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窪寺博士のダイオウイカ研究記-その29
【本号の目次】1. 早朝の臼尻漁港2. 氷温麻酔3. 高原君の我慢4. スルメイカの吸水量
早朝の臼尻漁港翌朝早く起床して実験所をぬけだし、臼尻漁港に定置網の水揚げを見に行ってみた。9月ともなると空気は冷たく、周囲の低山は紅葉の盛りであった。定置網を揚げた漁船がちょうど港に戻ってきた。ゴメ(おおせぐろかもめ)がたむろする岸壁に船をつけると、大きな掬い網で漁獲物を水揚げする。漁獲物のメインはサケである。水揚げすると直ちにシロやギン、カラフトマスに選別して、シロザケはさらにオスとメスに分けて大きなコンテナに入れる。残りのザッパは木製の幅広の樋を通しながら、両側に立った漁師たちが手際よく選別する。やはりシーズンである。スルメイカが面白いように投げられて、魚籠に溜まる。臼尻にこんなに大勢の若手漁師がいるのかと驚くほど、活気のある朝の風景であった。話を聞くと、最近は海水の温暖化でスルメイカの回遊経路が変わってきて、噴火湾沿岸の定置網で漁獲が多くなってきたとのことである。桜井先生を頼って、スルメイカの泳ぐ力を調べに東京から来たと話すと、あきれたような顔をされた。
早朝の臼尻漁港。定置網を引揚げて帰港した漁船から漁獲物が陸揚げされて、選別作業の真っ最中
定置網にかかったスルメイカを選別して漁籠にいれる氷温麻酔桜井先生は、状態の良いスルメイカを手に入れるために、氷温麻酔という方法を考案した。聞いたところ、それほど難しい話ではなく、まずは定置網の元船に乗せてもらう。定置網の箱網が絞られて、スルメイカが表面近くまで浮いてきたところを、体を傷つけないように底布を張ったタモ網で掬い上げ、直ちに海水氷を入れた冷たい海水に漬けるのである。秋とは言え海水温は10°Cを超えるところにいたスルメイカを0°Cに近い冷たい海水に放り込むのである。人間ならば心臓マヒで「彼の世行き」であるが、スルメイカは冷たい海水を外套膜の中に吸い込むと、一瞬でポンピングを止めて仮死状態になるという。その状態で実験水槽まで運び、もとの水温の海水に入れるとほんの数分で息を吹き返し、深刻な後遺症などは全く見られないとのことである。このような麻酔方法があるのを聞いて、スルメイカの吸水量を測る実験を思いついたのだ。高原君の我慢朝食の後、実験所の一階にある大型水槽の設置場所を下見してみた。板囲いされた狭い空間に、深さ約1m、横6m、幅約2.5mほどの楕円形のグラスファイバー製の水槽とその後ろに大型の水温調整装置が鎮座して、水槽内の海水を一定温度に保っている。水槽の周囲は狭い通路で周囲の板壁は暗幕が吊るされている。調光できるライト・システムで光の周期をコントロールすることもできる。水槽の中には、体長25~30㎝程のスルメイカが十数個体優雅に泳いでいた。スルメイカを飼育している実験水槽とお手伝いをしてくれた高原君
昼過ぎに、高原君が漁協の冷蔵施設から手に入れた海水氷をバケツに満杯にして、顔を出した。早速、今日の段取りを打合せする。まず実験水槽から健全なスルメイカを手網で水面まで引き上げ、注意深く両手で抱え空中にだし外套内の海水を吐き出させる。それを確認してから海水氷を浮かべたバットに移す。すると、スルメイカは冷たい海水を吸い込んで、仮死状態になる。なったところで外套長を測定する。バットから取り出し、漏斗口からストローを押し込んで外套内の海水を容器に押し出す。そしてメトラーで体重を量り、水槽にもどす。容器に溜まった海水をメスシリンダーで測れば、吸水量が分かるという実験計画である。
ただし、スルメイカを取り扱う際には両手を海水氷に漬けて、冷たく保つ必要がある。人間の体温ではスルメイカを火傷させてしまう恐れがあるのだ。そのため、高原君は海水氷バケツに手を漬けて冷たく保ち、我慢・我慢の辛い仕事になった。申し訳なかったが、私はその実験の様子をビデオで記録することに集中していた。その夕方、近くの大船下温泉に高原君を連れだして慰労したことは言うまでもない。氷温麻酔をしている高原君とスルメイカ。入れるとすぐに墨をはくので、直ちに新しいバットに移し替える。さらに墨をはくようであれば、次々に新しいバットに移し替える。2回か3回で動かなくなる氷温麻酔にかかったスルメイカ。