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今週のお題…………「なぜグレイシー柔術は衝撃だったのか?」
文◎山田英司(『BUDO-RA BOOKS』編集長)……………火曜日担当
グレイシーの名が日本に伝わったのは1994年の第1回UFC以後だろう。金網の中で素手で殴りあうその残酷なルールの衝撃性と共に、痩せたホイスが優勝した驚き。確か格闘技マスコミは、皆この大会を表紙にし、特集にしていた。
もちろん、私の雑誌を除いて。私はそんなことより、下突きの打ち方に興味があったので、確か大山倍達の下突きの写真を表紙にしていた。
翌年、大道塾の市原がこの大会に挑み、ホイスに敗れたが、それも当初から私が予見した通りだ。私はこのルールでは打撃が不利なので勝てない。しかし、寝技の得意な柔道家ならホイスには勝てる、と記事に書いたが、後半の予想も後年、吉田対ホイス戦で証明された。
私もある意味、アルティメット大会には衝撃を受けたが、それはこんな大会が広まると格闘技界は混乱するだろうな、という危惧を抱いたからだ。
まず、ルールを過激化すれば実戦的か? という格闘技界での誤解されがちな命題がある。多くの人はそう思ってるし、残酷なルールの闘いを見たがるファン層も多い。
全ての格闘技の試合は、現実ではあっても、論理的には実戦という観点からは仮装現実なのである。しかし、ルールが過激化すると仮装現実はリアリティを持ってくる。
その中でグレイシー的な寝技は最も有効である事は理解できるが、その方向へ格闘技界の価値観が傾いていくのは、一度は仕方がない。私は実戦的な武術の追求をしたかったのであるが、格闘技界は寝技中心の総合が脚光を浴びていくだろうと思った。
当時、シューティングを創始した佐山サトル氏も、敏感にこの流れを予見していた。佐山氏も寝技におけるポジショニングは当分克服すべき技術の一つとして考え、グレイシー柔術には積極的に交流を始めた。USA修斗の責任者であった中村頼永氏から、当時、交流のあったヒクソン・グレイシーを日本で紹介したいという話しがあり、私が自分の雑誌でヒクソンを表紙にし、初めて日本で紹介した。
さらに、アルティメットルールを少しアレンジし、ポジショニングを重視した大会を日本で開こう、ということになり、私は中村氏とルールや大会概要を練り、94年に第1回のバリトゥード・ジャパンオープンが修斗協会主催で開催された。ちなみにバリトゥード・ジャパン・オープンと言う大会名は私が命名したが、私が関わったカラテ・ジャパン・オープンの名前のカラテ部分を入れ変えただけである。
ルールや大会概要も、私と中村氏でほとんど決めたため、記者会見で佐山氏は「細かなことは山田編集長に聞いてください。」と言ってしまった。
大会は一応成功し、この後、日本でもPRIDEや様々な総合格闘技団体が設立された。それなりの影響力はあったと思うが、彼らには、なぜ我々が日本でこのルールを紹介しようとしたのか、その真意まではわからなかったと思う。佐山氏も中村氏も私も、おそらくこのリングには最終回答はない。それは予見できたが、それを知るには体験するしかない。答えはその後に見えてくるだろう、という思いは一致していたという思う。
たまたま今読んでいる「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」と言う本で講道館創始者の嘉納治五郎が、私と同じ問題に直面し、悩んでいたという記述があった。
嘉納は、柔道は立ち技中心で、打撃にも対応できる実戦的なものでなくてはならない、と考えていたようだ。しかし、安全性を考え、当て身を禁じたら、ルールの中で勝つ柔道が発達した。特に高専柔道は寝技を中心にして、グレイシーのように自ら引き込みを多用するため、立ち技を重視する講道館はこのルールでは不利だったようだ。嘉納は武術なら、引き込み禁止と主張したが、高専側は、昔の合戦では最後は組打ち。だから寝技のが実戦的と反論し、受け入れなかったそうだ。
この辺の論争は今でも行われているものと変わらず、面白い。
しかし、私は寝技が本当に合戦で有効であったなら、世界各地の伝統武術に多様な技術が伝わっているはずだ、と考えた。最近では横山先生がガチ合戦を再現し、合戦において寝技は自滅行為だと言う事を証明した。実際、寝技を誇る柔道でさえ、有効な技術はほとんど高専の学生達によって開発されたと言う。
言わば、寝技とはルール化されて発達した当時としては最新の技術だったため、それを知らない講道館柔道に対して効果を発揮したのだろう。
木村政彦は大会に有効な最新の高専柔道も積極的に学び、やがて世界で闘い、柔道を広めた。ブラジルでエリオ・グレイシーを寝技で破り、授けた技術が、やがてグレイシー柔術と呼ばれるようになった。
合戦ではなく、一対一の競技、とくに逃げ場がなく、時間無制限の中では、寝技は最強となる。このことを熟知していたグレイシー柔術家は、立ち技の盲点をつき、アルティメット大会(UFC)で優勝したわけだ。
もし、嘉納治五郎がグレイシー柔術を見たら、さぞ頭を悩ましたと思う。