最近のニュースで〝クリミア・タタール人〟について知る機会が増えたと思うが、私の知っているタタール人は、母語はロシア語で、ロシア人と言われればそうですかと言うしかない。モンゴル系かどうかの見分けもつかない。先祖は日本人ということで、冗談かもしれないが、一般の人なら持たないであろう神器を所有している。そして、この人の目の色は青い。これが後の話に関連するので、ちょっと覚えておいてほしい。

 タタールというのは人種ではない。中央アジアの遊牧民族を便宜的に区別するなかで生まれた名称である。トルコ系かモンゴル系かも厳密には不明確で、トルコ系というのもいまのトルコ共和国を直接指すものではないので、テュルク系という言い方をすることがある。その方が広義の意味になるので、ここでもテュルク系と言うことにするが、とにかくタタール人のなかには見た目が日本人と同じような人も含まれているし、私たちにより親しい言葉で言えば、韃靼人(ダッタン人)いうのがタタール人のことである。

 この人たちの先祖が、古代に日本に来ていたのは確実である。記録にあらわれるのは、東アジアに根を張っていたツングース系の粛慎(しゅくしん/みせはし)や、その同類で高句麗の主流民族だった靺鞨(まつかつ)という民族だが、このツングース系とかテュルク系とかモンゴル系とか言っているのは、主として言語の違いである。日本語はツングース系になると思うが、他のツングース言語と違って、語彙にかなり南方語が入っている。というより、日本語は南方語を主流としながらツングース系の文法を取り入れた節がある。

 したがって日本語は、ツングース系・テュルク系・モンゴル系と文法は似ているが、単語がまるで違う。だからモンゴル語やトルコ語を聞いていても同じ言葉とは思えない。よく朝鮮語と日本語の類似性を言う人もいるが、これは同じツングース系の文法で語順が同じというだけで、聞いていて特に類似性を感じることはないはずである。ある種の支配層は別にして、百済と新羅と高句麗でも言葉が違っていたし、渤海の靺鞨人との交渉でも漢文での筆談がなされたようである。7~8世紀当時からすでに語彙がまったく違っていたわけだから、別の言語と言うしかなく、日本語が古くから独自の生成を遂げたらしいことはうかがえる。

 日本語のある種の方言や、デリカシーを喪失した日本人で話し方のうるさい人のアクセントを聞いていると、朝鮮語に近いと感じることはある。日本語は本来、音程が穏やかでも通じるにも関わらず、現代人の会話によけいなアクセントが多いと思われるのは、お笑い番組の影響かもしれないし、携帯電話だと声が大きくなりがちということも影響しているかもしれない。若い男性の声が高くなっているというのは10年来言われているが、中年でも坊ちゃん系の人は声が高い。別に良い悪いの話ではなくて、そういう現象があるというだけのことであるが、冒頭で触れた私の知るタタール人は、昨今の日本人よりはるかに美しい日本語を話す。古典の文章も読める。先祖が日本人であることに誇りを持っているのである。

 さて前回のvol.38で、平将門および坂東平氏なるものの〝民族問題〟について話した。この問題の延長線上に皇統の正体があるのだが、そこまで話が行くためにはもう少し時間がかかる。一般に流布している日本の歴史が、幾重もの錯覚を孕んでいるため、ひとつひとつの問題を周辺から取り囲んでいく必要がある。日本人は一般的に過去のいきさつに無自覚なのだが、現在というのは必ず過去によって動かされている。昔のタタール人のことも記憶からほとんど消されているが、彼らは古代日本に製鉄産業をもたらした人々である。その技術が関東でシステム化されたとき、平将門のような〝つわもの〟が出てきたのである。

 製鉄技術は大陸から朝鮮半島を経て出雲・吉備に伝わったとされるが、関東の鉄産業は北方・日本海および東北・常陸ルート、南方からの房総・常陸ルートである。将門の地元の茨城県では尾崎前山の製鉄遺跡が知られているが、製鉄炉を意味する〝たたら〟がタタールから来ているという説はよく知られている。すると〝祟り〟はどうなのかという話も出てくる。

 将門の乱というのは、もともとは地元ヤクザの内輪揉めから始まって、その原因は土地争いと言われているが、実態は製鉄利権をめぐる抗争だったと見られる。製鉄業は異人の産業であるから、小競り合いを繰り返していた人々はほとんど無国籍な人々で、これを平氏一族の争いと思わされているのは後世の錯覚である。vol.38で述べたように、彼らを平氏と思い込んでいるのは、後に作られた平氏系図を先入観念として持っているからにすぎない。彼らの存在を伝える系図も物語も、辻褄合わせのために後から作ったものである。

 本ブロマガVol.36で、戦国期に流布した『人国記』という書物の話をしたが、そのなかに奥州の特徴として、目の色の青い人がいると書かれてあったことを思い出してほしい。将門も実はそうした人だったかもしれないのは、鎌倉幕府の成立をリアルタイムで見ていた朝廷貴族・九条兼実の日記『玉葉』に不思議なことが書いてあるからだ。

 九条兼実は、源頼朝の挙兵時に右大臣だったが、この関東独立の狼煙に際して「あたかも将門のごとし」と日記に書いている。当時すでに将門の乱から240年を経ていたが、それでもなお朝廷では将門の乱がトラウマのごとくによみがえっていたのである。そして彼の日記『玉葉』によると、各地で平家打倒の挙兵が相次いで騒乱状態となった治承4年(1180年)、この年の12月4日に問題の記事が書かれている。

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 右上の「頼業云」からである。頼業というのは、大外記(だいげき)という職にあった学者官僚・清原頼業(きよはらのよりなり)のことと思われる。その頼業が兼実のところに来て、関東の乱逆情勢につき改元などを検討するなかで、将門の乱のときの事例が話題になった。そのときの話のなかで、頼業がこんなことを言ったという。
 頼業云はく、昔将門謀叛の時、八幡大菩薩の御使となり、壮士一人天より降り、将門の前に来たり。件の男、眼の色青しと云々。朕の位を授く由を称す。これにより謀叛の心を起こす云々。先年この事を信西に語る。信西云はく、亡国の夭者天より降るという文あり、将門知らざるか云々。又云う、将門は帝者の運ある者なり。尊意贈僧正調伏の法験黙止(もだ)さず、将門の首を得るといえども、王者の運ある者を降伏するにより、尊意又五ヶ日を経て夭亡すと云々。

 ※青字は引用者による着色。
 
 この話は『将門記』には書かれていない。『将門記』が記すのは、八幡大菩薩の使者という巫女がやってきて、八幡神と菅原道真の霊の名の下に、将門に天皇位を授けるお告げをしたという話である。しかし上記では、八幡大菩薩の使者が〝天から降った一人の壮士〟である。そして「朕の位(天皇位)を授ける」と託宣したその人は〝青い目〟をしていたという。