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今回は、ニコ生ゼミ04月14日(#277)から、ハイライトをお届けいたします。
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「【『風立ちぬ』完全解説 2 】 庵野秀明を主演声優に据えた本当の意味」
すると、横から黄金色の光が差してくる。
メッチャ綺麗なシーンですね。
ここね、もうメチャクチャカッコいいシーンなんですよ。
ここは、この映画の最初の見せ場です。
「ゴォー」っていう効果音までついてます。
音楽もここで転調するんですね。
しかし、ここでは、あくまでも「間接的に描いてる」んですね。
太陽の光そのものを描くのではなく、その中を飛ぶ鳥とか、そういうものを見せることで、見ている人に「綺麗な風景なんだな」とわかるようにわかるように描いている。
おまけに、シータの「うわあ、綺麗!」というセリフを入れたりして、美しい景色であることを伝えているんですけども。
夕日が照ってくると、アルムの山が照り返しで黄金色に輝く。
それをハイジとペーターが見ているわけですね。
そして、太陽がさらに沈むと、一瞬、山がバラ色に染まって「わあ、バラ色よ!」とハイジは叫ぶんですけど、数秒すると山は元の茶色に戻ってしまう。
この一瞬の出来事を見たハイジは大喜びするんですね。
これを毎日見ているペーターにとっては当たり前の風景なんだけど、ハイジには大ショックだったからです。
この美しさそのものは、当時のアニメでは描けなかったわけですね。
なので、「ハイジにはどう見えているのか?」ということを強調したんです。
ペーターには当たり前の風景だけど、ハイジにとっては「山が金色! 山がバラ色に燃えてるわ!」と言わせることによって、美しいということを表現する。そういう間接的な表現だったんです。
それが、1986年の『天空の城ラピュタ』、『ハイジ』から10年以上経った頃には、もうちょっと間接的な表現で出来るようになった。
今回の『風立ちぬ』では、この横から差す朝日とか、水田の上に反射する太陽の光そのものを直接描くということにチャレンジして、成功したんですね。
まるでトンボみたいに、ゼロ戦が低空飛行をして草原の上をバーっと飛ぶシーンが、ほとんどラストにあるんですけども。
二郎はパイロットになれなかったので、それ故に死なずに済んだんですけど。
まあ「死ねなかった」ということでもありますよね。
そんなシーンに呼応させるため、ラストで零戦が地面スレスレを飛ぶシーンと対をなすため、韻を踏むために、最初の方にこんなシーンが入っています。
これは、後に飛行船の爆弾と衝突した瞬間に子供に戻るんですけど。
想像の中での二郎というのは「背が高くて、眼鏡をかけていないイケメン男性」として描かれています。
中二の二郎少年の夢なんですけども。
じゃあ、なんでこんなシーンをわざわざ宮崎駿は入れたのか?
なんで男には見えなくて、かわいい女の子にだけ見えるというシーンを入れたのか?
なんで、観客に対して「主人公の二郎は、自分をチヤホヤしてくれるかわいい女の子が大好き」という、いわば恥ずかしい欠点みたいなものを見せようとしたのか?