体色を濃くして仮死状態になるスルメイカの吸水量桜井先生との約束で実験に供したスルメイカは二個体。No. 1は、外套長:224㎜,体重:310.8g、No. 2は外套長:222㎜、体重:279.0gで、各々3回の吸水を測定した。No 1. は、1回目117ml、2回目123ml、3回目119ml。No 2. は各々138ml、120ml、85mlであった。体重当たりの吸水量は、No. 2 の3回目を除くと、37.6~49.5%で、平均で体重の約40%になることが分かった。あの時のダイオウイカの体重は約50㎏であったことから、体重の40%近く、約20Lの海水を外套内に吸い込むことが出来るものと判断された。これで吸水量 (20 L)、吸水時間 (1.96 sec)、噴出量=吸水量 (20 L)、噴出時間(2.02 sec)、漏斗口の直径 (160-180 mm)と、ダイオウイカの遊泳力を推定するためのパラメーターの用意ができた。あとは、数式をたててシミュレーションして解を求めれば、泳ぐ速度が予測されるはずである。
しかし、実際に数式を考えシミュレーション解くには、私には物理学的、理工学的、運動力学的な素養がまったく不足していて、どのように進めればよいのか皆目見当がつかなかった。 -
窪寺博士のダイオウイカ研究記-その28
【本号の目次】1. ダイオウイカの遊泳力2. ポンピング3.北海道大学水産学・桜井泰憲教授4. 臼尻水産実習所
ダイオウイカの遊泳力スペインの古都ビゴからパリ経由のトランジットとエコノミーフライトで約20時間の空白時間の後、9月13日の夕方やっと成田空港に帰り着いた。8日間におよぶ国際頭足類シンポジウムの出張が無事終わった。拙い英語であるが、期間中に海外の多くの研究者と話が出来てダイオウイカ研究のモチベーションが上がった。頭足類行動学の気鋭ロジャー・ハンロン博士からは、2006年に海面まで釣り上げた時の映像からダイオウイカの推進力(パワー)と速力(スピード)を推定することが出来るのではないかと、サジェッションを受けた。
シンポジウム・ポスター会場でロジャー・ハンロン博士とツーショット。第2回のCIACシンポジウムからの長いお付き合いである。触腕の1本切れたイカのT-シャツは、2006年、私が撮影した静止画のダイオウイカをデザインしたもの確かにあのとき一番驚いたのは、漏斗から噴出する水の勢いだった。海面が盛り上がるほどの勢いでブシューと長く海水を噴き出す力は想像を絶していた。ロジャーに言われるまでもなく、実はこのビデオ映像を基に、なんとかダイオウイカの遊泳力を求めたいと、2007年の秋に北海道大学水産学部付属の臼尻水産実験所で、ちょっとした実験を行っていた。
漏斗の口から海水を噴き出す4フレームごとの連続写真、24/30秒(ビデオ映像より抽出)ポンピングイカは泳ぐために、外套膜を膨らまして頭部と外套膜の隙間から海水を取り込み、頭部の隙間を襟弁で閉じると外套膜を収縮させて、漏斗の先の細い口から勢いよく海水を噴出することで推進力を得ている。この海水を吸い込み噴出することを繰り返す、いわばポンピングで速力をあげる。ヒレを使って泳ぐ魚類がレシプロ泳法であるなら、イカはポンピング・ロケット泳法である。したがってイカの遊泳力は、漏斗から噴き出す海水の量と噴き出す時間、漏斗口の太さの関係で推進力(パワー)が導き出せるはずである。そしてポンピングによる加速と海水との抵抗により速力(スピード)が決まるものと考えた。ビデオ映像は1秒間に30フレーム(静止画)からなる。映像を1フレームごとに詳細に観察して、外套膜が膨張して水を吸水する時間、外套膜が収縮して漏斗から海水が噴き出す時間を推定して平均値を求めることにした。ダイオウイカのビデオ映像から、はっきりと吸水と噴出が観察できたのは5回で、吸水するのに平均1.96秒、噴出するのに平均2.02秒かかることが導き出された。また、漏斗から水を噴き出す際の先端の最大直径は、映像中のイカ角(白いルアー)の大きさ及び標本の測定から16~18㎝と推測された。北海道大学水産学部・桜井泰憲教授
