• このエントリーをはてなブックマークに追加

イベント

Twitter

ブログ・メルマガ

  • 「おおきくなったら何になりたい?」

     今さっき、娘にそう訊かれた。何の前触れもなく、突然のことだった。答えに窮した。続けておもちゃのマイクを向けられた妻も同じだった。 「何になりたいかなんて未だに分からないよね」妻は苦笑いした。僕も真顔で頷いた。10代の頃からなりたくないものははっきり見えていたけれど、なりたいものは見えていなかった。やりたくないことは分かっていたけれど、やりたいことは少しずつ変化して来た。50歳を目前にした今だって変わり続けている。相変わらずやっているのは無から有を生み出すことを考え、こんな風に言葉を紡いでいること。ただそれだけだ。  親である僕らにそんなことを訊いたこともだったけれど、もうひとつ驚いたのは、今しか見ていないと思っていた娘がいつの間にか未来を見始めていたことだ。そして少しばかり憂鬱にもなった。「将来なりたいもの」というのは「今はまだなれていないもの」である。生きることの意味を未来に求めるのは今が満たされていないこと。不幸であることの証である、という人もいる。娘は今が満たされていないと感じ始めているのだろうか。不幸だと感じているのだろうか。それは心配なことだけれど、仕方のないことで...

    2日前

    • 1 コメント
  • 「ただ好きが増えていく」

     パパ好き、ママ好き、と話し始めた頃から食後の歯磨きみたいに娘が言う。その後、ばあば好き、じいじ好き(妻の両親のこと)が加わり、パパのママ好き、パパのパパ好き(僕の両親のこと)が加わり、最近は「なんとか先生好き」がラインナップした。まるで誰かと出会うたびに登録者が増えていくスマホの電話帳みたいに。  感心するのは「誰某は嫌い」という評価が一度も出て来ていないことだ。保育園で友達に「おもちゃ貸して」と言ったら「ダメよ」と言われたというような報告はするものの、それがその友達を嫌いと言う評価には今のところ繋がっていない。ひょっとするとまだ人を嫌うという感情を知らないのかもしれない。僕らを始め周囲の誰もが娘に大して好きという感情しか持っていない。好きという感情に囲まれているから好きという感情しか生まれて来ないのかもしれない。或いは「好き」な人を増やすことが生存率を高めるという本能なのかもしれないけれど、結局のところ、誰かに嫌われたことがない人間は誰かを嫌うという感情も持たないのかもしれない。  その一方、ネットの世界には「誰某が嫌い」という負の感情の方が多く溢れているような気がしてなら...

    4日前

    • 0 コメント
  • 「成熟した人間は、必要とされることを必要とする」

     違う、と娘が首を振った。妻が用意しておいてくれた服に着替えさせようとした時のことだった。今日はそれじゃないのだという。 「じゃあ、好きなの選んでおいで」  娘はどたどたとクローゼットに向かった。多少の時間は掛かっても無理強いはしないことにしている。いや、できるようになった。最近になってようやくだ。余裕を持って子供の自主的な行動を見守ることができるようになったのは。たとえ冬に半袖を着ると言っても、本人がどうしてもそれで出掛けるという時は一度はそのまま外に出してみる。当然寒い。本人が「カーディガン着る。コート着る」と言い出してようやく最初に着せようとしていた服を着せる、という具合だ。なんて遠回りなんだろうと思うと同時に、自分も親から見ればいくつになってもこうなんだろうなと苦笑も出る。  これ、と娘がピンクの生地にラメが入ったロングTシャツを手に戻って来た。もともと着せようとしていしたボーダーのものと比べて生地が薄いが「はいはい、こちらですね」と首を通してやる。袖は自分で通す。上にカーディガンとダウンを羽織って手をつないで登園した。  門を開けようとしたところで、「つむちゃんだ...

