━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
岡田斗司夫のニコ生では言えない話
 岡田斗司夫の解決!ズバっと 2015/08/28
───────────────────────────────────

おはようございます。

今日は『解決!ズバッと』はお休み。
情報サイト『探偵ファイル』に掲載したコラムをお届けします。


───────────────────────────────────

「終戦記念日だから、児童ポルノについて考えてみた」

(元記事はコチラから)


 終戦記念日近くになって来ると、原爆投下の話とか、第二次世界大戦に関する話題があちこちで取り上げられる。
 最近は『永遠の0』がらみの話題も多い。

 『永遠の0』は、百田尚樹のベストセラー小説を、『ALWAYS 三丁目の夕日』の山崎貴監督が映画化して、邦画史上に残る大ヒットになった作品だ。
 『永遠の0』では、カミカゼ特攻隊が描かれている。
 この特攻隊について、現在の日本での評価は、大きく分けると2つに要約できると思う。

 一つは「昔の日本は良かった」という主張。
 今の価値観をものさしにして、過去の事件を裁くのは間違っている。
 当時の日本人の心情や価値観を考えた上で議論するべきだ。
 現に自分たちのおじいさんたちが、日本を守ろうとしてやったことなのだ。
 それを今さら「あの頃の日本人は、全員気がおかしくなっていた」と断罪するのはいただけない。
 これは、百田さん自身が『永遠の0』の中でも語っている主張だ。
 マンガ家・小林よしのり氏の主張も、このあたりであると思って間違いない。

 もう一つは、戦争“絶対反対派”が言う主張。
 特攻に行って生き残った人たちに、実際にインタビューして証言を集め、「そこには何の美学もない」「上官に強制されただけだ」と結論づける。
 特攻を、あくまでも恐ろしい、間違ったこととして捉える価値観だ。

 この2つの価値観には妥協点がない。
 互いに意見を出し合い、どんなに話し合っても決着はつかない。
 こういう決着がつかない話し合いの場合、僕は「考え方の補助線」を引いてみることにしている。
 補助線とは、幾何学用語だ。
 図形のある点から別の点に直線を一本引き、角度や図形を2つにわけると、急に問題がわかりやすくなるという手法だ。

 今回の議論で、補助線として僕がおすすめするのは「児童ポルノ」。

 現在、日本では18歳未満の女性を使ったポルノは、所持すること自体が法律で禁止されている。
 今のところ、マンガなどの絵画表現も含まれていないが、かなりギリギリのところまで議論はきている。

 しかし、江戸時代の日本では、10代前半の女子イラストがエロの題材にされるのは、ごく普通のことだった。
 10歳とか11歳の少女が、シースルー(紗)の着物をまとっている浮世絵など、当たり前に流通していた。
 高尚なものとか、ほほえましいものではなく、明らかにエロ目的のイラストだ。

 つまり、日本人というのは、昔から児童ポルノを好む民族だったと考えられる。
 「児童ポルノは日本の古典文化として認めるべきだ」という主張も可能だろう。

 もちろん、反論は簡単だ。
 グローバリゼーションという考え方がこれからの日本では必要だ。
 世界共通の価値観に照らして考えるべきだ。
 昔の価値観は捨て、いわゆる児童ポルノに近い絵画の所持を禁止すべきだ、という主張も、もちろん可能だ。

 さて、この補助線を使って、特攻隊をどう捉えるか問題を考えてみよう。
 近代的な人権意識よりも、昔からの日本文化や価値観を認め、守っていこうというスタンスなら、特攻も児童ポルノも肯定派となる。
 反対に、人権意識やグローバリゼーションの波に乗るべきだと考えるなら、特攻も児童ポルノも否定派となるはずだ。

 僕が気になるのは、なぜか現実はそうじゃないところだ。
 昔の日本を賛美して、特攻を肯定している人のほとんどが、児童ポルノに反対している。
 「どっちやねん!」
 と、その整合性のなさに、イラっとする。

 昔の価値観を賛美して特攻を肯定するなら、児童ポルノも賛成するべきだ。
 過去の日本文化の中で、自分が気に入った部分だけ「昔の伝統」「日本の美しさ」とか言って肯定しておきながら、自分が気に入らないものは「これからはグローバリゼーションだ」といって否定し、変えようとする。

 一般人ならともかく、政治家や文化人がそういう矛盾した主張をして、平気で僕達の生活に規制をかけてくるのには腹が立つ。
 卑怯だ。
 少なくとも、公人として発言する場合は、立場と思想を統一して発言してほしいと思う。


以上、情報サイト『探偵ファイル』よりお届けしました。
バックナンバーはこちら