今週のお題…………「大晦日と格闘技

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文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)………水曜日担当


 
一応、このブログはお題があるので、それに沿って話しを進めてみよう。今回は、「大晦日と格闘技」だ。一般の人達の格闘技観、すなわち民意が大晦日の格闘技を見ると良く分かる。

大晦日の格闘技、と言われるものは、プロレスを除外すればボクシングと総合とK-1。そのマッチメイクを見ると一目瞭然。ボクシングは常に世界タイトルマッチ。競技内の最高の技術を人々は見たがる。相撲なども横綱同士のトップレベルの取り組みをファンは見たがるのと同様だ。これは競技が成熟し、人々も見る目が養われているからだろう。

しかし、今回の総合やK-1はどうだ?   曙やボブ・サップが総合のトップレベルの技術を持っているとは思えないし、魔裟斗も現役の選手ではない。要するに、技術的にレベルが高いかどうかに人々の関心はない。

それでもこのマッチに人々が注目するのは「異種格闘技戦」、すなわち技術的に未成熟な戦いこそ、実は一般のファンは見たがっているということだ。日本で総合が注目される理由は、ボクシングも柔道もレスリングも相撲も、このルールなら闘える。すなわち異種格闘技戦が可能なルールだからだ。初めて選手がそのルールで闘う時でも、自分の得意技が制限されるわけではない。だからフェアである、という考えがその根底にあるのだろう。

この考えは一見筋が通っていそうだが、実はそんな単純なものではない。この辺を詳しく書くと本一冊分の文章量が必要になりそうだ。詳しくは私の著者などを読んで欲しいが、結論だけ言えば、何が有利かは、ルールによって変わる。試合時間の長い総合ルールなら、グレーシーのような寝技に特化した格闘技が圧倒的に有利だ。

では、一般のファンが、ボクシングや相撲同様、総合においては高度な寝技の攻防を見たがっているか?と言うと全く違う。総合の試合でよくある風景は、寝技になると会場は静まり返り、レフェリーのブレイクがかかり、両者が立ちあがるとどっと歓声があがる、というものだ。

マウントパンチもない寝技の攻防の地味さと言ったらない。初期のシューティングがそうであった。リングの上で寝技が行われると角度によって選手の姿が見えないし、見えても互いが何の攻防をしているのか観客には分からない。シーンとして見ているしかない。 私は、当時のシューティングを見て、この競技は伸びないだろうな、と思ったものだ。

ちなみにシューティング創始者の佐山サトル氏は、プロレス紛いの総合と、シューティングを同列に語られることを嫌ったため、当時の格闘技マスコミで取材が許されたのは、私が編集するフルコンタクトKARATEだけだった。だから格闘技マスコミの記者でも当時のシューティングの様子を知る人はほとんどいない。

佐山氏は、競技として、高度な寝技の攻防を見せようとしていたのだが、当然、観客には伝わらなかった。この地味な総合ルールが注目されるようになったのは、バーリ・トゥードルールの採用からだ。マウントパンチを使う残酷なシーンが一般ファンにアピールしたようだ。

分かりやすく言えば格闘技ファンではなく、プロレスファンに支持を得た。佐山氏を初めとする総合を競技として確立しようとする団体は当然、試合ルールの安全化を目指すが、「見る側」の人間は、残酷なシーンが生まれる過激ルールを身勝手にも支持するものだ。自分がその競技に参加するなど、露ほどにも思わぬ故の身勝手さであろうが、これが「やる側」からすると腹立たしい。

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私が、「見る側」の民意を信用しなくなった理由もここにある。
『巌流島』のルール作りの論争サイトにも、私は谷川氏に頼まれて参加していたが、私が安全性を考慮し、現実的な案をいくら出しても、見る側のファンはマウントパンチに加えろ、とかサッカーボールキックを認めろ、とかひたすら残酷ルールを推す意見が続くのに嫌気がさし、途中で辞めてしまった。

プロレスファンを中心にした「見る側」の本音、すなわち民意とはこの程度のものだ。私が『巌流島』が、本当に武術に近づく意思があるなら、民意を無視しなければならない、と言った理由もお分かりだろう。その民意を背景にしてマッチメイクをすれば、今回の大晦日の格闘技のように、未成熟な闘いのアピール路線しかなくなる。『巌流島』も、お祭り騒ぎ的な一過性のルールを目指すのか、佐山氏のように競技としての確立を目指すのか。そのコンセプトを明確にする岐路に立たされているのではないか。そして、それを選択するのは民意ではないのだ。