小川椿九郎は剣の達人である。

教興寺の戦いでは迫りくる敵兵をバッサバッサと斬り倒し、鬼のツバクロこれにありとうたわれたのものだ。


しかしそれも過去の話である。

かつて椿九郎が仕えていた三好家は、当主の急死にともない、その後釜をめぐる内紛から衰退の一途をたどっていた。
剣の道一本に生きてきた椿九郎にとって、泥沼の政治抗争に嫌気がさすのは時間の問題であった。

齢三十も半ばを過ぎいよいよもって働き盛りのこの剣鬼は、今は戦に出ることもなく人里はなれた山奥で娘と二人、ひっそりと暮らしている。


「どうされたのですか父上」


椿九郎は己を心配する声で我に返った。顔を覗き込むのは愛娘のつばめである。


「ああ、少し呆けておったわ」


昔のことを思い出していた。などと言えば、娘はきっと目を輝かせながら話をせがんでくるであろう。
幼い頃から剣の振り方をみっちり教え込んだせいか、つばめはどうにも血の気が多い。女の身ながら噂話よりも戦の話を聞きたがるのだ。

山奥での暮らしで、周囲に女友達やちょっかいを出してくる男どもがいなかったのも原因の一つであろう。

もっとも、男手一つで育ててきた自慢の一人娘に近づく悪い男がいようものなら、鬼のツバクロが一刀のもとに斬り伏せてしまうだろうが。

「父上のお嫁さんになる」というのがつばめの口癖であった。ここ数年それを耳にしていないということは、つばめもそろそろ年頃ということなのだろう。ならばいい婿を見つけてやらねばなるまい。
そう思いながらも、いつか己のもとを離れていくであろうつばめの姿を想像すると、椿九郎は目頭が熱くなるのであった。


「ほらまた上の空。しっかりしてください、ボケるにはまだ早いですよ父上。これからは身の回りのことも一人でしなきゃいけないんですから」

「うむ、すまんなあ」


椿九郎はつばめにバレないよう、こっそりと袖で目を拭う。しかしその手がピタリと止まった。


「つばめ。これからは一人で、とはどういうことだ」

「父上、私は戦に出ます」




戦? 戦に出るって言ったの? 戦ってあの戦? あはん?



…………。




「ダメダメダメ! 許さないよ、父上許さないよ!」


時間にして数十秒ほど石と化していた椿九郎は、怒涛の勢いで息を吹き返した。


「どうしちゃったのさ、急にそんなこと言われても父上困っちゃうよ!」

「私も剣鬼の娘です。その名を天下に轟かせたいという父上の夢、私が継ぎます」


そうなのだ、焚きつけたのは間違いなく椿九郎自身である。酒が入るたびに長々と昔話を聞かせていたのがいけなかった。剣士として功名を立てる、そんな己の描いた夢がつばめの中で大きく膨れ上がり、そしてついに結実し熟れ落ちたのだ。


「やだーっ! やだやだやだ! つばめちゃん、父上のお嫁さんになるって言ってたじゃん! 村にもろくに下りたことないのに! 絶対悪い男につかまるんだい! わーん!」


鬼と呼ばれた男もこうなってしまっては飴をねだる童と同じである。

しかし風呂敷と木刀を携え、父を見据える娘の意思は固い。
この娘は父上に似て一度言い出すと聞かないのだ。


「……そうか、もう決めたのだな」


先に根負けしたのは父の方であった。


「しかしだ。お前はまだ戦のなんたるかを知らぬ」


己の気を鎮めるかのようにそう呟くと、椿九郎は使い込まれた木刀を手に取った。
結局のところ、この父子にとっては剣こそが語るべき舌なのである。生来口数の少ない椿九郎は、愛娘に剣の道を説くにあたり言葉よりも多くの刃を交わしてきた。


「超えねばならぬ壁の高さを教えるのも、また父の務めであろう」


鬼気迫る父の姿に応えるかのように、つばめもまた己の木刀を構える。
お互いに距離を保ち、鬼とその娘が対峙する。


「どうしても行くと言うなら、この父を倒し」

「めーん!」


スコーンッ!


