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今回は、ニコ生ゼミ04月14日(#277)から、ハイライトをお届けいたします。
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「【『風立ちぬ』完全解説 1 】 タイトルに隠された意味」
それでは、『風立ちぬ』完全解説その1ですね。
これは「風立ちぬ」というタイトルが出てくるところなんですけど。この「風立ちぬ」という言葉の意味は、言うまでもなく、次に画面に表れるポール・ヴァレリーの詩の引用です。
「風立ちぬ いざ生きめやも」と出てきます。
ここで、宮崎駿は「ヴァレリーの詩の引用」というだけではなく、「堀辰雄という小説家の翻訳だ」ということを、わざわざ載せているんですね。
「風立ちぬ いざ生きめやも」というのは、「風が起きた。それでも生きなければいけない」という意味なんですけど。
これと同じ詩は、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の「序曲」という部分に出てくるんです。
「風立ちぬ いざ生きめやも」という言葉が含める全体の文章というのがあります。
やや長いので、僕流にキュッと縮めて紹介します。
私はお前に「離れるな。離れてくれるな」と言ってしがみついた。
お前は私の好きにさせた。
「風立ちぬそれでも生きなければ」ふと、そんな言葉が私の口から出てしまった。
堀辰雄の小説において、この「イーゼルが風で倒れる」というのは「やがて恋人である彼女が死んでしまう」という前兆なんです。
そんな死んでしまう女の子に対して、「俺の元から離れないでくれ」と、腕を掴んで行かせないようにする男。
女は、それをやりたいようにさせている。
そして、そこで口から出てきたのが「そういうことがあっても、私はまだ生きなければいけない」という言葉だったという、そういう話なんですよ。
それをわざわざ「訳:堀辰雄」と書いているのは「これから始まるお話は、堀辰雄の『風立ちぬ』に沿って展開します」というサインだからなんです。
いつものことだよ。
わからないと思うのが普通です。
ところが、この『続・風の帰る場所』という本の234ページで、宮崎駿はついに本音でエゲツないことを言い出しているんです(笑)。
もう本当に無教養ですからね!
歴史感覚なし!
何も知らない!
「ダメだ、こいつら」って。
なんでしょうねぇ、この教養のなさは。
宇宙戦艦とか怪獣ならわかりますみたいな。
自分の頃はもっと努力したと思ったんだけどな。
――――――
なんだかんだいっても “左翼の教養主義者” なので「これくらい知ってるでしょ?」っていうのを、ついつい出しちゃうんですよ。
本当にね、ちょっとした背伸びなんですよ。
ちょっと背伸びして、1カット1カット丁寧に見ていくと、今、普通に見ているよりもどんどん面白くなります。
これも、やっぱり30秒くらい掛けて、ゆっくりゆっくり行くんですよね。
一番最初のカットは、水田の上を流れる朝もや。ものすごく綺麗です。
その1つが、こういった日本の水耕農家。
田んぼが作る田園風景ですね。
これは失われるものとして描かれるんですね。
この映画の中では、いろんなものが「これもダメだ、これもダメだ」って描かれるんすけど、その中でもすごく大きいものが、この田んぼが作る田園風景です。
主人公である二郎の家について「素封家である」と絵コンテに指示が書いてあります。
その村の庄屋さんとか、村長さんとか、国会議員さんとか、弁護士さんお医者さんというような立場のある家じゃないんだけど、お金はある。
そういう地方の旧家のことを素封家と言ったんですね。
絵コンテには、わざわざ「素封家であります」という指示があるんです。
世界恐慌の3年前で、第1次世界大戦をまだやっている真っ最中の時代です。
さっきのカットにあった開け放たれていた雨戸。
これが何を意味しているかというと「使用人はもう起きている」ってことなんですね。
僕らはスヤスヤと寝ている堀越二郎を見てるんですけども、雨戸が開いているというところで気が付かなきゃいけないのは「ということは、使用人だけは、その家の子供が起きるより前に起きて、次々と雨戸を開けている」ということなんですよ。
堀越二郎が生まれた家は身分はなかったんだけど、少なくとも素封家であり、家は金持ちだった。
でも、それよりもっと貧しい人達は、女中であったり、売られて行った先で働いていて、家の子供がぬくぬくと寝ている間に、朝早く起きて、雨戸を開ける仕事をしなければいけない。
身分制とかそういうものは「あってはいけないもの」というふうに描くんですけど。
この映画の中では、「それは、それなりの美しいもの」と描いてあります。
この身分制についての話は、今週・来週でゆっくりと解説していきます。
この時の左足の向きが内股になっているのがわかりますか?