    6日前

    • 0 コメント
  • 「冠雪桜」

     海沿いの国道で河津桜が咲いた。1月だというのに冷たい雨もなく、暖かい日が続いていたからだろう。漁港を覗くと新ワカメが並んでいた。春の魚が並んでいた。水平線の向こうの富士山では雪解けも始まっていた。  河津桜の下で娘に「春だね」と話し掛ける。「パパは夏が好き」「つむちゃんは秋が好き」という答えが返って来た。自分が秋に生まれたのを理解しているのだろうか。この世界には四季という移ろいがあることを。季節とともにこの命もまた成長し年老いていくことを知るのはいつになるのだろう。僕にとっての一年が東京に行って帰って来るぐらいの体感だとしたら、娘にとっての一年は月に行くぐらい途方もない時間なのだろうか。 「去年の桜って覚えているの?」と歩きながら訊いてみた。娘にとっては今年が三度目の桜になる。さすがに0歳の桜は無理でも、1歳の花見のときはだいぶ自我が芽生えていたように思う。まだ保育園にも通っていなかったし、母乳も飲んでいたけれど。「どう?」と訊くと「おぼえてるよ」と返事が帰ってきた。でもそれだけだった。何をおぼえているのか。本当におぼえているのか。覚えているとしたらいつまで覚えていてくれる...

    2019-02-08

    • 0 コメント
  • 「自由という見渡す限りの大海原で」

     たとえばアンケートなんかを記入していて職業欄があると、僕は迷わず「自由業」に丸をつける。「自営業」はなんとなく店舗を持つ仕事をイメージしてしまうし、「会社役員」となるとスーツは着ていないしなと気後れしてしまう。確定申告では仕事上の何が経費になるかを申告する必要があるので「文筆業」を名乗らせて貰っているけれど、心の中では胸を張ってそう言えるほど名前を知られているわけじゃないしなという気恥しさが拭い切れない。   そんな「自由業」という言葉が持つ甘美で退廃的な響きに 10 代の頃から憧れていた。毎日満員電車で往復 4 時間掛けて通勤していた父の背中が悲哀に満ちていたこと。その父の箪笥で石原慎太郎の『息子をサラリーマンにしない法』という本を見つけたこと。何より大学入学初日に生まれて初めて朝の通勤ラッシュを経験した時点でいち早く「会社員」という選択肢が消えたことが、今の生業に繋がっている。何をやりたいかではなく、何がやりたくないか。仕事において何をもっとも重んじるか。それが夏休みの宿題のように誰からも強制されないこと。自分で決めて、自分の為に、自分でやること。すなわち「自由であること」...

    2019-02-06

    • 0 コメント
  • 「水溜まりの下には」

     黄色い傘。黄色い長靴。雨の中で嬉しそうな笑顔が弾ける。生まれて初めての「自分の傘」を手にして以来、娘が心待ちにしていた雨だった。  保育園を出て134号線へと続く路地を歩いていく。思っていた以上に前が見えていない。いや、それ以前に見ていない。足下に水溜まりを見つけて立ち止まってしまった。水鏡に映る傘を差した自分の姿をじっと見つめている。やがてその鏡を割るように長靴で水溜まりを踏んづけた。水飛沫が上がった。嬉しそうに笑ったと思ったら、すぐに黄色い傘の下で水溜まりとの戯れに夢中になってしまった。  やれやれと溜め息をつく。車が来たら完全にアウトだ。傘を持たせた親の責任として、傘を差したときの歩き方をちゃんと教えなければいけないんだなということに気づいた。娘はまだこの世界のことを知り始めたばかりなのだ。その一方で、好奇心の赴くままに行動している今を大切にしてあげなければとも思った。すぐにルールや常識で縛り付けてしまうことは、自由な発想や発見に歯止めをかけてしまうことにもなる。  水溜まりの下には魔物が潜んでいる。突然手が出て来て、子供だけが足を引っ張られ、異空間に連れ込まれる。...

    2019-02-04

    • 1 コメント
  • 「希望の灯り」

     ラジオの生放送を終えた微酔いの体を最終の湘南新宿ラインが三浦半島に連れ帰っていく。通り過ぎる車窓の灯り。その灯りのひとつひとつに誰かの営みがあるという当たり前が胸に沁みる夜だ。さっきまで渋谷のラジオで『希望の灯り』というドイツ映画について話していたせいでもあるのだろう。 車窓に広がるような小さな夜の灯りの下で息づく人々の営みをやさしい眼差しで捉えた静かな映画だ。真夜中のスーパー。そこで働く人たち。多くの人々が眠っている時間に働いている彼らは起きているおかげで胸に抱えた痛みを意識せざるを得ない。眠っているときには忘れられる「こんなはずじゃなかったのに」という悲歌慷慨。心に何らかの傷を抱えた人たちにとって、眠れない夜は煩悶の時間でもある。強い光が影をより色濃くするように、時に夜の灯りは自らの闇をより強く意識させる。灯りの向こうに広がる夜の海のような漆黒の闇に引き寄せられる。朝を待てず死を選ぶ人もいる。陽が昇るまで踏みとどまることができていたら今も隣りで笑っていたかもしれないのにという新たな痛みと喪失感が周囲の人々に波紋のように広がっていく。そんな夜の物語だ。  横浜が近づいてくる。...

