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   * 堀潤のテレビでは言えない話 vol.39 *

       ~シリーズ「福島から ラジオが伝える」の巻~

         

       発行:8bitNews  2014.8.11 (ほぼ日刊)

               

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皆さん!

こんばんは。
暑い日が続いていますね!皆さん体調を崩していませんか?
僕は先週木曜日に、福岡市内で映画「変身 Metamorphosis」の上映会を行った後、スカイマーク航空の最終便で東京に戻る予定でした。
ところが、凡そ35分遅れで機内に案内されたものの、いつまでたっても飛び立ちません。
気がつけば時計の針は、午後10時。
「今から飛んでも羽田におりたつ頃には日付が変わっているかな?」ともやもやしておりました。
というのも、平日は毎朝午前7時からTOKYO MXで「モーニングCROSS」の放送があります。
毎日、仕事が終わって翌日の番組準備をしてなんだかんだいって寝るのは深夜0時頃です。
飛行機の到着が遅れると、さらに寝られないのでしんどいなと思い、離陸のときを待っていました。
そして、10時半過ぎ。「ただいまより羽田に向け出発します」というアナウンスのもと、ようやく滑走路をはしりはじめ、機体はぐんぐん加速。
さぁいよいよ、離陸だ!やっと東京に戻れる!!!
と回転数のあがっていくエンジン音を聞きながら椅子に深くもたれかかったその瞬間・・・。

「パスッ・・・」

と音がして、機体が減速。
なんだ?なんだ?と思っていたら、そのまま離陸はできずに駐機場に逆戻り。

非情にも「コクピットに故障がみられたため引き返します」というアナウンス。
機内の利用客からも深いため息が聞かれました。

結局そのまま、この便は欠航。最終便のため翌朝まで東京に戻る便がなくなってしまいました。

「まずい。。。番組に間に合わない。。。」
焦って他の交通手段を探してみたものの、もちろん新幹線は既に最終が出た後。陸路は14時間かかるとあって、今から出発しても到着するのは午後2時頃。

途方に暮れながらTwitterにSOSをと思い、東京に戻る手段をフォロアーの皆さんに問いかけたところ、あっというまに皆さんが調べてくださり、隣の北九州空港で翌朝五時半にスターフライヤーの始発便があることがわかりました。ある方は丁寧に、予約状況まで調べてくださり「まだ空きがあるようですよ!」と教えてくださいました。

ホテルはどこがベストか?
「空港の近くの東横インです!」

福岡空港から北九州空港までの経路のベストは?
「新幹線の小倉行きの最終が11時28分ですよ」

など、皆さんがそれぞれアテンドしてくださりとっても助かりました。
まさにソーシャルの力ですね。

結局、翌朝番組には50分遅刻してしまいましたが、もし皆さんのサポートがなかったら番組そのものにも間に合わなかったかもしれません。

あらためて感謝です。

さて、話は変わって今週13日、水曜日。

69回目を迎える「終戦記念日」を前にニコニコ生放送で特別生放送。

『みんなの戦争証言プロジェクト 戦争体験者の話を聞く3時間』と題して、堀が2時間半にわたってインタビューした戦争体験者の証言をほぼノーカットでお送りします。

戦後70年を前に、戦争体験者の声を広く集めアーカイブし無料で公開していくプロジェクト「みんなの戦争証言アーカイブ」。 http://shootingstar.jp/projects/1058 

その中から今回皆さんにご覧頂くのは、俳優・宝田明さんのインタビューです。

宝田さんは現在80歳。1945年の終戦時には小学校5年生、満州でその日を迎えました。

宝田明さんのお父様は旧満州鉄道の社員。関東軍の訓練に参加し「わが国は自分が守る」と軍への想いを募らせていた宝田少年。待ち構えていたのは、8月9日、日ソ中立条約を破り突如国境を越え侵攻してきたソ連兵の脅威でした。

家族が犠牲になり、自らもソ連兵による銃弾を腹に受けます。 命からがら日本に引き揚げていくその様子は想像を絶する過酷なものでした。 戦後、俳優として、映画「ゴジラ」の主演も務めた宝田明さん。 これまであまり多くを語ってこなかった自らの戦争体験を今に伝えてくださります。 ぜひ、じっくり耳を傾けてみてください。



※8bitNewsでは、戦争体験者の声を集め、みんなが自由に使えるアーカイブの制作を目指し、資金を集めています。ぜひ、お力をお貸しください。

http://shootingstar.jp/projects/1058


それでは本日のコンテンツをお楽しみください。


皆様からのご意見やご感想は、
info@8bitnews.org までお寄せください!


お待ちしております!!!


