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ムエタイ王者は、道場六三郎の料理を上手いと思うか?
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ムエタイ王者は、道場六三郎の料理を上手いと思うか?

2015-12-29 18:40
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今週のお題…………「2015年

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文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)………火曜日担当(本来は水曜日でしたが、火曜日担当の山口日昇さんの原稿が遅れたため)


 
このブログはお題が決められているので、なかなか深い理論的な考察に至らないが、それは仕方がない。

今回のお題は「2015年」。今年は還暦パーティも開いてもらったし、武術的な発見や、進歩も飛躍的にあった年だが、そんなことは見る側の人達に語ってもしょうがない。では、なぜ「しょうがない」のか?について考えた方が、やる側と見る側の距離感が明確になって良いかもしれない。

分かりやすく、料理を例に取ってみる。料理とは作ったり、食べたりするものだが、昔、『料理の鉄人』と言う料理人の腕を競い合う番組があった。テレビの演出で結構面白く見せたが、本来、矛盾を抱えた番組なので、今は影も形もない。お察しの様に格闘技的な視点を料理に持ち込み、演出していたため、見る側の格闘技的な矛盾も、分かりやすく出ていたわけだ。

まず、料理対決の矛盾は、視聴者には、どんな味か?本当に上手いのかわかからない。ゲストのタレントや、料理研究家の好みで、勝敗がつく。もし、審査員がインド人や中国人、タイ人など、独自の文化圏の人達だったら、全く違った結果が出ただろう。

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何しろ私の知り合いのタイ人など、何にでも大量の唐辛子やレモンを入れる。天ぷらなど味がしなくてマズイと言う。インド人だって中国人だって同じようなものだろう。そういえば昔、中国女子バレーボールチームが日本で人気があった頃、彼女達の悩みは海外遠征でご飯が食べられなかったことだそうだ。中国人料理人がチームに同行するようになって、ようやく力を発揮できるようになったと言う。要するに、タイ人はタイ料理が一番うまいと思ってるし、中国人は中国料理が一番と思っている。

例え、鉄人が作った料理でも、彼らにとったら、マズイのだ。それをミシュランのように、フランス人の好みに合わせて世界中の料理を採点して回るなどというのは、まさに自己の文化を最高と考え、疑りもしない西洋人の驕りそのものだ。
本来、数値化できない世界に、傲慢にも、自分の好みを測定基準にしただけの話しである。

料理の鉄人の採点も、これと同じ矛盾がある。
さらに言えば、こうした料理対決が、メディア内で完結している問題がある。うがった見方をすれば、画面に映る料理を本当に道場六三郎が作っている保証は無いし、上手いと言う保証も無い。勝敗も局の都合で着けられているかもしれない。正しい審査が行われる真剣勝負だと言う保証は全く無いのである。恐らく視聴者もそんなことは百も承知だが、番組内で辻褄があって、ハラハラしながら見ていられれば、それがヤラセだろうと何だろうが構わない、と言うのが本音だろう。

それがそのまま「見る側」の格闘技ファンの姿勢となっていると思うと恐ろしい。私は、なぜ「見る側」の格闘技ファンが、プロレスと真剣勝負紛いの格闘技、それと通常の格闘技を同列に語るのか不思議でならなかったが、料理の鉄人を見て少し納得した。格闘技をメディア内の完結品として見る彼らは、それが真剣勝負だろうとなかろうと、そのコードの中の勝負に整合性があり、ハラハラできれば、そこに矛盾を感じないのだろう。

しかし、それはメディア内の架空現実の話しであり、それを現実の世界で修行を続ける武道や格闘技の世界に持ち込まれたら、そこの住人にとってはこの上ない迷惑である。実は武道、武術の世界とはタイにはタイ料理の他、ムエタイと言う武術があり、中国には中国料理の他、中国伝統の武術がある。他の国も同様だ。それらを一つのルール、例えば「バーリ・トゥードルールが最強である」と考えることは自由だが、そのコードに世界の多用な価値感を押し込めることは、不遜であると言う以前に不可能である。

