生まれて、王蟲が生まれて、その結果、もう一度、清い大地が帰ってきた。
これでは「大自然」を「神様」と言い換えても意味が同じであって、いわゆるキリスト教のような一神教的な神様を、アニミズムの世界観で言い換えているのと全く同じじゃん、と。
「人間は愚かだけど、神は偉いから、最後には神が救いを用意してくれている」のと同じように、「人間は愚かだけど、大自然はすごいから、最後には大自然が救いを用意してくれている」という話になっているだけだ、と。
「キリストが全ての人類の代わりに十字架に掛かったのと同じ様に、腐海というのは毒を吸って綺麗な水を作った」っていう、全く同じ構造じゃないか、と。
こういうのが、高畑勲の批判なんですね。
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というのも、宮崎駿や高畑勲が若い頃から信じて実践してきた共産主義思想・マルクス思想というのは、根本的に神の存在は認めないんですよ。
これは、 青木雄二さんを描いた漫画『新ナニワ金融道 青木雄二物語』の1ページです。
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「ホナ、こうしまひょ。お父さんの嫁はんが難病にかかりました。治すにも大金が必要です。どうしても工面できまへん。神様どうかうちのカカアを助けてください。神に祈ることで治りまっか?」
「いやそれは…」
「そうでしょう? 必要なのは神やのうて、金と医者ですがな。」
「つまり神がおらんということを前提にものを考えると、物事の本質がスッキリ見えてきます。これが唯物論ですわ」
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これが、世界で一番わかりやすい唯物論の講義です。
まあまあ、唯物論というのが本当にこれで合っているのかどうかは、僕もよくわかりませんけど(笑)。
まあ、こういう世界観なんですよね。
超自然的な歴史の流れとか、大自然とか、神様という抽象的な考え方を導入せずに、全てを物質的な因果関係のみで説明する。
だから「唯物論」と言うんですけど。
実は、これこそが基本的な世界観であるべきだと、高畑勲や宮崎駿は若い頃から考えていたんですよね。
『ナウシカ』で語られている「破滅的な状況になった時にでも、大自然は勝手に救いを用意してくれていた」というのは、ちっとも唯物論的な考え方ではないんですよ。
むしろ「祈ったら腐海が元に戻りまっか? 障気に毒された地球が元に戻りまっか? あきまへんやろ。そうと違うて、腐海を焼き払うてナンボですがな」というクシャナの考え方こそが唯物論なんです。
それに対して、ナウシカは「人間達は特に何もしなかったけど、結果的に森が助けてくれた。良かったね!」という宗教論を語っているだけ。
こういうふうな考え方になるわけですね。
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高畑勲の指摘はまだまだ続きます。
「資本主義に食い物にされないよう、マルクスの唯物論の考え方を伝えたい」という熱意で、『ナニワ金融道』の作者である青木雄二さんは漫画を描いてたということなんですけど。
青木さんは、カール・マルクスについて「資本主義の仕組みを分析した19世紀のドイツの経済学者、マルクス主義を訴えた。資本主義の高度な発展により、共産主義社会が到達する必然性を説いた」と書いています。
ここでのポイントは「資本主義を否定して共産主義があると説いたわけではい」ということなんですね。
「資本主義が高度に発達すればするほど、その結果としての共産主義が来る」と説いたわけなんですよ。
つまり、「腐海とか王蟲というのは、毒された地球に対して、大自然が、もう一度、地球を綺麗にしてしまうために使わせた」とするべきではないんですね。
そうすると、どちらかというと宗教主義的になってくる。
これをマルクス主義で考えると、腐海も王蟲も人間の手によって生み出されなければならないんですよ。
「高度産業社会を大自然が否定する形で王蟲や腐海が現れる」のではなく、「高度産業社会が進みすぎると、その結果として腐海が現れる」というふうにしないと、マルクス主義にならない、と。
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宮崎駿は、この批判を受け入れて、漫画版の『風の谷のナウシカ』では、腐海の設定を後に唯物論として仕切り直すんですね。
「実は腐海も王蟲も、全ては産業社会の末期に、人の手で作られたものであった」というふうに。
だから、この高畑勲の2つ目の指摘、「『風の谷のナウシカ』は宗教的であって、マルクス主義的でない」というのは、当たってるんですよ。
高畑勲によって思想的な部分を否定された宮崎駿は、その後、『風の谷のナウシカ』のアニメが終わった後、8年も掛けて、漫画版のラストを作り上げます。
どんな絶望かというと、「腐海も王蟲も人間すらも、高度産業社会の手で作られたものに過ぎなかった」と。
つまり「高度産業社会が発展した結果、次の腐海の世界になる」というマルクス主義的な史観を持ち込んだおかげで、『ナウシカ』はアニメ版よりさらに高度な絶望の方へ送り込まれるわけですね。
そして、その結果、以後の宮崎駿は「人間より大きな力が愚かな人間を救う」というドラマを、二度と作れなくなったんですよ。
『もののけ姫』でも「ダイダラボッチが死んだ後、森は復活するものの、それはもののけ達が元々いた原生林ではなく、農民が管理するいわゆる里山の森にしかならない」というですねテーマになったんです。
「人間は神を殺して生きていくしかない」というのが、『もののけ姫』における、エボシ御前が象徴するテーマなんですけど。それに対して、アシタカが見つけたのは「人は神を殺してしまう。それが人の原罪である。だから、人間たちは自分達が殺した神というのを敬わなくてはいけない」と。
ようやっと、ここまで語れるようになったんですけど、この『もののけ姫』が作れるようになったのは、『ナウシカ』を真っ正面から否定されたからというのがあるはずです。
こういうところが、高畑勲の、宮崎駿の師匠としてすごいところでもあるんです。
もう本当に、あの2人は「2人で1つ」。
クシャナとナウシカのようなものだと思います。