つまり、屋根の上を普通に歩かせるのではなく、1歩2歩と足の置き方を変えながら歩かせてるんですね。
こういった足並みの乱れによるリアリティの出し方というのは、宮崎駿とか、いわばジブリの作品くらいでしかやっていないことなんですね。
これ、普通は「絵がどれくらい整っているのか?」というレベルでの捉え方なんですよね。
なので、これはみなさんも録画で確認してみてください。
これに二郎は乗り込みます。
この、乗る時の演技も、足を入れて乗る時に、この両側の枠に手をついて「よいしょ」っていうふうに、身体を入れるんですね。
この辺の演技も見ものなので、これも後で録画で演技を確認してください。
プラスティックに似た素材で、成形しやすくて、おまけに電気を通さない絶縁体なんですね。
なので、昭和の電化製品によく使われていたんですよ。
これを大正6年という時代、二郎が夢の中で思いついているということは、「彼はかなりの勉強家であって、科学にも詳しい少年なんだな」ということが、ここで分かるんです。
そのためにベークライトを出してるわけですね。
二郎がスイッチを入れると、飛行機のプロペラが回り始め、不思議なことに、飛行機がそのままフワッと浮き上がります。
インタビュワーから「あれは“カタパルト”なんですか?(前へ発射されるんですか?)」と聞かれた宮崎駿は「そうじゃなくて、あれはフワッと浮くんだよ」と。
大正時代の人というのは、飛んでいる飛行機を見たことがある人は多いんだけど、飛行機が滑走するということを知っていた人は少ない。
飛行場まで行かないと離陸・着陸は見られない。
だから、空を飛んでるところしか見られない多くの人は「あれはフワッと浮いてるんだろう」と思っていた。
そうじゃなくて、特別に滑走路の近くに住んでた人達、見たことがある人達だけが「飛行機が飛ぶ時というのは、走ってから飛ぶ。着陸する時も走って着陸するんだ」ということを知っていた、というふうに言うんですね。
すごく大変でツラいことが、いつも「風」という形で語られる。
たとえば、関東大震災とか、火事とか、日中戦争。さらには、自分の好きな菜穂子という女の人の死ぬこととか、日本という国や堀越二郎という個人に訪れる災難、逆境に遭うことを「風が吹く」と言ってるんですね。
向かい風が必要だというのを知らない。
だから、この段階での二郎は「飛行機はフワッと浮くものだ」というふうに捉えている。
つまり、二郎の空想の中の飛行機がフワッと浮き上がるというシーンは、「まだ逆境を知らないお坊ちゃんだった堀越二郎」という意味が入っているんです。
しかし、この先で、二郎の夢である飛行機が空を飛ぶためには、風・逆境が必要であるとわかってくる。
「二郎の求めている美しい飛行機を作るためには、さらに激しい風、彼の最も大事な人や、日本という国そのものを吹き飛ばしてしまう程の強い風が必要だった」と。
それが、今回の映画『風立ちぬ』の意味なんですね。
「強く風が吹いている。それでも生きなければ」というのは、「そうでなければ、彼が求める “美しいもの” は完成しなかった」という。
なので、このファースシーンに、フワッと浮く飛行機、まだ二郎が甘ちゃんだった頃というのを入れてるんですね。
ここから先、二郎にも、徐々に徐々に、自分に吹いてくる風というのがわかってきて、飛行機を作る人間を目指すようになってきます。
ここまで、映画内ではタイトルを含めてまだ2分しか経ってません(笑)。
ついて来れますか?
大丈夫ですね?
じゃあ、続けます。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
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