都合のよい真実
   ――児戯世界の末路①


▼カッコつきの〝真実〟

 多くの人が歴史の真実を知れば、世の中は変わるだろうか? この問いの答えを求める前に、まず問いの問い方が正しいかどうかを考えなければならない。まずこの問いは、二重の意味で問題がある。ひとつには、歴史の真実がすべて解明されるということがあり得ない。したがって、歴史の真実を多くの人が知るということもあり得ない。このような二重のあり得なさを前提とした問いかけには、何の意味もない。

 では、問い方を替えてみよう。仮に誰かが「歴史の真実を明らかにした!」と主張したとする。そして、その主張が多くの人に真実と信じられたとき、果たして世の中は変わるだろうか。この問い方がひとまず有効なのは、実際にカッコつきの〝真実〟によって歴史が動いた過去があるからだ。しかし、それはたいてい、物事の一面が強調された結果である。そしてその一面というのは、ある一定の人々にとって都合のよい一面に限られているのが常である。

 たとえば、日本は古代以来、国柄に一貫性を持った最古の国である、という言説があったとする。確かにそれは、一面の真実を述べているとは言えるかもしれない。なので中世にはすでにそのような言説があり、当時の知識人も、そのカッコつきの〝真実〟について、少なくとも表向きの態度としては、あまり疑っていた形跡がない。なぜなら、中世の知識人にとって、そのカッコつきの〝真実〟というのは、外交上都合のよいことだったからである。

 つまり、世の中の〝真実〟は方便にすぎないが、それを〝都合のよい真実〟すなわち方便と知っていて〝真実〟と主張するのと、知らずに主張するのとでは、大きな違いがある。そして現代人は、この〝方便〟をほとんど使いこなせていないのではないかと思うことがある。歴史の問題においてはもちろんそうだが、最も方便が必要なはずの政治の問題においてもそうである。さらに言うなら、社会問題一般すべてにおいてもそうだと言っていい。今日の世間にあふれているのは〝方便〟ではなく、単なるウソか、単なるホントかでしかない。