▼前回「Vol.35」へのリンクはこちらです。

[リンク] http://ch.nicovideo.jp/horijun/blomaga/ar578777




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┗■  02.島日常論 大和田メール

   

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シリーズ『福島日常論  大和田メール』。

震災後、私たちは震災や原発事故の現状をどのメディアを通じて知ってきたか?
福島県の今をしっかり知る事はできているだろうか?
この連載では中央メディアではなかなか報じられない人々の日常の声を
地域ラジオ発のリポートで紹介して行く。

あなたがまだ聞いた事がなかったストーリーをラジオ福島ベテランアナウンサー、
大和田新さんが伝える。

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大和田 新 (おおわだ あらた)

1955年 3月28日生。神奈川県横須賀市出身。中央大学法学部政治学科卒。1977年4月、RFC(ラジオ福島)にアナウンサーとして入社。 以来30年以上にわたってニュースや情報番組から競馬中継などで幅広く活躍。現在の役職は編成局専任局長であり、現役のアナウンサー。ニューシニアマガジン 大和田新のラヂオ長屋(土曜7:00~13:00)、月曜Monday(もんだい)夜はこれから(月曜19:00~21:00)

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福島から学んで欲しい事 
スイスの学生達へのメッセージ


地域を支え伝える「ラジオ福島」大和田アナウンサー

大和田さんとの出会いはNHK退職直後の2013年春。

震災前から取材で繋がりのあった、福島県の地銀、東邦銀行の皆さんが
「堀さんに会わせたい人がいる」といって紹介してくれた。

大和田さんも僕に会いたいと思ってくれていたようで、一緒に昼食を食べすぐに意気投合した。
大和田さんは僕の両手をしっかり掴んでこう言って頭を下げてくれた。


「福島県のことが忘れられてしまうのではないか、そんな不安があるんです。堀さんの発進力で力を貸してください」。

すっかり恐縮してしまったのだが、僕からは「地元メディアの丁寧な取材に勝るものはなかなかありません。僕らの手の届かない現場の声をぜひ教えてください」と言ってこちらも握手をしながら頭をさげた。


僕が制作したドキュメンタリー映画「変身 Metamorphosis」は、大和田さんが車で当時警戒区域が解除されたばかりの浪江町や南相馬など原発周辺の街々を案内してくれているシーンから始まる。

大和田さんは、人を案内する時に必ず案内する場所がある。


一つは、いわき市の薄磯海岸。もう一つはJP富岡駅。

前者は、津波の被害で家々が流され小学生を含む大勢の方が亡くなった地域。
後者は原発事故によって震災から3年以上が経過した今も、
事故当時の状況と変らず荒れた景色がそのままとなっている場所だ。

双方の場所には共に石碑が立っている。

亡くなった人々を悼み、震災の記憶を後世に伝えるための文言が刻まれている。
「まずはここで手を合わせてもらえたら。時が過ぎ、景色も少しずつ変化していきますが、つらい災害で被害にあった方々に思いを馳せてもらえたらと思っているんです」。

ここで手をあわせ、そして、取材が始まる。

大和田さんが案内してくださる先々では、笑いも絶えない。
仮設商店街、医療施設、帰宅準備区域、原発構内、被災者もそうでない方も、共に同じように接し、時にユーモアを交えながら冗談を言って、
過酷な状況をお互い笑い飛ばす様子も度々目にしてきた。


しっかりとしたコミュニケーションで、現場を見つめる大和田さん。


一方で、今年4月に東京で開かれた原子力産業協会、原産協の年次大会では歯に衣着せぬものいいで福島の窮状を訴える強いメッセージを業界向けに発信していた。

福島県での震災関連死に歯止めがかからない現状に着目し、長期間にわたる避難生活や慣れない土地での暮らしが原発事故の被災者をさらに追いつめているとして「震災関連死ではなく、これは原発事故関連死と呼ぶべきだ」と、事故による影響の大きさを深刻に受け止めてほしいと訴えた。



このブロマガでは、毎週一回、「福島日常論 大和田メール」と題して、大和田さんの福島からの発信を皆さんにお届けする。

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「月命日」

「東日本・津波・原発事故大震災」から今日で3年5ヶ月経った。
福島県では5人の警察官が殉職している。1人はまだ、見つかっていない。


双葉警察署浪江分署に勤務していた古張文夫警部(55)はその日、非番だった。
直ぐに若い警察官2人をミニパトに乗せ、沿岸部に急いだ。そして、住民の避難誘導中に津波にのまれた。

震災からおよそ1ヶ月後の4月15日に、瓦礫の下から発見された。警察官の制服を着ていたので、からかろうじて古張さんだと判明した。

双葉警察署が作った慰霊碑が、発見現場にひっそりと建つ。

古張さんは酒と煙草が大好きだった。慰霊碑にはいつも欠かさず、供えられている。定年後は、故郷の矢祭町に帰って農業をするのが夢だった。

5人の殉職警察官に改めて感謝の気持ちを捧げる。「ありがとうございました」。

そして、この東日本大震災で、福島、宮城、岩手の被災3県で、地元消防団が253人も亡くなっている事を忘れてはならない。(阪神淡路大震災では消防団の死者は1名)

住民の命を守ろうとして亡くなった、町の英雄達を、決して忘れない。

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「捨てられた傘」

原発事故で、全町避難を強いられている浪江町。津波の被害が大きかった請戸地区。その請戸小学校に捨てられた4本のビニール傘。

今年の3月11日から、この場所に置かれている。

この日は、請戸小学校から、東京のテレビ局が全国放送を行った。この場所にはテレビ局のテントが張られ、中継車や撮影用のクレーンが我が物顔に設置されていた。

行方不明者の捜索に来ていた請戸の住民が、吐き捨てるように言った。「こんな時だけ来て!」。

震災から3年目のこの日、私は請戸小学校に入る事は出来なかった。呆れて見ていると、テントの外にいたテレビ局のスタッフが、吸いかけの煙草を地面に捨てた。その時、