当時、私の母校である北海道大学水産学部では、大学院課程の1年先輩であった桜井泰憲教授がスルメイカの再生産様式・産卵生態を飼育と実験を通じて明らかにする画期的な研究を進めていた。桜井先生は、噴火湾に面した海岸に建つ水産学部付属の臼尻水産実験所に、楕円形の大きな水槽と水温調節装置を組み込んだ実験水槽を設置した。臼尻近辺の定置網にかかるスルメイカを氷温麻酔して状態のよいまま水槽に運び、飼育水温の違いによる成熟過程と自然産卵の可能性を追求していた。同じ北洋水産研究施設の大学院生室で5年間も机を並べ、ソフトボールにテニス、渓流釣りに山菜採りと遊び歩いた間柄である。どんな無理難題でも聞いてくれる兄貴のような存在である。実は2007年のイカ類資源研究会議の席上、桜井先生のスルメイカの飼育実験の話を聞いたときに、ダイオウイカの吸水量を直接測ることは出来ないが、スケールダウンしてスルメイカの吸水量であれば実験的に測ることができると閃いた。年は異なるが2011年、横浜で開かれたイカ類資源研究会議で桜井先生とのツーショット。30年越しの交友関係。二人ともこんなスーツを着ていることはめったにない、馬子にも衣裳臼尻水産実験所2007年9月3日朝早く、羽田空港からANAに乗機して函館空港へ飛んだ。空港でレンタカーを借りて七重浜に立つ母校の北海道大学水産学部へ向かった。桜井先生の研究室に出向いて、今回の実験の概略を説明した。合わせて使わせてもらう機材とスルメイカの手当をお願いした。以心伝心である。桜井先生の研究室の大学院生でスルメイカの氷温麻酔を習熟した高原君が協力してくれることになった。市内のスーパーで食料品や飲み物を調達して、川汲峠を越えて噴火湾に面した臼尻に向かった。臼尻水産実験所では、同じ北洋水産研究施設で学位を取得した後輩にあたる、宗原弘幸所長が出迎えてくれた。北洋研で学んだ仲間の絆は心強い。臼尻水産実験所は、私が大学2~3年次にアクアラング部に所属していた時に合宿や訓練でたいへんお世話になった施設である。もう45年近く前のことである。春のゴールデンウイーク合宿は水温5~6°Cの中、片面シャークスキンのウエットスーツにフードをかぶり軍手に台所用のゴム手袋を着けて、実験所前の海でマウスtoマウスやフリー・アッセンドなど安全潜水の訓練をしたことが思い出される。北海道大学水産学部・臼尻水産実験所、大学2~3年次にアクアラング部の活動で大変お世話になった臼尻水産実験所の前浜の海でアクアラング部の訓練ダイビングする私。よく見ると腕にミズダコがくっついている -
窪寺博士のダイオウイカ研究記-その27
【本号の目次】1. オバマ新大統領2. 科学研究助成金の不採択3. 2009年、国際頭足類研究シンポジウム4. シンポジウムの研究発表オバマ新大統領2009年は年明け早々、米国の大統領が共和党のブッシュ氏から民主党のオバマ氏に移行した。対岸のことではあったが、好戦的なブッシュ大統領から穏健派で初めての黒人大統領、それも学者肌ということで、今後の世界平和や学術研究の進展に大きな期待が持たれた。私もその快挙に拍手を送った一人である。3月にはルーティンワークのマッコウクジラ胃内容物の調査のため、清水市にある東海大学海洋学部の大泉研究室に出向いた。鯨類研究所からは田村さんと磯田さんが押っ取り刀で駆けつけた。いつものように有志の学部学生にお手伝いをお願いして胃内容物の処理作業が始まった。今年は大泉研の大学院生を始め12~15名ほどの学生が参加してくれた。しかし解析する胃内容は北西北太平洋で捕獲された雌3頭分のサンプルしかなく、実質3日で作業が終了、すこし不完全燃焼的な幕切れとなった。クラゲイカとヒロビレイカが主体をなしたが、常連のキタノスカシイカ、キタノクジャクイカ、ニュウドウイカが出現した他、特大のタコイカ、テカギイカ属数種、ツクシユウレイイカなどが出てきた。魚類では消化の進んだイレズミコンニャクアジが査定され、マッコウクジラが捕食する魚類として新記録となった。
消化の進んだ胃内容物から頭足類の上下顎板、寄生虫のアニサキス、大型イカの精莢をソーティングする
マッコウクジラの胃内容物として魚類はほとんど出てこないが、今回は消化の進んだ魚類の頭部が見つかり、顎骨格、耳石の形態からイレズミコンニャクアジと査定された
科学研究助成金の不採択平成21年度がスタートした4月初旬、科学研究助成金担当の職員からメールが入った。なんと昨年申請しておいた「中深層性大型頭足類とマッコウクジラの共進化的行動生態に関する先駆的研究」が不採択になったとの知らせであった。直ちに、プロジェクトのメンバーである天野・青木グループ、大泉・庄司グループ、小笠原の森さんと磯部さん、そして深海カメラ開発の五島さん、リトルレオナルドの鈴木さんに科研費不採択のメールを送った。皆から落胆の返事が返ってきた。なんてこった・・・