まず、このことを理解しないと次の一歩を踏み出せない。
次の一歩とは何か?   簡単である。料理なら、見るだけでなく、食べて見ればいい。それを上手いと思うかマズイと思うか、論じる前に食べる。それは見るだけだった人間からしたら、世界観がひっくり返る出来事かもしれないが、それが現実の武術の世界だ。

勿論、思いもよらぬマズイ物を口にする危険もあるが、味わえば味わうほど、これまでの世界観が覆される衝撃を常に与えてくれるほど、現実の武術世界は奥深く、また、多様である。

それを一度でも知った人間が、知らない人間に何と言えばいいか。
恐らく、「食べたことがないなら、わからなくてもしょうがないな」。
こう言うしかないのである。
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味付けの好みの違いがあったとしても、私はタイ料理でも日本料理でも旨い料理は旨いと感じると思います。
同様に格闘技でも本物はやはり強いと感じると思います。
まがいものも大手を振って罷り通る武術界にはメスを入れた方がいいでしょう。
目潰しも認められないルールで武術の本当の強さが出せるかと言われれば、「殺し合いに近いルールの練習してるなら命まで取られないスポーツルールなら簡単でしょ」と言いたいです。ルールに合ったアダプターさえつければいいんですから。
基本的にそうあって欲しいです。
もしサムライがタイムスリップして現代の剣道の大会に出ろと言われたら児戯に等しいと感じると思います。
なので巌流島はブレずに従来のコンセプトを守っていって欲しいです。

No.1 100ヶ月前

 山田編集長のこの認識も、すでにズレていると感じる。
 見るだけの連中より、実践している自分は偉いという、上から目線というか。
 グレイシー柔術が出てきて、プロレス幻想が崩れた時に、その見るだけの人間の反応は様々だった。プロレスを見なくなったもの、格闘技を見ることにシフトしたもの、格闘スタイルのプロレスより振りきってルチャ・リブレ系のプロレスの娯楽性を再評価したもの、実際にグレイシー柔術をやってみるもの、神秘系武術に行ったもの。

 比率は調べようもないが、自分の周囲のプロレスオタクはブラジリアン柔術の道場に入門し、基礎体力に劣る人間でもコツコツ技術を習得すれば強くなれるその魅力にハマり、そもそも梶原一騎的最強論争が幻想だと、ようやく理解した。
 「実践性が−」などという批判や論争は、実際になってみないとわからないアドリブの世界。中井さんのようにサミングで失明するほどの攻撃を受けても勝利することがある。実際に使ったこともない目潰しを持ちだして、実践性を語ることの詭弁姓こそ笑うべき。

 ブラジリアン柔術にハマった連中は、そういう最強論争とは離れて、チェスや将棋と同じ競技性の楽しさを愛好し、結果的に現在のエンターテイメント路線のプロレスをまた、楽しむ心の余裕を回復した。
 そういう意味では、すでに一回崩壊して再構築されたプロレスや格闘技風プロレスを、ゼロ年代の感覚で未だにそのファンも含めて批判し、高みに立って批判している山田編集長には、少々ガッカリ。

 こんな八百鳥を見てお前ら楽しいのかと、プロレスファンに毒づいた頃の北尾光司の感覚と、さほど変わらない。
中国武術のインチキな部分を排し、解明されようと言う姿勢は尊敬申し上げるし著書も楽しく拝読させていただいているが、エンタメをエンタメとして楽しんでいるファンを理解せず、上から目線での批判は残念。

 他所は他所、ウチはウチ。むしろ神秘系中国武術のインチキと、そこに惹かれてくる若者の妄を解く事のほうが、建設的ではなかろうか? 田英海老師に期待する部分はそこ。

No.2 100ヶ月前
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