父が言い終えるよりも早く、疾風の如き木刀の一撃が椿九郎の眉間に振り下ろされた。
そう、言葉よりも多く刃を交わしてきたのは、何も父ばかりではないのである。

「ぐふっ……」

「よしっ!」


父の威厳は平衡感覚もろとも弾き飛ばされ、額の皮膚をわずかに裂いた。
十余年もの間、剣の道とは何たるかを説き続けてきた父の目に、小さくガッツポーズを取る娘の姿はどう映ったのか。
手にした木刀がカランカランと音を立てて転がり、鬼のツバクロこと小川椿九郎はその場にドサリと倒れ伏した。


「安心してください父上、私は悪い男になどつかまりません」


父は仰向けに倒れたまま、娘の背を見送ることしかできなかった。







勢いに任せて実家を飛び出し早三日。

つばめは調子に乗っていた。


「うひょひょ! まー私に任せてください。賊が何人来ようがみーんな追い払っちゃうもんね!」

「いやー、先生のような方が用心棒として我が村をお守りいただけるなら、枕を高くして眠れますなあ」


とある小さな集落の村長宅で、つばめは盛大な歓待を受けていた。
宴の席には村の規模にはいかにも不釣合いな山海の幸が並び、器にも漆が塗られている。

村に足を踏み入れた途端、襲い掛かってきた前任の用心棒を一刀のもとに叩き伏せたことから、つばめはこの小さいながらも裕福な村の用心棒となっていた。

娘の世間知らずっぷりを案じた父からは、世間の冷酷さについては何度も聞かされていた。
しかし事の外するりと生活基盤が整ってしまったことで、つばめはすっかりいい気分になってしまったのである。


「いやあ、世の中ってちょろいなあ」


宴は夜遅くまで続き、冷たい雨が降り始めた明け方になってようやくお開きとなった。
村の者がみんな酔ってぐっすり寝入った頃、まるでその時を見計らっていたかのように、物騒な得物を携えた男の集団が村のはずれに姿を現した。

雨音に紛れかすかに響く足音に気づいたのは、村でただ一人つばめだけである。


かぶりを振って意識を覚醒させると、つばめは音を立てないようゆっくりと、実家から持ち出した愛刀に手を伸ばした。そして静かに耳を傾け足音を数える。


「六人か、やれない数じゃないな」


すらりと抜き放たれた刀身には、怖れを知らぬ少女の大きな瞳が映っていた。







刃は白く濡れていた。


雨音は遠く、いつしか怒号を織り交ぜた鋼の大合奏へと変わる。

その数、一と六。


打ち合わされる刃と刃。剣戟の中心で血風の舞を演じるのは、一人の華奢な剣士である。

年の頃は十四、五であろうか。少年とも少女ともつかぬ風貌ではあるが、その剣舞はまるで地獄の鬼のようであった。

刃先が鈍く煌き、剣士の白い肌をその刀身に映すたび、それを囲む雑兵の群れが一人、また一人とぬかるみに崩れ落ちる。

半分の三人が倒れたところで、残った雑兵の一人が口を開いた。


「思ったよりやるじゃねえか。お前、何者だ」

「小川つばめ、この村の用心棒だ」

「そうかい、女みてーな名前だな。じゃあ俺は逃げるぜっ」


そう言い放つや否や、その男はつばめに背を向けて脱兎の如く逃げ出した。


「逃がすと思うか!」


つばめは使い慣れた愛刀を構え直し、一息に男との間合いを詰める。
大地を蹴り上げる足先からしぶきがあがり、つばめの体は放たれた矢の如く雑兵に迫る。

鋭い切っ先がその背に突き立たんとするまさにその時、つま先が空を切った。


ズボッ!


「なにぃぃぃ!?」


ぬかるみに足を取られたのではない。そもそも足を取るべき地面がそこには存在しなかったのだ。つまるところ落とし穴である。


つばめの体は空中でぐるりと一回転すると、溜まった泥水に尻から落ちた。


「うひゃあっ!」


ドボン! というマヌケな音が穴の底から響く。

つばめが水面から顔を出すと、穴はどうやら使われていない古井戸のようであった。
雨水が溜まっていなければ、きっと乾いた硬い土に打ちつけられていたことであろう。

見上げると、そこにはあの逃げた男の顔があった。


「ぐぬぅ、卑怯だぞ貴様!」

「卑怯だあ? 俺はおサムライ様じゃねえ。勝ちゃあいいのよ、うけけけけ」


下卑た笑い声をあげる男は、穴の底に落ちた若き剣鬼を見下ろし勝ち誇っている。そして笑いながらポチャンポチャンと手に持った黒い何かを穴の中に次々と投げ入れていた。


「覚えておけ、こいつが足軽の流儀ってやつだ。俺の名は三郎左衛門。それと今放り込んでいるのはドジョウだ」

「やめろおおおおお!」




天正八年。

小川つばめは悪い男につかまった。