研究費がなければ新しい超小型深海HVカメラやバイオロガーの開発も小笠原での調査も駿河湾の新たなプロジェクトもすべて水の泡になってしまう。来年度の科学研究助成金に再度応募するとしても、この一年間のブランクは致命的になるかもしれない。しかし、無い袖はどうしても振ることはできない。ここは視点をかえて、来年度の科学研究助成金に採択されるための戦略を1年かけて練ることにした。共同研究の皆さんの意見をしっかり聞いて納得のいく申請書を用意するのだ。
2009年、国際頭足類研究シンポジウム2009年は三年おきに開催される国際頭足類諮問評議会(CIAC)のシンポジウムが、9月にスペインの古都ビゴで二週間にわたって予定されていた。1988年に米国ワシントンで開かれた第二回のシンポジウムに初めて参加して以来、東京、英国ケンブリッジ、米国サンタバーバラ、スコットランド・アバディーン、タイ・プーケット、豪州ホバートと毎回顔を出して9回目を数える。前回の2006年のホバートでは、小笠原父島沖で撮影したダイオウイカの連続静止画を解析した研究成果を口頭発表して、参加していた200名あまりの頭足類研究者の度肝を抜いた。今回は科研費がないので自費の参加となるが、日本代表として行かないわけにはいかない。参加するからには前回同様、世界の頭足類研究者がアッというような研究発表をしたい。そこで、この三年間小笠原父島近海で行ってきたHD深海カメラ調査を総括し、撮影された映像を詳細に見直すことにした。シンポジウムの研究発表要旨研究発表のタイトル:
”In situ observations on bait-attacking behaivours of neon flying squid and diamondback squid off the Ogasawara Islands”(小笠原諸島沖のアカイカとソデイカの餌攻撃行動の直接観察)
要旨:
2006年から2009年の3ヵ年の調査で、HD深海カメラの撮影は延べ108回におよび、総計135.4時間の深海映像を得ることができた。出現したイカ類は、アカイカ、ヒロビレイカ、ソデイカの3種で、1時間当たりの出現回数は、1.87、0.18、0.01の順でアカイカの出現率が最も高かった。また6~12月の調査期間中、3種ともに12月の出現率が高かった。アカイカは水深450~1000mまで出現するが450~700mで出現率が高く、ヒロビレイカは600m以深に出現し、700mで出現率が高い。ソデイカは水深600mで2個体が撮影されただけで、ダイオウイカと同じように光に寄ってこない習性があると示唆された。
餌を襲う際の映像から、アカイカとソデイカは視覚により餌を認識していると推察された。この二種は、発光器をつかったヤツデイカの攻撃行動よりも比較的単純な行動パターンで、腕を前に直線的に接近して八本の腕を大きく広げて餌を抱え込むように襲うことが示された。また、アカイカは餌を襲う場合や交接の際に体全体から瞬時に光を発することが確かめられた。この光は、雄と雌が出会い交接する際に、なんらかの意思疎通手段として使われるものと推察された。
研究発表で使ったパワーポイントのスライドを何枚か紹介する。発表スライド:2006~2008年の調査時期と調査海域、深海カメラ操業回数、実質撮影時間
発表スライド:月別・水深別のアカイカ・ヒロビレイカ・ソデイカの出現率(1時間当たり)
発表スライド:アカイカの餌攻撃行動(動画)
発表スライド:ソデイカの餌攻撃行動(動画)
世界各国から集まった200名を超える頭足類研究者の前で、ビデオ映像を交えて口頭発表をおこなった。前回のダイオウイカとは比較にならないが、アカイカの発光やソデイカのアタックなど、それなりの反響はあった。
研究発表の行われたシティーホール会場(200名を超える頭足類研究者が参加した)期間中にエクスカーションで訪問したサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂。9世紀頃、エルサレムで殉教した聖ヤコブの遺骸が埋葬されたという伝説のあるキリスト教「ヨーロッパ三大聖地」の一つ
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