    2019-02-01

    • 1 コメント
  • 「僕らは誰かを救うために生まれてきたのかもしれない」

     子供の成長というのは元々プログラムされていた機能が時期が来ると自然に覚醒するものなのかと日々思わされる。ひとり一人違っていていいはずなのに本当に不思議だ。  娘は最近「おてつだい」に夢中だ。妻がキッチンに立てば自分も子供用の包丁とまな板と踏み台を持って「つむちゃんもやる」と追い掛けていく。洗濯物を畳んでいれば橫から「つむちゃんも」と衣類に手を伸ばす。最初は単なる好奇心かなと思っていたけれど、最近はそこに妻の手伝いをして役に立ちたいという、まっすぐ過ぎる思いも感じさせるようになった。好きな人の役に立ちたい。大切な人を労りたい。その真剣な思いは見ているだけで熱いものすら込み上げてくる。忙しいときなどはかえって足手まといというか、逆に仕事を増やす結果にもなっているのだけれど、親としては温かく見守ることでその気持ちを育んであげなければならないのだなと思った。  今朝、仕事用の椅子に畳まれたパンツが一枚ぼつんと置いてあって「どうしてこんなところに?」と驚いていたら「つむぎが畳んでくれたの」と妻が教えてくれた。その後ろで娘が得意気な顔で笑っている。思わず「ありがとう」と抱き締めてしま...

    2019-01-30

    • 0 コメント
  • 「ダメだよね」

    「ダメだよね?」と最近娘がよく口にする。「クレヨンしんちゃん」が人前でお尻を出しているのを見て「ダメだよね?」。子供番組で茶碗を箸でドラムのように叩いている子を見て「ダメだよね?」。どうやら2歳の彼女の中で善悪の価値観が生まれつつあるようだ。  言われた僕らは「ダメだね」「おもしろいけどダメだね」そして「ダメじゃないよ」という大体3通りの返答で答え合わせをするのだけれど、善悪に大して「ダメか」「ダメじゃないか」と決めつけるのは正直あまり気持ちの良いものじゃない。赤信号の前で「ダメだよね?」と言われるのとは違うような事柄も多いのだ。そこで最近は「ダメだよね?」と訊かれたらまず「どう思う?」と返すことにした。娘が「ダメ」と言えば「そうだね」。娘が「わからない」と言ったら一緒に考える。なかなか骨が折れるけれど、こうするのがお互いにとってベストではなくてもベターなような気がする。親の言ってることが絶対じゃないということを伝える為にも。  世界には善悪があること。常識があること。ルールがあることを少しずつ学び出した彼女は、最近ピクトグラムにも興味津々だ。非常口のマークのように公共の場に数...

    2019-01-28

    • 0 コメント
  • 「髪結いの父」

     ついに来た、と心の中で観念した。今朝、娘を着替えさせているときのことだ。さも当然のことのように娘が僕に言った。 「髪、結んで」  今どき家事や育児に男も女もないことは重々承知している。それでもこの件についてだけは言わせて欲しい。僕は男だ。結んだことがあるのなんて靴紐と小型船舶の免許を取るときに習ったもやい結びくらいだ。髪を結ったことなんてない。  お団子、ツインテール、三つ編み、いつもは妻がやってくれている。しかし、その頼みの綱も今頃は東京に向かう湘南新宿ラインの中だ。とすると、未経験の僕がやるしかない。こんな日の為に「渋谷のラジオの学校」にゲストに来て下さる美容師さんたちに常々相談はしていた。 「いつか娘の髪を結えるようになっておきたいんですよね」 「いいですね。上手に髪を結えると娘さんが小学生とかになってもパパ嫌い、とか言わないって聞きますよ」  娘が小学生になるくらいまでに美容師さんが主催するパパの髪結い講座みたいなもので習えればと思ってはいた。まだまだ先のことだと思っていた。しかし、いずれ備えをと思っていることは大抵備える前にやってくる。 「バイキンマンみたいに...

    2019-01-25

    • 2 コメント

生放送

放送済みの番組はまだありません。

動画

動画が見つかりませんでした。