いや、ルパンみたいなコメディキャラだったらやるんですよ。
『紅の豚』もそうなんですけども。
でも、そういったコミカルに振る舞うキャラならともかく、シリアスなキャラに対して、作者自ら自分のキャラにツッコミを入れるということをやったことがないんです。
「観客というのは、いつも主人公の行動やセリフに対して批判的な目線というのを持って欲しい」というふうに、高畑勲はずーっと訴えているんですけども。
宮崎駿というのは、「主人公の目線にひたすら没入してもらう」という、いわば、その真逆をやってるわけですよね(笑)。
これは、宮崎駿に限らず、普通のドラマでもそうなんですよ。
みんなが「感動する!」とか、「泣ける!」と言うような、アニメでも、映画でも、もうJ-POPでも、みんなそうなんです。
100%そうなんです。
「いかに、主人公が悲しい気持ち、ツラい気持ち、嬉しい気持ちに共感してもらうか?」ということに、全ての力を注いで作られている。
しかし、高畑勲は「そんなものは、この世の中には、もう山のようにあり、それは麻薬である。アヘンにしかならない。だから、自分たちは、そうじゃない、考えさせるような映画を作らなければいけない」と言ってたんですね。
宮崎駿は、それを聞きながらも、「うるせえな!」と思ってたか、「確かに!」と思ってたかわかりませんが、まあ「俺にはそんなアニメ作れねえよ!」とずっと思ってたんですよ。
だけど、最後のアニメですからね、ついにこれをやったんですよね。
まさか、宮崎駿がそんなことやるとは誰も思っていなかったので、なんかちょっと変なシーンで、分かりにくくなってるんですけど。
アシタカの気持ちとか、千尋の気持ちとか、ハウルを思うソフィの気持ち、そういう気持ちに観客を没入させるようなアニメをいつも作っているんですけども。
ところが、今回の『風立ちぬ』で、宮崎駿は、ついに高畑の批判に応えて「俺も出来る! 主観的なファンタジーではなくて、客観的な描写を入れる! 主人公・堀越二郎には、実はこんな嫌な部分もある!」というふうに批判的に描くんですね。
それは何か?
「声優に素人の庵野秀明を使う」という手を打ったんですね。
庵野秀明の下手な棒読みであれば、観客の誰も感情移入できないんですよね。
その結果、“感情移入できないキャラ” というのが強制的に作られるんですよね。
「そうすれば、宮崎駿の映画だということを一度リセットした上で、批判的な視線で見てもらえるだろう」と。これはもう、宮崎駿と、その意を汲んだ鈴木敏夫の完全に戦略的な布石なんです。
「声優に庵野秀明を使った」ということに関して、ミスキャストと思った人も多いと思います。
僕も正直言って、あれは大失敗だったと思ってるんですけども。
もしあそこでプロの演技が出来る人を使っちゃったらどうなったかというと、主人公の内面が表現されてしまうんですね。
その内面というのは、宮崎駿としては見えて欲しくない、見てる人に考えて欲しいもの。
逆に言えば「こいつ、なに考えてるんだ?」ってツッコんで欲しいのに、声優さんの演技が上手過ぎたら、そこに人間味が入ってしまうんです。
それは止めたかった。
それは宮崎にとって避けたい事態だったんです。
“いつもの宮崎アニメ” にどんどん近づいていくんですね。
この辺り、宮崎駿も「庵野は上手くなり過ぎた」と言ってるんですけど(笑)。
この僅かな計算違いに関しては、来週にもう一度、話せるかと思います。
しかし、影を落とすほど近くを飛びながら、煙には全く乱れがない。
普通、飛行機がこの位置を飛んでいるんだったら、気流に乱れが起きて、これまでの宮崎アニメ、特に冒頭の一番手間が掛かっているシーンなんかでは、絶対に煙が乱れるはずなんです。
それが、一切乱れない。
これはやっぱり「この時点での二郎は、飛行機というものの原理そのものを理解していない」っていうことなんですね。
「夢の中だから」というのもあるんですけど。だけど、夢の中であっても、彼の飛行機というのは、地面スレスレを飛んだらちゃんと草に波が立ったりとか、メチャクチャリアルなんですよ。
つまりは「所詮は勉強が出来るお坊ちゃんの甘い夢」ということを表現しているシーンですね。
もうちょっと後の時代になってくるんですけど、昭和の時代の少年雑誌って、だいたいこんな感じなんですね。
わりと、それに近い顔として、ちゃんと描いてあります。
彼の中では、少年雑誌に出てくるイケメンみたいな感じが、自分なんですね。
「ドイツのツェッペリン飛行船は金属製だ」ということは、二郎も海外の雑誌か本で読んだんだと思います。
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この映画の時代より40年くらい前に、すでにこういう全金属製の飛行船というのが想像されていたんですけども。
「そんな金属製の飛行船が飛んできて、俺のかわいい女工達をいじめようとしている!」と。二郎は勇ましく飛行機を上昇させるんですけども。
よろしくお願いします。
「え?!それってどういうこと?」「そこのところ、もっと詳しく知りたい!」という人は、どんどん、質問してみて下さい。
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